苫小牧駒澤大学THE GENERAL研究テーマ中東情勢とイスラム

   

中東情勢とイスラム 

 

学  部 国際文化学部

学  科 国際文化学科

学生番号 A02027

氏  名 大島  健吾

目  次

はじめに                        ・・・・・・・・ 4

第1章 宗教論

イスラム教                 ・・・・・・・・ 5

イスラム原理主義とは            ・・・・・・・・ 5

「ジハード」=「聖戦」ではない       ・・・・・・・・ 6

ユダヤ教・キリスト教との違い        ・・・・・・・・ 7

第2章 パレスチナ問題から見た中東情勢

ユダヤ人流浪の歴史             ・・・・・・・・ 9

パレスチナのアラブ化とイスラム化      ・・・・・・・・ 9

シオニズム運動               ・・・・・・・・ 9

アラブ民族主義の勃興            ・・・・・・・・10

イギリスの三枚舌外交            ・・・・・・・・10

イギリス委任統治下に            ・・・・・・・・11

パレスチナ分割決議とイスラエル建国     ・・・・・・・・11

アメリカ・ソ連のイスラエル承認       ・・・・・・・・12

第3章 中東紛争とそれに絡む思惑

第一次中東戦争(パレスチナ戦争)      ・・・・・・・・13

エジプト革命                ・・・・・・・・13 

第二次中東戦争(スエズ動乱)        ・・・・・・・・14

第三次中東戦争(67年戦争)        ・・・・・・・・15

第四次中東戦争(10月戦争)        ・・・・・・・・16

石油戦略の発動               ・・・・・・・・17

イラン革命                 ・・・・・・・・18

イラン・イラク戦争             ・・・・・・・・19

湾岸戦争                  ・・・・・・・・20

第4章 パレスチナ・ゲリラの変遷 

PLOの誕生                ・・・・・・・・22

ヨルダン内戦(黒い9月)          ・・・・・・・・23

レバノン紛争                ・・・・・・・・23

PLOの路線転換              ・・・・・・・・24

湾岸戦争での失敗              ・・・・・・・・25

第5章 和平プロセスの歴史

キャンプ・デービッド合意          ・・・・・・・・27

(エジプト・イスラエル間の和平交渉)

オスロ合意                 ・・・・・・・・28

和平プロセスの停滞             ・・・・・・・・29

遠のく中東和平の道(オスロ合意の破綻)   ・・・・・・・・30

第6章 現在の中東情勢と今後の展望

難航するイスラエル・シリア間交渉      ・・・・・・・・31

レバノン情勢                ・・・・・・・・31

アフガニスタン情勢             ・・・・・・・・32

緊迫するイラク情勢             ・・・・・・・・33

イラク攻撃で中東情勢はどう変わるか     ・・・・・・・・34

中東和平の可能性(新しい仲介役)      ・・・・・・・・34

おわりに                      ・・・・・・・・36

参考文献等                     ・・・・・・・・37

 

 

 

はじめに

 2001年9月11日、アメリカで世界を震撼させる出来事が起こった。わずか1時間半の間に、テロリストにのっとられた四機の航空機がニューヨークにある、世界貿易センターのツインタワー、ワシントン郊外の国防総省、そしてピッツバーグの山林に乗客を乗せたまま相次いで突っ込んだのである。二度の世界大戦でも戦火にまみれることのなかったアメリカ本土がテロという名の戦争の標的になったのだ。アメリカはこの報復として対テロ戦争を開始。アフガニスタンを空爆し、アフガニスタン暫定政権を樹立させた。

 また、アメリカ同時多発テロに影響され、イスラエルではパレスチナ人によるテロ活動が再び活発化。それに対しイスラエルは力で鎮圧するという繰り返しになっている。

 そして、2003年2月現在、第二次湾岸戦争が起きようとしている。アメリカが核・生物保有兵器を依然保持しているとしてイラク攻撃の準備を進めており、世界は緊迫したムードに包まれている。

 中東情勢は未だ不安定であり、いくつもの火種を抱えている。それはなぜなのだろうか。私はアメリカ同時多発テロ以前よりこの疑問を抱えていた。しばしば、中東紛争には、中東地域に信者の多いイスラム教対イスラエルのユダヤ教という構図が持ち出される。はたして、中東紛争の根源は本当に宗教戦争なのだろうか。それとも他に要因があるのだろうか。その謎を解くためにイスラム教と中東情勢に関して調べてみたいと思う。

 

第1章 宗教論

中東にはイスラム教を国境にしている国が多い。この章では簡単にではあるが日本人には特異に映るイスラム教の特徴を説明し、マスコミなどで騒がれている間違った解釈を改め、正しいイスラム教像を伝えたいと思う。

イスラム教

イスラム教の説明を簡単にすると、610年、アラビア半島でムハンマドが唯一神アッラーから啓示を受けて創唱した宗教である。中東を中心に西アジア、東南アジア、アフリカの大西洋沿岸諸国に広く流布している。唯一親アッラーのみを信仰し、偶像崇拝を禁じている。その信者はムスリム(絶対帰依する者)と呼ばれ、経典は預言者ムハンマドが受けた神からの啓示をまとめた「コーラン」である。日本ではかつて「回教」と呼ばれていたこともある…、とこんな感じである。

 もう少し詳しく述べると、イスラム教徒は全世界で10数億人に達している。インドネシアでは国民の90%近くを占めるおよそ1億5千万人がイスラム教徒である。また、キリスト教が大きく分けるとプロテスタントとカトリックの2派に分かれているように、イスラム教もスンニー派とシーア派に分かれている。

預言者ムハンマドは、後継者を定めることなく亡くなった。だから彼の死後は、カリフ(「代理者」つまり神の使徒=ムハンマドの代理という意味)が教団指導の役割を担ってきた。

ムハンマドの血族しかカリフとして認めない一派がシーア派であり、今日でもこの考え方を守り、主にイランで続いている。ペルシャ語でイスラムを発展させている一派といってもいい。

一方、スンニー派は、民主的とでもいったらいいのか、広くサバーハ(教友)から語り伝えられてきたハディース(ムハンマドの死後にムハンマドの言行を集めたもの)のなかにスンナ(慣行、範例)は見出されるとする一派である。インドネシアやパキスタン、それにサウジアラビア、エジプトといった国はスンニー派が主体となっている。

人口比で見るとスンニー派のほうが90%を占めており圧倒的に多いのだが、アラブ各国の中には残りの10%のシーア派が政治にかかわっている国もあり、中東問題がマスコミに報道されると常に目立つ存在として取り上げられている。

 ここで一つ注意しておきたいのは、イスラムという言葉の語源には「平和」の意味が含まれており、決して戦争をすすめている宗教ではないということである。多くの人々が思っているより穏健な宗教といえる。イスラムという言葉が「過激」、「戦争」という言葉を連想させるのは、イスラム教が生まれ、育まれてきた中東という地域がつねに戦火にまみれてきたことによるのではないかと思われる。

イスラム原理主義とは

 特に2001年の9月11日以来、イスラム原理主義=テロリストという見方をされることが多くなっている。しかし、それは誤解で、多くの場合、欧州ジャーナリストによるレッテルである(そもそも原理主義という概念はキリスト教のもの)。イスラム原理主義、英語だとislam fundamentalizmだが、そもそもこのイスラム原理主義は、イスラムの原点に戻り(コーランの教えを守ること)、イスラム社会が抱えている問題を改善し、そしてイスラム社会を正していこうとする運動のことである。この考えを持ついくつかの組織・集団がテロ活動を行っているがゆえに、イスラム原理主義=恐怖のテロ集団と見てしまうようになってしまった。

 もともとイスラム原理主義とは、1930年代にサウジアラビアのスンニー派によって唱えられた思想、あるいは1929年に創設されたエジプトのムスリム同胞団が貧困救済を説いたのが始まりとされ、いずれにしろ当初はまったく過激な活動はしていなかった。本来あるべきイスラムの姿に戻る、ただそれだけを願っていたのだ。しかし、欧米をモデルに産業の近代化を目指した結果、アラブ諸国では貧富の落差が生じ、汚れた西欧文明から国を守ろうと過激行動に出るようになる。

 そして1979年のイラン革命をきっかけに、アラブ諸国でイスラム原理主義運動が一気に爆発したのだ。これについてはイラン・イラク戦争のところでも述べるが、イスラム教シーア派の指導者ホメイニ師がアメリカと親しかったイランのパーレビ王朝を廃止し、国家元首の座に就いた革命のことで、イスラム原理主義革命とも呼ばれている。

 この革命がアラブ諸国のシーア派教徒を刺激し、1981年にはムスリム同胞団の傍流である小規模な団体「アル・ジャマアート・アル・イスラミヤ」のメンバーが、イスラエルと和平条約を結んだエジプトのサダト大統領を暗殺。これを機にテロ活動を行うイスラム原理主義過激派が台頭してきたのである。ただし、現在、イスラム教徒は10数億人いるといわれているが、イスラム原理主義者は1%にも満たないと推測され、さらにその中の過激派は少数である。

「ジハード」=「聖戦」ではない

イスラム原理主義と同様に「ジハード」も間違った解釈がなされることが少なくない。本来、防衛のための戦いを意味する「ジハード」は「聖戦」と訳される場合が多い。しかし、アラビア語の語源を見ると、語源(JHD)は「努力する」の意味で、戦う(HRB)という概念は含まれていない。「ジハード」とは、人間の基本となる生命、肉体、理性、信仰や財産などが脅かされる事態となったときに、敢然と抵抗することなのである。したがって、人間の尊厳が踏みにじられる状況にない限り、武器をとることはいけないこととされている。イスラム教では、平和を尊ぶことが第一義であるが、それでも侵害され、非暴力を貫くことが無理な場合にだけ、やむなく武器をとり戦う、というのが本来の意味なのである。その場合でも規制があり、自衛の域を超えるような攻撃は許されておらず、また敵方の戦闘員のみを撃ち、女性、子供、老人の殺害は禁じられている。ましてや無辜の民を殺傷することは厳禁である。

 原理主義派の一部が「ジハード」と」称して戦いを繰り広げているのは、イスラムの教えに明らかに反しているといえる。

ユダヤ教・キリスト教との違い

 世界で一神教の三大宗教といわれるユダヤ教、キリスト教、イスラム教はみな、アラビア半島のほぼ同様な地域から生まれている。じつはこの三大宗教の神は同一である。その意味で、これらの宗教は異母兄弟の関係にあるといっていいだろう。その異母兄弟であるユダヤ教とキリスト教について軽くふれてみたいと思う。

