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このコラムは、企業経営者、団体のリーダーなどの方々にご登場をいただき、読書を基本軸に仕事や生活、文化、芸術、経済、哲学、を語って頂くコラム、エッセイです。
第35回「読書雑感」は、歴史作家の好川之範さん『北の駒澤人と司馬遼太郎』をお届けします。筆者好川さんは1946年札幌生まれの団塊の世代、駒澤大学を卒業後、札幌市に地方公務員として就職され地方行政に長年力を尽くされてきました。特に環境分野、文化の分野で力を発揮され、札幌市教育文化会館館長として文化の保持、発展、育成に大きな努力をされてきました。現在は歴史作家として活躍をされ話題の著作を多数上梓されております。昨年10月北海道新聞社から発刊の『坂本龍馬―志は北にあり』は、龍馬と北海道の関わりを緻密な調査と多数の資料から書き上げられた新たな“龍馬本”として大変注目をされております。今回の「読書雑感」では、司馬遼太郎と北海道の関わりや駒澤大学OBの魅力的な人々について原稿を寄せていただきました。どうぞお楽しみに。
■第35回 「 北の駒澤人と司馬遼太郎 」
♪吉川静夫「女のためいき」作詞家の星野哲郎さんは、日本人の「泪」の姿の表現者として、天下第一の言葉の達人だった。ジャンルは演歌だが、短詩型文学の旗手と呼んでいい。 星野さん、惜しまれて平成22年11月15日逝去。戦後の歌謡界をリードしつづけてきた人の死だった。星野さんの朗読詩集『いろはにそらしど』(ユーズミュージック)は、サトウハチローが序文を寄せた名作である。 札幌Gホテルで、筆者と星野さんが美酒をかたむけたのは、平成8年秋のことで、そのとき星野さんから聞いた話を、いま思い出しながら書いている。こんな話であった。 星野さんの若きある年、函館ゆかりの詩人石川啄木(岩手県曹洞宗寺院の長男坊)に憧れ、津軽の海をこえて函館にやってきたのだ、という。その日、函館の土を初めて踏みしめ、手帳に「はるばるきたぜ」と感激をメモし、そのメモはやがて詞にふくらみ、北島三郎「函館の女」が誕生した、とのことだった。 その夜、星野さんにひとりの駒澤人のことについて聞いてみた。 明治41年(1908)、札幌生まれ、帯広育ち。小学校の校長先生を経て、作詞家としてその名を広めた。駒澤大学文学部出身。仙人のような、哲学者のような、そんな風貌の人であった。戦前、戦後を通じて、歌謡曲の詞を書きつづけ、森進一はじめ、淡谷のり子、鶴田浩二、フランク永井、松尾和子、青江三奈、橋幸夫、ちあきなおみ……、いろんな歌手に詞を書いた。 男と女の虚実を歌にした。 昭和40年代の初め、この歌が大ヒットしていた時代、筆者はまだ青クサイ駒澤大学生であった。 吉川静夫。北海道が生んだ駒澤人を表徴する人であろう。平成11年、横浜で両目を閉じる。 大河ドラマ「江」そして「静」根室市の市営西浜町墓地に、まるで世間をはばかるように、背丈70センチのつつましいお墓がある。 「あの墓にだけは近づくな」―。長い間、そう言われつづけてきた墓だった。ところが昭和63年(1988)夏、墓にねむっている死者の名が、「梶原平馬」とわかり、事態が一変するのだ。 会津藩最後の筆頭家老の墓だったのである。平馬は坂本龍馬の薩長同盟の流れに対抗して、東北や新潟の雪国諸藩の大連合軍を形成し、戊辰戦争(維新の内戦)が敗北におわったとき、平馬は26歳であった。 それ以降、行くえをくらましたが、関係者の墓調査の依頼を受け、根室市の曹洞宗耕雲寺の住職(先代)が、無数の墓の中から探し当てた。 平成16年夏、梶原平馬のひ孫にあたる兄妹が初めて墓前に立ち、供養した。この日、筆者も機縁により、札幌から出かけた。 