 ユダヤ教…ユダヤ民族の宗教。唯一至高の神ヤハウェがユダヤ民族を選んで契約を結び、預言者モーセに教えを啓示したという信仰に基づいて、その教えを生活を通じて実行していく。ユダヤ民族の生活を根本から規定するものなので、ユダヤ道、ユダヤ主義と呼ばれる場合もある。その原始的思考は紀元前13世紀、モーセに導かれたイスラエル人がエジプトを脱出してカナン(パレスチナ)に入り、その地の同親同族の民と一体となって誓約共同体を形成した時代にさかのぼることができる。ユダヤ人を神の選民とし、イエスを救い主とは認めず、神の国を地上にもたらすメシアの到来を信ずる点でキリスト教と対立する。聖典は「律法・預言書・諸書」の三部からなるが、これはキリスト教の「旧約聖書」とほぼ同じ内容。安息日(金曜日の日没から土曜日に日没まで)には仕事をしてはいけないなど厳しい戒律がたくさんある。

 キリスト教…イエスを救済者キリストと信じ、イエスの行動と教えを中心に神の愛と罪の赦しを説き、「旧約聖書」「新約聖書」に基づき、個人と社会の再生をうながす宗教。イエスは、紀元前4年以前にユダヤのベツレヘムに生まれ、ガリラヤのナザレで育った。紀元後28年頃からガリラヤの村を歩き回り、神の国がこの世ですでに実現されつつあると説いた。ユダヤ民族のみを救いの対象とする、厳しい戒律に縛られたユダヤ教を激しく批判、唯一の神を信じるものは誰でも救われると説いた。ユダヤ教徒にとって大きな脅威となったイエスは30年頃、エルサレムで十字架の刑に処される。しかし三日後、イエスはよみがえったとされる。復活したイエスと出会ったと信じる弟子たちは、イエスを救世主とみなし、キリスト教会が成立した。2世紀頃に「新約聖書」の原型が成立した。

 三大宗教の共通点は、神により神の教えを人に伝えるべく選ばれた者、「預言者」(神の言葉を預かる者の意で予言する者ではない)はとても大切な存在であり、アダムからアブラハムに続く同じ預言者を信じている点。そしてみな、「旧約聖書」を経典として認めている点の二点である。

 しかし、キリスト教は「旧約聖書」とイエス・キリストは認めるが、そのあとに出現したムハンマド、「コーラン」は認めない。またユダヤ教は、イエス・キリスト、「新約聖書」も認めなければ、ムハンマド、「コーラン」も認めないとしている。

 そんな中で、イスラム教では「旧約聖書」「新約聖書」とも経典として認めるし、キリストも預言者であることを認めている。しかし、その預言者の最後がムハンマドでありムハンマド以後預言者は出ないのだからすべての人は神の最後の教えであるコーランを守るのが正しいとされている。

 そのため、イスラム教徒から見れば古い教えである旧約聖書や新約聖書を信仰するユダヤ教徒とキリスト教徒は同じ神を信仰する「経典の民」として他の異教徒より高い地位を与えられていた。アラブの支配下でもユダヤ人は人頭税を払っている限り、自由な活動と宗教の自由を許されていたのである。このことから中東紛争の本質がイスラエルのユダヤ人とアラブのイスラム教徒との間の宗教的対立に根ざす宗教戦争ではないことがわかる。

 

第2章 パレスチナ問題から見た中東情勢

 アラブとユダヤの確執は、宗教的な対立から発生したものではないことが前章でおわかりいただけたと思う。それでは何が原因なのだろうか。

 そもそも国際紛争はなぜ起こるのか。それは紛争には何らかの政治的・経済的な「利益」「利権」が絡んでいるからだ。その利益・利権が絡んでいるからこそ、民族や宗教、言語などの違いが問題視されるのであって、決してその逆ではない。

 世界のあちこちに紛争の種をまいたのは、とくに20世紀初頭まで続いた列強の植民地主義であった。旧植民地であった地域の紛争では、植民地化されたことが原因ということが多い。つまり、大国が自分たちの利益のために、地元の人々を考えることなく、勝手に国境線を決め、文化や宗教を押し付けた結果、人々の間にゆがみが生じたのである。

中東紛争の大きな問題となっているアラブ対イスラエルの構図もその例にもれない。この章ではこういった点に気をつけながらイスラエル建国までの歴史をたどってみたいと思う。

ユダヤ人流浪の歴史

 旧約聖書によれば、イスラエル人の先祖アブラハムに、ヤハウェ神が「カナン(パレスチナ地方)全体をあなたの子孫に与える」と約束したという。旧約聖書がどこまで史実かわからないが、これがパレスチナはユダヤ人固有の領土であると主張する根拠である。

 その後、エジプトに移住していたイスラエル人たちは、モーセに導かれてカナン地方へ戻り、その土地に住んでいた人々を征服してイスラエル王国を建国したとされている。しかし王国は南北に分裂、滅亡した。

 ローマ帝国の支配下で、イスラエル人たちは最後の反乱を起こすが、完全鎮圧される。このとき以降約2千年にわたって、自らの国をもてないさまよえるユダヤ人の時代が始まる。

パレスチナのアラブ化とイスラム化

ローマ帝国、つぎのビザンチン帝国時代はキリスト教徒が多数を占めるようになった。しかし、7世紀におけるイスラム教の勃興とともに663年にアラブの征服が行われて、パレスチナのイスラム化が始まった。このときにエルサレムはメッカ・メディーナと並ぶイスラムの聖地となった。

パレスチナにおけるアラブ人の支配は1071年に終わり、その後この地はセルジューク・トルコ、十字軍、タタール人及びモンゴル人の相次ぐ征服と侵入にさらされたのち、13世紀中ごろよりエジプトのマムルーク朝、次いで1517年から第一次大戦までオスマン・トルコ帝国の支配下におかれることとなる。

シオニズム運動

ヨーロッパを中心に世界各国へ散らばっていったユダヤ人たちは、各地で少数民族として迫害を受けてきた。

 19世紀末、ロシアを皮切りにヨーロッパのユダヤ人の間でシオニズム運動(エルサレムの古い呼称であるシオンの丘にちなんで名付けられた)が起こる。これはユダヤ人の故郷とされているパレスチナ地方へ帰ろうという運動だ。20世紀初頭から、各地のユダヤ人がパレスチナ地方に移住するようになる。その背景には、同時期にヨーロッパ各地で盛んになってきた反ユダヤ主義があった。これには宗教上の問題が絡んでおり、キリスト教信者が多いヨーロッパ各国ではユダヤ人はキリストを殺した犯人として迫害されていたのである。

 ただし、パレスチナへのユダヤ移民が急増したわけではない。むしろ、当時海外移住したユダヤ人の大半は、アメリカを新天地として移住していった。今もアメリカでユダヤ人は発言力を持っている。

 ユダヤ人のパレスチナ地方への移住が急増したのは1948年のナチスのホロコーストである。第二次世界大戦中、ナチスの相当アドルフ・ヒトラーはユダヤ人をはじめジプシー(ロマ人)、ポーランド人などを迫害、虐殺した。ナチスによって虐殺されたユダヤ人は600万人にも及ぶ。この惨劇でパレスチナのユダヤ人の数は65万人となった。

アラブ民族主義の勃興

 シオニズムの勃興をみたのと丁度同じ頃の19世紀末から西洋文明の流入とともにアラブ民族主義の思想が勃興し、アラブ人の間に400年の長きにわたったオスマン・トルコ帝国の支配から脱し、アラブの独立国を樹立しようという動きが出てきた。他方、1914年の第一次世界大戦の勃発とともにイギリスも敵国ドイツの同盟国であるオスマン・トルコ帝国の後方を攪乱するためアラブ人の協力を必要とすることになった。そこでアラブ人はイギリスの後押しの下に独立を達成することを試みたのである。その結果、当時メッカの太守であったフセインと当時のカイロ駐在イギリス高等弁務官マクマホンの間で一連の書簡のやりとりがあり、そこで、第一次世界大戦が勃発するとオスマン・トルコに反旗をひるがえすことを申し出て、その見返りにアラビア半島一帯をアラブ王国として独立させる約束を得ることに成功した(マクマホン・フセイン往復書簡)。

イギリスの三枚舌外交

 しかし、その他方でイギリスは第一次世界大戦遂行にあたり、アメリカ在住ユダヤ人の力でアメリカの対ドイツ参戦を促し、また、ヨーロッパのユダヤ人財閥からの援助を得るため、シオニズム運動に対しても好意を示した。これを察したシオニスト(シオニズム主義者)たちはイギリスの政界に影響力を持つユダヤ人、ロスチャイルド男爵を通じてイギリス政府に働きかけ、パレスチナにユダヤ人国家を建設する約束を取り付けた(バルフォア宣言)。

このようにイギリスはアラブとユダヤ双方にそれぞれの国の設立の支援を約束する一方、フランスとサイクス・ピコ協定を締結し、大戦後のオスマン・トルコ帝国の分割に関し、イラクからパレスチナに至る肥沃な三日月地帯の大部分とアナトリア(トルコ)の一部をイギリス・フランスの統治領と勢力範囲に分割し、パレスチナは国際管理下に置くことを取り決めた。このイギリスの二枚舌外交ならぬ三枚舌外交がその後のパレスチナ問題をいっそう混乱させることとなる。

イギリス委任統治下に

1919年11月11日第一次世界大戦が終わり、その翌20年に肥沃な三日月地帯はイギリス・フランスに分割され、シリアはフランスの委任統治領に、メソポタミア(イラク)およびパレスチナ(ヨルダン川東岸のトランス・ヨルダンを含む)はイギリスの委任統治領とされた。1922年イギリスと国際連盟との間に調印されたパレスチナ委任統治協定は、その中にバルフォア宣言の内容が織り込まれ、パレスチナに対するユダヤ人の政治的要求が著しく強められることとなった。

この結果、先述のナチスのユダヤ人迫害とあいまってパレスチナへのユダヤ人の大量移民が始まる。当然、急激なユダヤ移民の増加はパレスチナ・アラブ人との間の亀裂を招くこととなりアラブ人の暴動や反抗が強まった。これに対し、イギリス政府はユダヤ人のパレスチナへの入植を制限し、パレスチナをユダヤ国家とパレスチナ国家に分割することを提案したが、双方から拒否され、有効な解決策を得られないまま状況はますます悪化していく。

そんな中、第二次世界大戦が始まり、イギリスは再びアラブ人の協力を確保する必要からパレスチナへのユダヤ人の移民を制限する措置を実行した。これに対し今度はユダヤ人が反発し、全世界のユダヤ人を動員してイギリスに圧力をかけ、大戦末期にはユダヤの武装過激派組織が反英テロ活動を開始した。

他方で世界最大のユダヤ人国家を擁するアメリカでは、ナチス・ドイツで弾圧を受けたユダヤ人への同情が強まり、1945年8月にはトルーマン大統領がイギリスに対しパレスチナへのユダヤ人10万人の移民を即時認めるよう要求し、イギリスはますます板ばさみの苦しみを味わうこととなった。

結局、万策つきたイギリスは、ついに1947年2月パレスチナ問題を国連に移管したいとの書簡を発表し、これを受け同4月パレスチナ問題についての国連特別総会が開かれ、パレスチナの問題は国連の場に持ち込まれることとなった。

パレスチナ分割決議とイスラエル建国

 イギリスからパレスチナの管理をゆだねられた国連は、1947年11月29日パレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割し、エルサレムとその周辺を国際管理下におくという決議を採択。具体的にはパレスチナの56%をユダヤ国家とし、残りの43%(残り1%は国際管理下)をアラブ国家とするものであった。だが、この分割案は人口比で見ればとても公平な分配とはいえなかった。ユダヤ人の人口はパレスチナ・アラブ人の約半分であったのに対して、与えられた領土はアラブ側を上回るものであり、ユダヤ側に有利なものであった。

 国連決議採択後まもなく、同決議に反対するパレスチナのアラブ住民とユダヤ住民の間で局地的な戦闘が始まり、やがて近隣のアラブ諸国の義勇軍が加わりアラブ民衆からの圧力を受けたアラブ諸国政府も軍事介入の意図を表明した。このような緊迫した情勢を受けて国連においても、アメリカがパレスチナを国連の信託統治下におく提案を出すなど、先の分割決議を見直す動きもあった。しかし審議はすすまず刻々と高まる緊張のうちに1948年5月18日、イギリスが26年にわたる委任統治を終了し、最後の一兵を引揚げると同時にユダヤ人はイスラエル共和国の独立を宣言。同国はただちに、アメリカ、ソ連などの国から承認されることとなる。

アメリカ・ソ連のイスラエル承認

 ここで一つ疑問に思うのはアメリカとソ連の二大国の承認をイスラエルが受けることができたのはなぜなのだろうか、ということである。

 アメリカではイスラエルが建国した1948年、ちょうど大統領選挙にあたっていた。アメリカは先述の通りユダヤ系移民が多く、社会的な地位を占めているものも少なくない。600万人といわれるアメリカのユダヤ人の票を得るために当時の大統領トルーマンはイスラエルを即座に承認した。結果的にトルーマンは選挙に辛勝をおさめた。ユダヤ票がなければトルーマンの勝利はなかったであろう。

 しかし、イスラエルを承認したことでアメリカの中東政策は整合性を欠くこととなった。アメリカは中東政策において第一に石油の確保をあげていた。そのためにアメリカはサウジアラビアなどのアラブ産油国に近づいてきたのだがアラブと敵対するイスラエルを承認したことでその関係が困難になったのである。また中東政策の第二にソ連の封じ込めを画策していたが、これもイスラエルを承認してしまったため、敵対するアラブ諸国に軍事援助をすることができなくなった。そのため、アラブ諸国はソ連を頼ることとなり、ソ連が中東地域に進出してくることとなる。

 一方ソ連のイスラエルの承認の背景には何があるのだろうか。スターリンの思惑は定かではないが、イスラエルの成立によってイギリスの帝国主義が中東から後退するのを歓迎したのではないかとされている。また、イスラエルにおいて社会主義の影響力が強い(シオニストの多くは東欧からやってきたため、東欧で根強い共産主義の思想を持ち込んでいた)こともスターリンの心証をよくしたともいわれている。もしかしたら、ソ連国内のユダヤ人をイスラエルに入植させることによってユダヤ人問題を解決しようとしたのかもしれない。

 いずれにしろ、敵対するアメリカとソ連が、ともにイスラエルを承認したことによって、それを認めないアラブ諸国対イスラエルの中東戦争に一役買ってしまったともいえる。

 

第3章 中東紛争とそれに絡む思惑

 この章では、第一次中東戦争に始まる、第二次世界大戦後の紛争の概要を紹介する。冷戦構造の中、大国の思惑が錯綜する中、中東紛争はどのように混迷を極めていったのかを考察していきたいと思う。

第一次中東戦争(パレスチナ戦争)

 イスラエルの独立宣言と共に、エジプト、ヨルダン、シリア、レバノンのアラブ連合軍がイスラエルに攻め込み第一次中東戦争が始まった。国連安保理は二度にわたり停戦を呼びかけるが、双方の受け入れることならず、調整官を務めたベルナドット伯はエルサレムでユダヤテロ分子に暗殺されてしまった。

 戦争当初はアラブ連合側が有利であったが、徐々に戦局はイスラエル有利に展開していく。当時、アラブ側はほとんどの国がやっと独立をなしたばかりで、国の体をなしていなかった。また、アラブ連合軍の足並みもそろっていなかった。特にパレスチナ地域の自国への併合を目指すヨルダンと、パレスチナを独立した存在として支援してきた他のアラブ諸国との間では大きな隔たりがあった。しかも、終わったばかりの第二次世界大戦で使われた武器の多くがイスラエル側に渡っていた(ソ連はイスラエルへの影響力確保のためチェコスロバキアを通じてイスラエルに武器を供与していた)ので、その面でもアラブ連合軍には勝ち目がなかったといえる。

 1949年1月にバンチ国連事務次長(調整官代理)が間に入ってロードス島において休戦交渉が開始され、最初にイスラエルとエジプトで休戦協定が調印(2月24日)され、続いてレバノン(3月23日)、ヨルダン(4月3日)、シリア(6月20日)とイスラエル間でそれぞれ休戦協定が成立した。この休戦ラインによれば、イスラエルはパレスチナ分割決議で定められた地域より23%広い地域を獲得した。

 また、この戦争の結果パレスチナのアラブ人が難民としてヨルダン、レバノン、シリア、エジプトなどの周辺国流出し、今日まで続いているパレスチナ難民問題が発生した。

なお、パレスチナ南部のガザ地区はエジプト、エルサレムを含むヨルダン川西岸地区はヨルダンがそれざれ制圧したのだが、このヨルダンによる西岸併合は後にその正当性が問われることとなる。

エジプト革命

 第一次中東戦争のアラブ側の敗北はアラブの若い世代に大きな衝撃を与えた。やがて、彼らは敗戦の原因をアラブの支配層の腐敗(貧富の差の増加、旧宗主国のイギリス追従の政治運営など)に求めるようになる。そうした青年将校の一人の、アブドル・ガマル・ナセルが自由将校団を率い、クーデターを決行。エジプト王政を崩壊させた。大統領に就いたナセルは、スエズ運河へのエジプトの主権の回復、ナイル川にダムを建設してエジプトの農工業を振興することを主要な政策とした。スエズ運河は地中海とインド洋を結ぶ国際交通の要としての役割を果たしている。当時スエズ運河はエジプトにありながらイギリスの支配下にあり、イギリスは莫大な通行料を手にしていた。

 イギリスは国際交通の大動脈であるスエズ運河地帯の防衛・管理を任せるにはエジプト軍は弱体化過ぎるという理由でエジプトの要求を退けた。しかし、エジプト軍を強化するためにエジプトが兵器の購入を申し出ると。イギリスもフランスもアメリカもこれを拒絶した。イスラエルのことを考慮したためである。

 そんなエジプトに、1955年ソ連が兵器を供給する。表向きはチェコスロバキアが兵器を供給するという形で、ソ連製の兵器が、エジプトの綿花とのバーター取引という形で供給された。

 その背景にはソ連の中東政策の変化があった。新興の独立国と接近することでアメリカがソ連のまわりに張り巡らせた封じ込めのネットワークを跳び越すことが可能になると考えたからである。エジプトへの援助はその第一歩であった。また、1953年にスターリンが亡くなり、国内のユダヤ人による民族運動が再燃したため、親イスラエルからアラブよりにシフトしたともいわれている。

 ナセルは中国からの武器輸入も考え、北京の中華人民共和国政権を承認した。これがアメリカとの関係を悪化させる。アイゼンハワー政権は、ソ連の武器に対抗してエジプトへの大規模な経済援助を予定していた。ナイル川にアスワン・ハイ・ダムを建設する交渉が進んでいた。しかし、北京政権承認によってこの交渉は中止された。ナセルはこれに対し、スエズ運河の国有化を宣言。その通行収入をダムの建設費用に当てようとする。

 それに激昂したのがイギリスだ。フランスとイスラエルと共謀し、エジプトへの軍事干渉を図る。イギリスの誘いにイスラエルはともかくフランスがのったのはなぜか。フランスは、当時激しくなっていたアルジェリアの独立運動をナセルが支援しているものと信じており、ナセルを倒すことでアルジェリアの独立派に打撃を与えようとしていた。

第二次中東戦争(スエズ動乱)

 こうして1956年10月29日、第二次中東戦争が始まった。戦局は三国側に有利に進められイスラエル軍は10日たらずの間にシナイ半島を制圧した。しかし、即時停戦を求めた国連緊急総会の決議やアメリカの圧力、ソ連の威嚇、国際世論の三国非難の前に三国は撤退せざるを得なかった。

 三国は超大国の、特にアメリカの反応を完全に読み違えていた。イギリスがイスラエルの軍事干渉への参加を求め、しかも10月末を作戦期日に選んだのは大統領選挙を控えているアメリカの反発をおさえるためであった。しかし、アイゼンハワー政権の反応はイギリスの予想を裏切るものであった。それはなぜか。

 ちょうどこの時期、ハンガリーで民衆の反ソ蜂起が発生していたからだ。アイゼンハワーは世界の目をハンガリーに向けさせ、ソ連をけん制しようとした。しかし、スエズ動乱が煙幕の役割を果たし、ソ連はその隙に武力でハンガリーの反乱をおさえてしまったのである。

 それでは、なぜアイゼンハワーはイスラエルも参加したエジプトへの軍事干渉を非難することができたのか。共和党推薦のアイゼンハワーは、いずれにしてもユダヤ票を当てにできない立場にあった。というのは伝統的にユダヤ人は民主党支持であるからだ。また現職でしかもノルマンディー上陸作戦を指揮したヨーロッパ解放の英雄であるアイゼンハワーは国民的人気を博していた(それを裏付けるかのようにアイゼンハワーは大差で再選した)。1948年のトルーマンのときとはすべてが違っていた。

 結局、11月6日にイギリス・フランス、11月8日にイスラエルが停戦を受諾。イギリス・フランスは年内に、イスラエルも翌1957年3月、シナイ占領地から撤退した。

 この戦争の結果、民族主義の台頭、イギリス・フランスの地盤の沈下、ソ連のアラブ世界への影響力増大が見られた。これに対してアメリカは、国際共産主義の武装侵略が起こった場合アメリカは侵略を受けた中東の国の主権、独立を守るためには武力を使っても援助する。またアメリカは中東の経済援助のため4億ドルを提供する、という旨の発言をし、ソ連に対抗した。このことは、その後の中東情勢が東西冷戦の文脈に組み込まれ、米ソ二大国の思惑によって翻弄されることになることを意味していた。