墓前で音楽家のひ孫おふたりは、兄がリコーダーで「荒城の月」を奏で、妹が歌った。詠歌である。 そのとき、現住職の桍谷(はかまや)良憲さんが兄妹ふたりに、言い放ったひと言が印象的だった。 「(詠歌は)私のお経よりも何よりの供養になりました」 感動的な日であった。桍谷住職、駒澤大学仏教学部出身。北海道第一級の歴史的人物の墓を見守る宗教者である。 以下は余談である。 NHK大河ドラマ「江」は、2代将軍徳川秀忠の正室である。その秀忠と側室「静」の間に誕生した男子が、会津藩初代のお殿さまになり、それから200年余ののちのお殿さま松平容保を支えたのが、最後の筆頭家老の梶原平馬なのである。 北の街道をゆく富士メガネは、札幌市中央区に本店(狸小路4丁目)をおき、全国68店舗を展開するメガネと補聴器の老舗だ。海外難民への視力支援活動で、注目をあつめている。 創業の地は樺太(サハリン)で、創業の精神は「富士山のごとく気高く」から、この名が命名されたという。 昭和53年、司馬遼太郎は『街道をゆくー北海道の諸道』(朝日文庫)の取材で札幌滞在中、メガネをどこかに置きわすれ、宿泊先ホテルちかくの富士メガネグランドホテル前店でメガネをあつらえた。 『街道をゆくー北海道の諸道』で司馬は、 駒澤大学法学部出身の三浦信一さんは、富士メガネ常務取締役(狸小路本店支配人)だ。いつぞや、「富士メガネと司馬遼太郎」で筆者と三浦さんは、話を弾ませた。そんな縁で筆者との交流が今も続く。 司馬遼太郎の北海道を舞台にした『街道をゆく』シリーズは、もう一巻が発行されている。 『街道をゆくーオホーツク街道』(朝日文庫)というタイトルだ。太古の昔、北海道にも足跡をのこした海洋民族オホーツク人をテーマにすえた。平成4年、北海道の取材旅行に同行した朝日新聞の村井重俊記者(北海道出身、筆者好川の友)のインタビューに答えて、司馬は「駒沢大学」を語っている。 「(北海道の)小さな市町村を訪ねて、良質な、質の高い考古学者に数多く会ったことにも、驚きました。戦後大学教育の成功という言葉が頭に浮かびましたね。国学院、駒沢大学、明治大学、立正大学で考古学を学んだ人たちが第一線で頑張っていたね。(中略)過労で体を悪くしてまでやっている人もいた。感動したね。やっぱりそれを雪の現場で見ることはほんとうにうれしかった」(『司馬遼太郎が語る日本―未公開講演録愛蔵版Ⅲ』朝日新聞社) その中で、本文中に実名の見出しまで付された考古学者がいる。 見出しは「佐藤隆広係長」と付いた。 彼はそのころ、道東の枝幸町教育委員会の係長。駒澤大学文学部出身。司馬は、雪のオホーツクを案内してくれた佐藤さんに好感を抱き、次のように評している。 「佐藤さんは昭和二十五年(一九五〇)うまれだから、四十二歳になる。色白の童顔で京人形顔(きょうにんぎょうがお)である。札幌で生まれた。考古学をやるために駒沢大学にゆき、帰ってきて、このオホーツク海岸の枝幸町に就職した。東京や故郷の札幌で就職しなかった理由は簡単で、そこに現場(フィールド)がないからである。いわば辺境に骨を埋めようという気迫を持っている」 司馬遼太郎は、佐藤隆広さんの「気迫」というものに、ぞっこん惚れた。 その司馬遼太郎は今は亡く、佐藤係長も現職のうちに他界した。共に惜しまれての死であったことは、言うまでもない。 7年前、「佐藤隆広氏追悼論集刊行委員会」が組織され、『北方世界からの視点―ローカルからグローバルへ』(北海道出版企画センター)という大著が刊行された。 いい名の本ではないか。サブタイトルを借用するなら、苫小牧からグローバルへだ。(完) 2011年2月17日 脱稿
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