第三次中東戦争

 ナセルの勝利は、アジア・アフリカなどの新興国に大きなインパクトを与え、中東地域では、イラクで軍部のクーデターが発生し、新イギリス王政が崩壊。アルジェリアからのフランス撤退、という形でその影響があらわれた。ナセルは、アラブの統一を推し進めるべく、1958年2月、シリアとの統合国家の樹立を発表した。統一アラブ共和国の誕生である。初代大統領にはナセルが就任。同年3月にはイエメンも加わり、また、そのほかのアラブ諸国も加わる動きが活発化し、統一アラブ共和国はアラブ連合となり、国旗も同じものに統一された。まさにアラブ・ナショナリズムここに極まれりである。

 しかし、現実にはそれほど足並みはそろっていなく、シリアにしてみたら“統合”されたという思いがぬぐえなかったのである。結局、この連合は3年少々で解消されることになり、アラブ統一の難しさを露呈する。さらにアラブには、革新陣営(エジプト、シリア、イラクなど)と保守陣営(サウジアラビア、ヨルダン、イランなど)の対立という問題もあった。

 また北イエメンの内戦に出兵したナセルは出口のない長期戦に国力を消耗させていった。しかもアラブの統一を掲げながらもナセルの指導性を認めようとしないバース等の力がシリアやイラクで伸び始めたのもナセルの野心にとっての障害であった。

 こうした情勢の中、イスラエルに対し思い切った措置をとることによって威信の回復を図ろうという意図もあってか、1967年5月シナイ半島に大軍を展開し、イスラエルとの国境沿いに駐留していた国連緊急軍の撤退を求め、5月22日にはイスラエルに対してチラン海峡の封鎖を行った。

 6月5日エジプトの戦車部隊が進撃したということでイスラエル空軍はエジプトの飛行場やスエズ運河地帯を急襲し、戦闘が勃発し、たちまちヨルダン、シリアの間にも拡大した。戦局はイスラエルの圧倒的優勢のうちに展開し、イスラエル軍はわずか4日間でシナイ半島を座監視、東エルサレムを含むヨルダン川西岸及びガザを制圧、さらにシリアのゴラン高原を攻略占領した。こうして国連の停戦決議が出るまでの6日間にイスラエルは戦争前の約三倍にも及ぶ面積を占領した。

 第三次中東戦争でイスラエルが完璧な勝利を収めたことで、中東・イスラム世界では、イスラエルの軍事的な保護者であったアメリカに対する反感が否応なしに高まった。しかし、実際には、ベトナム戦争の泥沼に足をとられていたアメリカは、第三次中東戦争に対してなんら積極的な関与を行うことはできなかった。そして、このことに対する反省から、アメリカはベトナム戦争を早期に終結させ、それにより米軍配置のバランスを改善する(すなわち、中東地域にもより多くの兵力を配備する)ことをめざすようになる。

 こうしてアメリカはみずから、中東、イスラム世界の反米感情をますます増進させていくという悪循環に陥っていくことになる。

 一方、第三次中東戦争での完敗は、アラブ諸国にきわめて大きな打撃を与えた。以後アラブ諸国はイスラエル占領地の返還を主要な政治課題と考えるようになり、イスラエル国家の解体(すなわちパレスチナの解放)は彼らにとって二義的な問題となってしまう。この結果アラブ諸国とパレスチナ・ゲリラの間に溝ができることになる。

第四次中東戦争

 第三次中東戦争の停戦後も、シナイ半島では、イスラエル軍とエジプト軍の散発的な戦闘が続いた。これは、半島の失地回復のためには、イスラエルに対して本格的な戦争にいたらないほどの圧力をかけ続けることで、政治的交渉の糸口をつかもうとナセルが考えていたためである。このような消耗戦を展開していく過程で、ナセルは従来以上にソ連に接近していく。

 これに対し、ソ連もエジプトに対する武器援助を増額する。もっとも、ソ連がエジプトを支援した本意は、地中海沿岸でソ連海軍が安定的に使用できる海軍基地を確保することにあった。

 一方、エジプトとソ連の関係が緊密化していくことに大きな懸念を抱いていたアメリカは、1960年代末から1970年代初頭にかけて、ベトナム戦争の泥沼にはまり込み、海外での軍事展開能力が著しく低下していた。このため、中東地域でのソ連の影響力拡大を阻止するための最も効果的な手段として、イスラエルに対する軍事援助を拡大していった。

 こうした状況の中で、1970年9月、ナセルが急死し、副大統領のアンワル・サダトがエジプト大統領に就任する。サダトは、対イスラエル強硬姿勢という点ではナセル路線を継承したものの、国内の権力基盤を固めるため、ナセル時代の左派勢力を弱体化させることに力を注いだ。それが、東西冷戦の文脈では「ソ連離れ」とも見える政策を推進することにもつながる。

 サダトは、米ソ両国に任せていてもシナイ半島を奪還することは不可能であると考えていた。武力による自力奪還以外に、エジプトのとるべき現実的選択はないという結論を出した。

 この判断に基づき、サダトは、シリア大統領ハフィズ・アサドとも連携をとりながら、対イスラエル戦争のプランを練り始める。

 こうして1973年10月6日、エジプト・シリア連合軍がイスラエルに対して総攻撃を開始したことで第四次中東戦争が勃発する。第三次戦争のときとは異なり奇襲攻撃に出たエジプト軍、シリア軍とも善戦し、かなりの程度まで互角に戦いを展開した。エジプト軍はスエズ運河の数箇所に橋をかけ東岸への渡河に成功した。またシリア軍はゴラン高原でイスラエル軍陣地にもう攻撃を加え相当の進出を見せた。

 もっともエジプト・シリア両軍の優勢は長続きしなかった。10月11日には、イスラエルはゴラン高原での大反攻を開始し、シリア領内に突入。さらに、シナイ半島方面でも、同月16日にはスエズ運河の逆渡河に成功し、形勢は逆転した。

 イスラエル優勢の戦局推移に対して、エジプトとシリアが第三次中東戦争に続いて大敗することを懸念したソ連は、停戦の原則についてアメリカ(アラブ諸国の軍事力増強に見合うだけイスラエル軍事援助を行い、戦力の均衡を図りつつ、両者に話し合いによる妥協を求めることを、対中東政策の基本としていた)と協議を開始。ソ連がエジプトとシリアに対して、アメリカがイスラエルに対して、それぞれ早期の停戦を受け入れるよう説得。  10月22日の国連安全保障理事会において、関係諸国に対する停戦決議が採択され、第四次中東戦争は終結する。

 しかし、シナイ半島でのイスラエル軍の全身は、停戦決議の採択後も続けられた。このため、サダトが停戦監視のために米ソ両軍に中東派兵を要請すると、ソ連はこれに応える形で中東での派兵を表明する。

 これに対して、中東におけるソ連のプレゼンスが急速に拡大することを危惧したアメリカは対ソ姿勢を硬化させ、米ソ関係は緊張した。特に、ソ連が核弾頭を積載した貨物船をエジプに向けて出航させたことが確認されると、アメリカはイスラエルによるエジプトへの報復攻撃を容認することをソ連に通告。米ソの全面核戦争の危機が迫っていた。

 結局イスラエルが攻撃を停止して事態はことなきを得たが、アメリカがこうした強い措置に出た真の理由は、ウォータ・ゲート事件(1972年の大統領選挙でウォータ・ゲートにあった民主党本部の電話盗聴にニクソンがかかわっていたという事件)から国民の目をそらすためのニクソン政権の思惑だったともいわれている。

石油戦略の発動

 ところで第四次中東戦争といえば、アラブ諸国がいわゆる石油戦略を発動して、世界的な石油危機をもたらしたことでも知られている。

 第四次中東戦争でのアメリカのイスラエルに対する援助に対抗する形でサウジアラビアなどのアラブ産油国は、アメリカへの石油の全面的な禁止、非友好国への輸出量削減などを含む一連の措置を発表した。また、これに呼応するように、OPEC(石油輸出国機構)が石油価格の4倍増を決定した。ここで注意しておきたいのはOPECの加盟国=アラブではないことである(イラン・インドネシアのようなイスラム国であるがアラブではない国、ベネズエラのようなアラブでもイスラムでもない国も加盟している)。

これに対して、アメリカ国務長官キッシンジャーは、アメリカのイスラエルへの武器供与は中東でのソ連の影響力拡大に対抗するためのものであって、反アラブを意図したものではないと弁明するが、効果はなかった。

 アラブ側の石油戦略は、1973年10月25日に第四次中東戦争の停戦が実現した後も、イスラエルを1967年の第三次中東戦争の占領地から完全に撤兵させることを要求して継続される。

 こうしたアラブ諸国の対米強硬姿勢に接してパニックに陥った西側諸国は、自国の経済を防衛するため、イスラエルとの友好関係を見直し、親アラブの中東政策を採用していく。

 結局、1974年3月、エジプト・イスラエル間の協定により、イスラエル軍がスエズ運河から20マイルの地点までの撤兵を完了したのを機に、対米禁輸措置を解除する。

イラン革命

 キャンプ・デービット合意(5章参照)を経て、1979年3月にエジプト・イスラエル和平条約が調印されたことは、ナセル式のアラブ民族主義が実質的にその存在意義を失ったことの証であった。

 代わって、中東・イスラム世界で影響力を拡大していったのが、いわゆるイスラム原理主義である。しかし、アラブ民族主義が隆盛を極めていた1950〜70年代には、イスラム原理主義の活動は各国政府による弾圧もあり、多くの国や地域において、その政治的影響力はきわめて限定されたものでしかなかった。これに対して、1979年にイランで発生したイスラム革命は、イスラム原理主義を一挙に国際政治の表舞台に引き上げる役割を果たした。

 それでは、「親米国家」イランでイスラム革命が発生するまでの経緯をまとめてみたいと思う。

 1953年にCIA主導のクーデターを敢行し、石油国有化を主張する民族主義政権を打倒したことで、アメリカはイランの石油権益を確保。同時に、イランを反ソ包囲網の拠点と位置づけ、以後、国王ムハンマド・レザー・シャー・パーレビを中心とする親米政権の育成に力を注いでいた。

 パーレビ王朝は欧米を手本に近代化路線を打ち出し、農地改革や国営企業への民間参入に積極的に着手した。この近代化政策は対ソ戦略上の要衝としてイランを重要視したいアメリカの意向に沿ったものであったことはいうまでもない、同時に、国王としては、モサデク追放の余得として急増した石油収入を安定的に運用するためにも、従来以上にアメリカの支援を獲得したという思惑があった。

 こうしてイラン経済は急激な成長を遂げることになったのだが、インフレや貧富の差の拡大、農民の都市流入といった近代化の負の部分が顕在化し、パーレビ王政に対する不満も高まることとなった。

 国民の不満に対して、イラン政府は秘密警察による監視を強化し、強権を持って望んだが、この姿勢は帰って国民の反王室感情を増幅させる結果に終わった。

 1970年代に入ると、イラン国内では反政府運動の波が日々高まりつつあった。反政府運動にかかわる人間の多くが心の師と仰いでいたのが、イスラムはシーア派の指導者、ホメイニ師である。ホメイニ師は、反応性活動のために国外追放処分を受け、パリに亡命中だった。反政府運動は日に日に強まる一方で、1979年1月、ついに国王はイランを逃れてエジプトへと向かい、逆にホメイニ師は2月1日亡命先のパリから帰国し、革命政権を樹立。イラン・イスラム共和国が発足する。ここにイラン・イスラム革命が成就される。

 イラン革命の衝撃は、次第にアメリカにとっても直接的な脅威として認識されるようになる。

すなわち、1960年代以降アメリカの中東戦略はイランとサウジアラビアという二大産油国を湾岸の安全保障の柱として位置づけていた。しかるに、イラン革命を経て、イランは完全な反米国家となり、湾岸地域におけるアメリカの拠点はサウジアラビアのみとなった。

そのサウジアラビアにしても、イラン革命に刺激を受けたシーア派住民が暴動を起こすなど、突如として表面化したイスラム復興の潮流に大きく翻弄されることとなる。

さらにパキスタンやバングラデシュでも大規模な反米デモが発生。特に、パキスタンではアメリカ大使館の焼き討ち事件が起こる。

アメリカは、中東戦略の大きな変容を迫られるとともに、イスラム原理主義が波及し、反米感情(アメリカは反米感情が親ソ連とつながると錯覚していた)が広まるのを懸念するようになる。

イラン・イラク戦争

 1980年9月、イラク軍はイランの主要な空港を爆撃。国境を越えてイラン領内への侵入を開始した。こうして、宣戦布告のないまま、8年にも及ぶ泥沼のイラン・イラク戦争が勃発する。両国の間では以前より国境問題をめぐって確執があったが、イラクがイランに攻め込んだ最大の理由はイランでのイスラム革命の発生である。

 イラン革命直後の1979年7月、イラクでは副大統領であったサダム・フセインが大統領に就任。フセイン政権はスンニー派なのだが、イラクの民衆はシーア派が主流であり反政府を掲げる勢力も多く、国内ではシーア派の弾圧も頻繁に行われていた。イスラム革命で誕生したイランはシーア派であり、イラン国内のシーア派勢力がイランでの革命に刺激され、スンニー派政権に反旗を翻す事態をフセインは恐れたのだ。

 戦局はイスラエルからの支援を受けた(イスラエルにとって、イランは敵対国家イラク軍を反対側の国境線に吸引して消耗させてくれる、きわめて貴重な「敵の敵」だった)イランが一時期優勢にたつ。しかし、対外強硬派の発言力がイランで高まるにつれ、イランは国際社会から孤立していく。

 一方、イランは対イスラエル和平条約の調印を機に、断交していたエジプトとの外交関係を改善。エジプトからの軍事支援を獲得。また、第三次中東戦争から断交していたアメリカとも国交を回復し、イスラエルからイランに武器が流出することに歯止めをかけた(アメリカは反イランという理由のみでイラクを支援した)。

 また、サウジアラビアやクウェートも、イランの革命路線に対する脅威から、イラク支援にまわるようになる。

 こうした状況の中で、1987年7月、国連安全保障理事会の停戦決議が可決され、翌年8月、イランが停戦決議を受諾することで、イラン・イラク戦争は終結した。戦争終結に際して、イラク側は大々的に勝利を宣伝したが、イランではそうした声は聞かれず、ホメイニ師は停戦を「毒を飲むよりつらい」と評している。

 停戦決議は、受諾を拒否する国に対しては、制裁などの措置を行いうるとして受諾圧力をかけたうえで、停戦とともに双方が占領地域から撤退することを掲げていた。このことは、イラン領内に占領地をもたないイラクにとっては有利だったが、イラク領内に占領地を有していたイランにとっては不利であった。そのため一部では、イランがこの決議を拒否することを見越して、対イラン政策を導き出そうとするアメリカの意図に沿って作成されたものとの見方もあった。イランにとっては苦渋の選択だったに違いない。

 また、この戦争においてアメリカやサウジアラビアがイラクを支援した結果、イラクはアラブ最大の軍事大国となった。経済が疲弊したにもかかわらず1990年に湾岸戦争を起こすことができたにのはこういう背景があった。

 

湾岸戦争

 1990年8月、イラクがクウェートに侵攻し、瞬時にして同国を軍事占領した。

 クウェートは豊かな産油国である。かつてはイラクとともにオスマントルコ領に属していたが、イギリスの植民地となったことでイラクと切り離され、その後独立を果たした。

 その歴史的背景を持ち出したフセインがクウェートはイラクの一部であると主張したのが始まりだった。フセインがいまごろになってそんなことをいい出したのにはイラン・イラク戦争で背負った深刻な財政難が関係している。クウェートが持つ油田という巨万の富と、イラクにはわずかしかないペルシャ湾沿岸部の港湾施設を丸ごと手にしようとしたのである。また、クウェートがイラク経済の再建に対して、非協力的とのイラク側の認識もあっただのだろう。

イラク軍のクウェート侵攻は、ただちに国際社会から暴挙として厳しく指弾され、アメリカのブッシュ(現在のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュの父)政権は、国家緊急事態を宣言。アメリカ国内のイラク資産を凍結し、イラク産原油の輸入を停止するとともに、インド洋のアメリカ空母をペルシア湾に派兵する。さらに、イラク軍の侵攻がサウジアラビアに波及することを恐れたアメリカはサウジアラビアにも派兵をする。

これに対して、イラク側はイラクとクウェート駐在の欧米人や日本人を人質とし、米軍の撤退を要求したが、国際社会の態度をいっそう硬化させる結果をもたらした。

イラクの暴挙を非難したのは、なにも欧米諸国や日本だけではなかった。アラブの連帯という大義名分に照らしてみても、隣国を武力によって併呑しようとするイラクの行為は非常識なものとみなされ、イラクの直接的な脅威にさらされた湾岸産油国はもちろん、エジプトもイラク軍のクウェートからの撤兵を要求する。

 こうして、クウェート問題をめぐる緊張が高まる中、8月25日、国連安全保障理事会はアメリカ提出による対イラク制裁のための「限定武力行使」決議案を採択。さらに11月29日には、翌1991年1月15日までにイラクがクウェートから撤兵せず、人質も解放しなければ、あらゆる手段をとるとの決議を採択。クウェート情勢は一気に緊迫した。

 イラクは1990年12月6日に全人質の解放には応じたものの、クウェートからの撤兵は拒否。これを受けて、1991年1月17日、アメリカ、イギリスをはじめ、サウジアラビア、エジプト、シリアなどのアラブ諸国を含む28カ国からなる多国籍軍が、クウェートならびにイラクの軍事・通信施設に対していっせいに空爆を開始した(「砂漠の嵐」作戦)。

 多国籍軍の攻撃に対して、イラク側はイスラエルにスカッド・ミサイルを撃ち込み、イスラエルを戦争に引きずり込もうとしたが、イスラエルは報復を自重。湾岸戦争を対イスラエル戦争にリンクさせようとするイラク側の意図は完全に空振りに終わった。

 結局、多国籍軍の前に、イラク側はほとんど抵抗できぬまま惨敗。空爆開始から約1ヵ月後の1991年2月24日、米軍中心の多国籍軍が地上攻撃を開始すると、3日後の27日、クウェートは奪回され、イラク政府指導部はクウェート併合無効の国連決議を受け入れ湾岸戦争は終結する。

 しかし、この戦争の結果、〜イラクに対して国連安保理の決議の無条件履行を迫り、それをイラクが拒否すると武力を行使し、停戦後も経済制裁を続けているにもかかわらず、おなじく安保理決議を無視して占領地に居座り続けるイスラエルに対しては、なんら有効な対策を講じていない〜、欧米のダブル・スタンダードに対してムスリムは大きな不信感を感じるようになる。また、メッカ・メディナの2聖都の守護者としてイスラムの盟主を標榜していたサウジアラビアが、自力で防衛戦争を戦うことができず、アメリカをはじめとする多国籍軍の駐留を仰いだことは、多くのムスリムに大きな不快感を与えた。

なお、米軍は湾岸戦争終結後から12年たった2003年においてもサウジアラビア領内への駐留を続けており、このことがイスラム原理主義勢力の激しい非難の的になっており、その結果、イスラム原理主義勢力のものと思われる反米テロがペルシア湾岸地域を中心に頻発することになる。

 

第4章 パレスチナ・ゲリラの変遷

アメリカ同時多発テロ以来、パレスチナ・ゲリラの活動は再び活発化し、イスラエルとの衝突が断続的に行われている。PLOの議長アラファトの影響力は地に落ち、パレスチナ・ゲリラの暴走は止められない状態に陥った。

この章ではパレスチナの代表機関であるPLOの歴史を紐解き、いかにして現在に至ったのかを紹介し、中東紛争が難航していく姿を見ていきたい。

PLOの誕生

1963年、イスラエルはシリアとの国境近くにあるガリラヤ湖から、勝手に水路を引く工事を始めた。この事件をきっかけにまたしてもゴラン高原でイスラエルとアラブ軍の紛争が始まった。

 この事件をきっかけに、アラブ諸国は今まで足並みのそろわなかった反イスラエルの姿勢を、特定の機関をもって遂行する方針を検討しはじめた。そして、1964年につくられたのが「PLO(パレスチナ解放機構)」である。この政治結社はパレスチナ人を代表する組織として発足され、今までバラバラに活動していたパレスチナ・ゲリラたちを統率する役割を担っていた。

組織を国家に例えると、国会にあたるのが「PNC(パレスチナ民族評議会)」で、内閣にあたるのが「執行委員会」、首相の役割を果たすのが議長である。そして、各党派に相当するのがファタハ(パレスチナ解放運動)、あるいはPELP(パレスチナ人民解放戦線)といったゲリラ勢力で、組織には「パレスチナ国民憲章」という憲法のようなものもつくられた。つまり、それまで実力行使でパレスチナの地を取り戻そうとしていたゲリラたちを統一し、これらの機関や決まりのもとで、決議をとりながら穏健に問題を解決するのがPLOの最大の狙いだった。

第二次中東戦争で軍事的に大きなダメージを受けたエジプト大統領ナセルにとって、PLOの結成は、反イスラエルという統一目標を掲げてアラブ諸国の結束を図るとともに、パレスチナ人の武装組織をコントロール下に置くことでイスラエルとの直接対決をできるだけ回避することのできる一石二鳥の手段と考えられた。

しかし、ヤーセル・アラファト率いるファタハは、ナセルの微温的な姿勢を拒否してイスラエル領内で武装闘争を展開する。当時、アラファトは、テロ活動を繰り返すことでイスラエルの報復攻撃を引き起こすことができれば、アラブ諸国も対イスラエル全面戦争に参加せざるをえなくなると考えていた。このため、ファタハはソ連、東欧はもとより、中国を含む反西側諸国から武器を調達し、シリアの庇護下で戦闘能力を強化していく。

その後、第三次中東戦争にアラブ諸国が惨敗したことで、ナセルの権威は失墜。代わりにカラメの戦い(ヨルダンのカラメに侵攻してきたイスラエル軍をパレスチナ・ゲリラが撃退した)名声を上げたアラファトが英雄と化す。ゲリラへの志願者がファタハに殺到し、以降パレスチナ・ゲリラのイスラエルの軍事攻撃やハイジャックが急増することになる。そして1969年、アラファトはPLOの議長に就任した。彼が議長になったことでPLOは軍事色の強い組織に生まれ変わる。

ヨルダン内戦(黒い9月)

そんなパレスチナ・ゲリラの当面の課題はイスラエルへの武力攻撃を強めることであった。そのためにはイスラエルへ出撃する基地を提供する隣接した国の協力が必要であった。しかし、ゲリラ攻撃がイスラエルの報復を招き、イスラエルとの全面戦争を触発する可能性があったので、イスラエルと隣接するアラブ4カ国内のエジプトとシリアはパレスチナ・ゲリラの自国領の自由な使用を許さなかった。威勢よくゲリラに対する応援の声は上げながらもである。

だが国力の弱いレバノンとヨルダンではパレスチナ・ゲリラの活動は自由であった。ヨルダンは、住民の半分以上が第一次・第三次中東戦争で難民となったパレスチナ人である。そのためヨルダン政府としてはゲリラに遠慮した政策をとらざるを得なかった。したがってヨルダン領土からイスラエル占領地へと出撃し、その報復にイスラエル軍がヨルダンを攻撃した。また、ヨルダン国内に多数のゲリラの軍事基地が作られ、ヨルダンの主権を脅かす存在にまで成長していた。

これを危惧したヨルダンの国王は1970年9月、パレスチナ・ゲリラに戦争を仕掛ける。

このとき、劣勢に立ったゲリラを支援するために、シリア軍の機甲部隊の一部が国境を越えてヨルダンに侵攻した。アメリカはヨルダン王制を守る決意であった(アメリカにとってエジプトやシリアはソ連の支援を受けている東側の国だとみなしていたため)。そこでアメリカとの密接な連絡のもとに、イスラエル軍がシリアに対する動員を行った。シリア軍のヨルダン侵攻が本格化する場合には、イスラエル軍がシリアと交戦する姿勢を見せた。シリア軍はヨルダンから撤退した。

シリア軍の脅威から解放されたヨルダン軍は、パレスチナ・ゲリラに全力を傾けることが可能になった。その結果、ゲリラは大きな損害を受けてレバノンへと逃走することとなる。亡命先からの亡命であった。

レバノン紛争

さてレバノン紛争を説明する前にレバノン情勢について少し述べたい。

レバノンも、かつてはオスマン帝国の領土であったが第一次世界大戦の戦後処理でシリアとともにフランスの支配下に入った。歴史的、経済的にシリアとの一体感の強い地域であったが、1940年代に、それぞれ分離した形で独立を達成した。

このレバノンは、宗教的にキリスト教とイスラム教のさまざまな宗派が入り乱れる複雑な社会構成をしている。そこで、独立に当たって、各宗派の間で人口比による権力の分割が行われた。大統領はマロン派キリスト教徒、国会議長はスンニー派イスラム教徒のようにである。

ところが、各宗派の人口が均衡を保って同じ比率で成長しない限り、この各宗派間のバランスは壊れてしまう。キリスト教徒が多数派を占めていた頃の人口統計に基づいたシステムは次第に実情に合わなくなってきた。ムスリムの人口、その中でも特にシーア派の人口が著しく増えてきた。

しかし、それにもかかわらず、旧態依然の権力の分割、つまりキリスト教徒優位のシステムが続いてきた。そして、しだいにイスラム教徒の不満が高まってくることとなる。

そうした状況のレバノンにPLOが乗り込んできた。レバノンは、国家としてPLOを歓迎したわけではない。しかし、レバノン政府にはPLOを排除する力はなかった。PLOはベイルートに本拠を置き、レバノンの中で独立国家のようにふるまった。

このPLOの存在がレバノンの宗派間のバランスをいっそう危うくした。レバノンにおけるイスラム教徒の比重がさらに高まったのだ。イスラム教徒はこれに勇気づけられ、キリスト教徒は脅威を感じた。そして、ついに1975年レバノンは内戦に突入した。

当初、内戦はムスリム有利に展開され、PLOは実質的にレバノン全土を制圧する勢いを見せた。しかし、レバノンがPLOならびに急進改革派に支配下に置かれることで、レバノンとイスラエルの全面戦争が勃発し、戦禍が自国にも及ぶことを恐れたシリアが内戦への介入を決断。1976年6月、シリアが派兵し、レバノン全土を制圧する。

その後、1976年10月には、サウジアラビアとクウェートの仲介により、サウジアラビアのリヤドで内戦終結のためのアラブ首脳会議が開催され、内戦の当事者間で停戦合意が成立した。そして、この合意を受けて、シリアを主力とする停戦監視のための平和維持軍がレバノン全土に展開。11月21日、レバノン政府は内戦の終結を宣言した。

しかし、PLOはレバノン南部(シーア派住民が多い)においてシリアの勢力圏を脅かさない範囲での行動の自由は保持した。レバノン南部を拠点にしてイスラエルへのテロ活動を開始する。

このPLOの攻撃がイスラエル北部のガリラヤ地方の安全を脅かすということで、イスラエル軍は、1982年6月、大挙レバノン国境を越えて北上した(ガリラヤの平和作戦)。イスラエル軍はレバノン南部に点在しているPLOの拠点を壊滅させ、72時間後には

ベイルート郊外に迫った。アラブ側で唯一立ち向かったシリア軍も惨敗に終わる。

 結局、アメリカの調停によりPLOはベイルートを脱出、チュニジアに向かうこととなり、再度亡命することとなる。

PLOの路線転換

 1980年代に入り、エジプト・イスラエル間の和平は定着したものの、イスラエル国会はエルサレムをイスラエルの恒久的な首都であるとするエルサレム基本法を採択(80年7月)、翌年にはゴラン高原併合法案を可決(81年12月)。そして前述したガリレヤの平和作戦としてレバノンに侵略するなど、中東和平交渉をめぐる雰囲気は悪化していった。そして、このような情勢の推移に失望したパレスチナ人は、1987年12月から西岸、ガザでパレスチナ一般住民による反イスラエル蜂起(インティファーダ)を始めイスラエルを悩ませた。武器を持たず投石のみでイスラエル軍に抵抗する住民の姿は国際世論の同情を買った。

 インティファーダの発生はPLOにも大きな衝撃を与える。インティファーダがPLOの指導部とは無関係に発生したからである。インティファーダの参加者たちは、イスラエルの存在を認めたうえで、パレスチナ人としての権利を獲得することを主張。イスラエルを破壊してパレスチナ全土を解放するというPLOの基本路線の転換を求めた。

こうした情勢の変化を受けて、1988年11月パレスチナ民族評議会がパレスチナ分割決議案に基づいたパレスチナ国家の独立を宣言。イスラエルの存在そのものを否定する従来の路線を放棄する代わりにインティファーダで獲得した国際的認知度を国家樹立という具体的な成果に転化することを新たな目標として掲げた。さらに、翌12月、ジュネーブで開かれた国連総会に出席したアラファトは、イスラエルの承認とテロの放棄などを言明して、国際社会、特にアメリカの支持を取り付けようとした。

湾岸戦争での失敗

 そして、湾岸戦争を経てますますアラファトは武力を行使せずにパレスチナの独立を目指す路線を固めることとなる。それは、イラク軍のクウェート侵攻から間もない1990年8月6日、PLO議長のアラファトがクウェート侵攻をパレスチナ問題にリンクさせよとするイラクを支持する姿勢を示したことから始まる。

 アラファトの判断は、多国籍軍の攻撃の前にイラクが瞬時にして崩壊したことで、結果的には重大な誤りとなり、湾岸戦争後、PLOに深刻なダメージをもたらすことになったが、1990年8月の段階では、PLOのイラク支援は必ずしも荒唐無稽なものではなかった。

 すなわち、1985年にゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、ペレストロイカが進行するに伴い、ソ連はアメリカとの宥和を進めていた。その一環として、ソ連は、従来禁止していたユダヤ系市民の出国を認めるようになり、新たな移民がイスラエルに流入。パレスチナ系住民との摩擦が拡大していった。インティファーダの発生の背景にはこうした事情もあったのである。

 こうして、これまでPLOにとって最大の支援者であったソ連が変質しつつある中で、1989年、東欧において、雪崩を打って共産主義諸国が崩壊する。このことは、PLOにとって重要な支援国が次々と消滅していくことを意味していた。この結果、1990年8月の時点で、イラクは、PLOにとって、残された数少ない支援国の中で最大の国となっていた。

 したがって、イスラエルの攻撃によりレバノンから追い落とされ、パレスチナのインティファーダ闘争からも置き去りにされていたPLOにとって、イラクと敵対することは、当時の政治的な文脈上きわめて困難だったのである。

 しかし、イラクに加担したことにより、PLOは欧米諸国のみならず、他のアラブ諸国からも激しく批判されることになり、存亡の瀬戸際に立たされることになった。

 サウジアラビアをはじめ湾岸諸国からの資金援助が打ち切られただけではなく、クウェートのパレスチナ人労働者は職を失い、彼らからPLOに納められる税収(PLOはクウェートで働く出稼ぎ労働者から一定の税収を得ていた)もほぼ完全に途絶えることになった。

財政難の末、PLOは次第にイスラエルとの和平への姿勢を打ち出すようになる。

 

第5章 和平プロセスの歴史

 決して中東情勢は悪化の一途をたどっていたわけではない。一時期は中東の包括的和平が訪れるとさえ期待した時期がある。米ソ冷戦が終結し、アメリカが世界の実権を握ったときである。そのアメリカが和平プロセスへ本格的に乗り出す。それがマドリード和平会議であり、オスロ合意であった。この章ではどのように中東和平への道が模索され、どのようにし挫折していったかを考察する。

キャンプ・デービッド合意(エジプト・イスラエル間の和平交渉)

第四次中東戦争の停戦が成立すると和平交渉が始まった。交渉の主役はアメリカのキッシンジャー国務長官であった。ソ連は1967年以来イスラエルとの外交関係を絶っており、アラブ・イスラエル間の調停を行う立場にはなかった。キッシンジャーはエジプト・イスラエル間及びシリア・イスラエル間の二つの兵力引き離し協定を成立させる。

 キッシンジャーの目指していた中東和平は、エジプトとイスラエルの単独和平を実現することであり、最終的な合意をアラブ諸国とイスラエルの間に成立させる意志はなかった。このことは、キッシンジャーは、テロリズムを放棄し、イスラエルの生存を認めない限り、アメリカはPLOと接触しないとイスラエルに確約していたことからも明らかである。

 一方、念願であったシナイ半島の奪還という目標が徐々に達成されつつあったサダトは第三次中東戦争以来途絶えていたアメリカとの外交関係を再開し、イスラエルに対する融和的な姿勢を強め、第二次兵力引き離し協定に調印する。

 1977年に発足したアメリカのカーター政権は包括的和平を模索し、イスラエルの占領地を大部分あるいは全部放棄し、その代わりにアラブ側はイスラエルを承認して両者間に平和条約を結ぼうとする計画を掲げるが、イスラエル側は国防上受け入れることのできない計画であり、中東和平構想は早々に行き詰った。

 そんな中、エジプトのサダト大統領は1977年11月、イスラエルを公式訪問。イスラエル国会で演説して、イスラエルとの平和共存する用意のあることを表明した。

 この歴史的な出来事を契機として、1978年9月、アメリカのキャンプ・デービッドにおいてカーターを仲介としてサダトとベギン・イスラエル首相との間できキャンプ・デービッド合意が成立する。

 このエジプト・イスラエル間の合意には2つの柱があり、1つは両国間の国交正常化、もう1つはイスラエル軍政下のパレスチナ人に自治を与えるための交渉を行うことだった。この合意に基づき、1979年にエジプト・イスラエル間に平和条約が締結。イスラエルは、シナイ半島の返還を約束した。

 しかし、この条約締結は、アラブ世界でのエジプトの孤立を生み出した。シナイ半島と引き換えにパレスチナ人を売り渡すものだとの批判の声が高まった。アラブの大義への裏切り行為だとして、オマーン、ソマリア、スーダンを除くすべてのアラブ諸国がエジプトと断交した。

 しかも、パレスチナ人の自治のための交渉はまったく進捗を見せなかった。ベギンは約束どおりに自治についての交渉は確かに行った。しかし、交渉を約しただけで、その結果として自治を与えるとは約束していなかった。

 パレスチナ人の意向を全く無視したエジプト・イスラエル間の合意はパレスチナ人にとって受け入れられるものではなく、この合意を仲介したアメリカに対する憎悪はますます激しいものとなる。

 同時に、キャンプ・デービッド合意の成立は、アラブ世界の統一とパレスチナの回復を目標として掲げるアラブ民族主義が、現実の国際政治においては完全に意義を失ったことを意味する。こうした状況の中で、反米感情と結びついた形でイスラム原理主義勢力が台頭してくることとなる。

 ちなみに、第1章でも述べたが、サダトは1981年10月6日、対イスラエル和平条約の締結したことに激怒したイスラム原理主義運動の信奉者によって暗殺される。

オスロ合意

 湾岸戦争後の1991年10月末、アメリカはソ連(当時)と共同してスペインのマドリードで中東和平に関する国際会議を開催した。この会議は、全当事国が一堂に会したという点で中東紛争の歴史の中でも画期的な出来事であり、現在の和平プロセスの起点となっている。PLOはイスラエル側の拒絶にあい参加できなかったが、パレスチナ代表団はPLOの意を体したメンバーで構成された。

 会談では、シリア、レバノン、ヨルダンの各国とイスラエルとの2国間交渉の枠組みと、水資源や難民問題、安全保障などの多国籍問題についての共同会議設立が決定され、1991年12月以降、アメリカの首都ワシントンで二国間交渉が個別に行われた。

 当初、イスラエル側は、占領地におけるユダヤ人入植地を拡大しつづけるなど、和平に対する意欲が低かったが、1992年の総選挙で新たに労働党のイツハク・ラビン政権が誕生すると和平交渉は進展する兆しが見られるようになった。

しかし、和平プロセスの進展に対しては、ヨルダン川西岸とガザ地区を完全な自国領とみなして占領地の返還を拒否するイスラエル国内の右派勢力と、パレスチナ全域からのイスラエルの撤退を主張するパレスチナの強硬派が、ともに激しく反対。各種のテロ活動が展開された。なかでも、インティファーダ発生直後の1987年、イスラム原理主義組織のムスリム同胞団が組織した「ハマス(イスラム抵抗運動)」は、PLOの指導下に入らず、自爆テロを展開し、イスラエルを占領地から全面撤退させることを目標に掲げて、ガザ地区を中心に支援者を増やしていた。

 一方、PLOは、湾岸戦争でイラクを支援した付けが響いて破産寸前の状態に追い込まれ、組織としての弱体化は目を覆うばかりの状態にあった。PLOは、イスラエルとの対話路線を定着させており、ラビン政権が成立したころには、もはやイスラエルにとっての脅威ではなくなっていたが、放置すればPLOに代わってより過激なハマスがパレスチナ人の代表権を獲得することも危惧されるようになっていた。

 この結果、ハマスの勢力伸張は、イスラエルとPLO双方にとって共通の脅威となり、彼らは反ハマス連合として和解に到達する。

 イスラエルのラビン政権は、和平プロセスに関与しすぎたアメリカではなく、ノルウェーのホルスト外相を通じてPLOと非公式に接触。イスラエルとPLOの相互承認とガザ並びにイェリコ(ヨルダン川西岸地区の重要都市)でのパレスチナ人の自治を骨子とするオスロ合意がまとめられた。そして、アメリカは、このオスロ合意を引き取るかたちで、1993年9月、ワシントンで合意の調印式を開催する(ちなみにアラファトは93年7月にガザに帰還)。

 その後、1994年5月にはカイロでパレスチナ先行自治協定(PLOによる自治を開始するための具体的協定)が、翌1995年9月にはワシントンでパレスチナ自治拡大協定(PLOの自治権が行使される地域や分野などを定めたもの)が、それぞれ調印された。

 また、この流れを受けてイスラエル・ヨルダン間でも和平交渉が本格化し、水資源の分配、難民の扱い、国境線の画定、エルサレムへのヨルダンの管轄権をめぐって具体的詳細な交渉が行われ、1994年10月26日両国間平和条約が調印され、中東和平は着々と進展するかに思われた。

 しかし、1995年11月、和平プロセスを推進してきたラビンは、ユダヤの宗教系右派の青年により暗殺される。この事件を機に、イスラエルとパレスチナの関係は悪化の一途をたどるようになっていく。

和平プロセスの停滞

 イスラエルの後継首相となったシモン・ペレス(ラビン政権の外相)は、ラビンの路線を継承して中東和平プロセスを進展させようとしたが、1996年4月の首相公選で、対パレスチナ強硬派のリクード連合を基盤とするベンヤミン・ネタニヤフに敗れた。

 ネタニヤフ政権は、対外的にはパレスチナ和平を進展すると主張しながら、実際には、パレスチナ人自治区域でのイスラエルの権利擁護に熱心であった。このため、和平プロセスの停滞を危惧したアメリカのクリントン政権は、イスラエルとパレスチナ自治政府との関係改善に乗り出し、1997年1月、ネタニヤフに対してヨルダン川西岸のヘブロンからのイスラエル軍撤退を認めさせた。

 イスラエル軍のヘブロンからの撤退を受けて、パレスチナ自治政府のアラファトがエルサレムをパレスチナとイスラエルの共同首都とすることを提案したが、ネタニヤフはこの提案を即座に拒否。エルサレムがイスラエルの首都であることを示すため、同年3月からユダヤ人の大規模住宅地の建設を開始する。

 当然のことながら、こうしたネタニヤフの強硬姿勢はパレスチナ人の反発を招き、ハマスなどによる自爆テロが頻発し、和平プロセスは停滞した。

 これに対してクリントンは、和平プロセスを進展させるため、ネタニヤフとアラファトの両首脳を強引に説得し、1998年10月、ヨルダン川西岸からのイスラエル軍の追加撤兵と、パレスチナ民族評議会憲章からのイスラエル破壊条項の削除を定めたワイ合意を実現させる。しかし、クリントン、ネタニヤフ、アラファトの3者会談の期間中、エルサレムのバスセンターでハマス活動家による自爆テロが発生。イスラエルとの妥協を頑なに拒むハマスの存在が改めてクローズアップされた。

 また、和平プロセスの進展に経済的な裏づけを与えるため、1998年11月、ワシントンでパレスチナ支援国際会議が開催され、アメリカは5年間で9億ドルの支援をパレスチナに対して約束した。

 こうしたクリントン政権の努力にもかかわらず、現実には、パレスチナ和平は遅々として進まなかった。

遠のく中東和平の道(オスロ合意の破綻)

 1999年5月に行われたイスラエルの首相公選では、労働党のエフード・バラクが現職のネタニヤフを破って当選した。

 バラクは前任のネタニヤフの対パレスチナ強硬路線を転換し、2000年7月には、@ヨルダン川西岸地区からのイスラエル軍の撤退、Aパレスチナ難民の帰還権承認、Bガザおよびヨルダン川西岸地域でのユダヤ系入植者の削減、といった宥和的な提案を行ってパレスチナと交渉したが、アラファトは東エルサレムの帰属に固執し、両者の交渉は決裂した。これを受けて、アメリカはついに両者の調停を断念し、7月25日、クリントンはイスラエル・パレスチナ合意は不可能と宣言する。

 それでも、バラクは同年9月、和平合意が達せられればエルサレムの分割を事実上容認すると発表し、あくまでも和平の実現をめざしていた。

 しかし、バラクの宥和的な姿勢は、パレスチナに対するかどの譲歩であるとしてイスラエル国民の批判を招くことになった。こうした国民の不満を吸収すべく、右派リクードの党首であったアリエル・シャロンは、エルサレム旧市街の岩のドームが立つイスラムの聖地を視察するなど、パレスチナとの対決姿勢を鮮明にしていた。これに対し、シャロンによる岩のドーム視察を機に、再び大規模なインティファーダが発生している。

 シャロンは2001年2月の首相公選で当選、同年3月シャロン政権が発足。その政策ガイドラインの中で、暴力が継続している状況ではパレスチナ側との交渉は行われない旨を明確にする一方で、ヨルダン川西岸およびガザでのイスラエル軍による再展開の可能性を含む暫定合意について言及すると共に、新たな入植地は建設されない旨を宣言する。

それに伴って、イスラエルとパレスチナの和平交渉は事実上棚上げとなった。そして、ハマスをはじめとするパレスチナ人武装組織は、シャロンの強硬姿勢に反発するとともに、アラファトの軟弱路線を批判して、無差別テロを展開していく。こうして、ラビン以来の和平プロセスは完全に頓挫し、現在にいたっている。

 

第6章 現在の中東地域と今後の展望

 さて、前章で現在のイスラエル・パレスチナ情勢を紹介した。この章では、現在のイスラエル・パレスチナ情勢を除いた主な中東各国の様子を紹介する。また、今毎日のようにニュースで流れているイラク問題について触れ、今後中東情勢はどうなっていくかを考察したい。 

 難航するイスラエル・シリア間交渉

 イスラエル・シリア間の交渉は、シリアが要求するゴラン高原からのイスラエル軍の完全撤退と両国間関係正常化と安全保障措置およびその実施の段階分けなどをめぐって難航し、交渉は1996年に中断。1999年12月に再開されたが、2000年1月に再び中断された。2000年3月にはジュネーヴにおいてアサド・シリア大統領とクリントン会談が行われたが、交渉再開には至らないまま、6月にアサド大統領が死亡した。7月にはバッシャール・アサド大統領が就任したが、現在まで事態打開の動きは見られていない。

 シリアは中東紛争に対して大きな影響力を有する国であり、イスラエル・シリア間に平和関係が構築されないと中東紛争の包括的解決は困難である。

レバノン情勢

 PLOのレバノン撤退後、アメリカ・フランス・イタリアの多国籍軍が、ベイルートに展開したほか、レバノン南部はイスラエルの影響下に置かれた。しかし、レバノン住民にとっては占領者でしかなく、新たな占領者(アメリカとイスラエル)に対する抵抗運動を展開する。このときにシーア派組織のヒズブッラー(神の党)が殉教作戦という名の特攻攻撃を編み出した。要するに自爆テロである。

 自爆テロを始めとした抵抗運動にあったアメリカはレバノンから全面撤退(1984年)。アメリカの支援を受けていたレバノン政府に代わって反対派の主要な指導者が参加する国民和解政府が樹立される。アメリカの影響力は地に落ち、シリアの発言力が飛躍的に高まる。

 一方、イスラエルもレバノン政府との間で撤兵交渉を開始(1984年11月)。翌1985年1月、イスラエルが3段階にわけて撤兵することで決着が図られ、同年6月までにイスラエル軍はレバノン南部境界線沿いの「安全保障地帯」にまで撤退した。

 その後、2000年5月、イスラエル軍は南レバノンから一方的撤退を行い、国連が同撤退を確認した。しかし、レバノン及びシリアは、同撤退地域に含まれなかったシェバア農地からもイスラエルは撤退すべき旨を主張しており、また、旧安全保障地帯にはレバノン軍・警察は配置されず、依然ヒズブッラーが展開する状況が継続している。

 イスラエルの撤退後、国境付近ではレバノン側からの投石や、それに対するイスラエル軍の発砲が散発的に発生していたが、2000年10月にイスラエル軍兵士3名および民間人(退役大佐)1名がヒズブッラーに拉致された。その後も、ヒズブッラーの攻撃が複数発生しており、国境付近では依然として緊張した情勢が続いている。

アフガニスタン情勢

 1919年に王国としてイギリスから独立するが、相次ぐ内戦で主権は安定せず。1970年代にはクーデターによる政権交代が相次いで展開された。アフガニスタンという国はイスラム国家だが多民族国家であり、宗派や民族の違いによる争いから常に混乱している状態だった。国内には主力資源として天然ガスがあり、その利権が紛争を泥沼化させていた。

 そんななか、1973年、PDPA(アフガニスタン人民民主党)がソ連のバックアップを受けて無血クーデターを起こし、共和制に移行。78年、サウル革命で共産主義国家となった。だが、国内のイスラム教指導者が共産主義体制に対して反発し、79年3月以降、抵抗運動が展開する。

 1979年12月、共産主義政権の崩壊を懸念したソ連が軍事介入し、戦争となる。ソ連が軍事侵攻してまで親ソ政権樹立を図ったのは、アフガニスタンがソ連の南下政策の最重要拠点だからだ。おまけに天然ガスの利権までついてくるというわけだ。

 ソ連の侵攻に対しては、イスラム諸国から義勇兵として多くのアラブ人が戦争に参加した。これがいわゆるムジャビディン(イスラム戦士)である。そのなかにはウサマ・ビンラディンも含まれていた。

 義勇兵がソ連を叩くというのは共産主義の拡大を恐れるアメリカにも好都合であり、サウジアラビアやパキスタンとともに、最新鋭の武器を提供したり軍事訓練を行ったりするなど、反革命政府軍への協力を惜しまなかった。

 1985年、ゴルバチョフ政権樹立によって、ソ連が和平路線に路線変更。88年、アフガニスタン和平協定(ジュネーブ条約)が結ばれる。ソ連軍は89年2月までに撤退を完了。ほどなくソ連は崩壊した。

 アフガニスタン紛争は最終的に反革命政府軍の勝利となり、1992年4月、ムジャビディン政権が誕生する。しかし、宗派・民族の対立により再び内戦状態へと突入する。そのなかに突如としてあらわれたのがタリバンであり、またたくまにアフガニスタン各地を制圧していった。国土の約95%を支配下に治めたタリバンは国際社会に政府としての承認を求めていたが、パキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦以外の承認は得られなかった。

 そんななかで2001年9月11日、アメリカ同時多発テロが起こった。アメリカ政府はサウジアラビア出身のウサマ・ビンラディンをテロ事件の黒幕と断定。ビンラディンをタリバンが匿っているとして、同年10月より米英のタリバンに対する武力行使が行われた。12月には北部同盟(反タリバンの最大勢力)等がタリバン支配地域を奪還。同月、アフガニスタン各派の代表は今後の和平プロセスに関する合意を達成し(ボン合意)、12月22日には暫定政権が発足。02年6月には、ボン合意に基づき緊急ロヤ・ジェルガ(国民大会議、伝統的な諮問機関)が開催され、カルザイ暫定政権議長を大統領とする移行政権が発足した。

 02年1月に、首都カブール及び周辺地域に国際治安支援部隊(ISAF)が本格的に展開し、治安状況は現在のところ、ある程度の安定が見られているが、7月6日には、ハッジ・カディール・アフガニスタン移行政権副大統領が暗殺された。また、北部地域など一部地域では有力者間の武力衝突が散発的に発生しており、カルザイ暗殺未遂事件が発生するなど未だ治安情勢は安定していない。以前タリバンも勢力を維持しており、オマル師、ビンラディンともに健在であるといわれている。

緊迫するイラク情勢

 湾岸戦争後、クウェートへの不可侵、国連査察の無条件受け入れ、大量破壊兵器の廃棄、などが国連安保理決議によってイラクに義務づけられ、イラクもそれに同意した(安保理決議687)。

 1991年より開始された国連査察特別委員会(UNSCOM)及び国際原子力機関IAEAによるは97年6月以降、イラクによる査察及び妨害の事例が相次ぎ、98年1月12日には、イラク政府は査察団の活動を許可しない旨を決定。事態の打開に向けて、アナン国連事務総長がイラクを訪問し、98年2月22日にアジーズ・イラク副首相との間で了解覚書を締結。査察が4月に再開され、大統領施設にも査察が実施されたが、その後もイラク側による査察団への非協力や妨害が継続、国際社会との間で緊張が高まったに。その後、11月に査察が再開されたが、12月15日に、UNSCOMがイラクから完全な協力を得られなかったとの報告が出されたのを受け、16日より米・英による空爆が開始された。

それ以前にも、アメリカはイラクを攻撃している。96年9月イラク北部のクルド人同士の政権争いに、イラク軍が軍事介入したときも、アメリカはイラクが湾岸戦争停戦決議を破って北部の安全保障地帯に侵攻したと主張してイラクを攻撃した。

しかし、98年の国連査察団は中立ではなく、アメリカ・イスラエル寄りであった。そのため、アメリカはイギリスと日本以外の賛同を得られなかった。湾岸戦争の時にはイラクの侵略行為に反発してアメリカに協力したアラブ諸国も、アメリカのあからさまなイラク叩きには乗ってこなかった。

 米・英の空爆以降、イラクは国連による査察を全く受け入れていなかったが、2002年9月に国連の査察官の無条件受け入れを表明し、国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)とIAEAの査察が始まった。

このUNMOVICは公募で集めた国連職員で構成されている。前身のUNSCOMのように各国政府から派遣された人達の混成部隊ではない。査察官はじめスタッフは国際公務員として守秘義務を課せられ、現地査察の中身は安保理を通じて報告という方式をとっている。UNSCOMが「米国のスパイ」と非難され、査察活動を拒否された結果の措置であろう。

しかし、アメリカはイラク側の姿勢を非協力的だと強く批判し、着々と戦争の準備を進めている。そもそも、アメリカはなぜここまでイラクにこだわるのか。

一つはフセイン政権を打倒し、イラクに新米政権を樹立させ、イラクの石油利権を手に入れるためであるといわれている。世界最大の石油消費国アメリカにとって、採掘コストの安い湾岸諸国の油田は魅力的だ。湾岸戦争後、サウジアラビアが反米姿勢を強めている今、イラクの石油を手に入れ、サウジアラビアをけん制したい思惑もあるのかもしれない。ちなみに、ロシアやフランス、中国などがイラク攻撃に慎重なのはイラクから安く石油を購入しているからである。

また、第二にイラク攻撃に国民の目を向けさせることによって国内の経済問題から目をそらそうという思惑もあるだろう。エンロンの破綻などでアメリカ経済の好調を支えてきたメカニズムの問題が明らかになると、アメリカの株価が下がり、ドルの価値も下がってきた。そんなときに起きたのがアメリカ同時多発テロであり、ブッシュ政権は対テロ戦争をすることによってブッシュの支持率は急騰、経済面の批判をかわすことに成功した。しかし、アフガン戦争が一段落した後、再び企業スキャンダルや株安などの経済問題の難問が持ち上がった。そこで、また戦争をすることで政治生命を維持しようとしているのではないだろうか。

イラク攻撃で中東情勢はどう変わるか

それではアメリカがイラク攻撃をすることによって中東情勢はどう変わるのだろうか。

アラブ各国に渦巻いている反米感情がますます高まるのは必至だ。いまだ政情不安定なアフガニスタンは再び内戦状態に陥るだろうし、残存するアルカイダやタリバン勢力が各地で報復としてテロ活動を行う可能性もある。また、アラブ諸国のほとんどの国が政権こそ親米だが、民衆はほとんど反米であり、アラブ諸国各地で暴動がおきかねない。それを受け、これまで親米的だった国の政府は、反米的な姿勢を強めてしまうだろう。サウジアラビアやエジプトは、すでにそうなっている。そういう意味では世界最大の石油産出国のサウジアラビアを敵にまわしてしまうのは、石油確保のための戦略とはいえない気もするが…。

先ほどの話に戻ってしまうが、かつてアメリカの世界戦略はソ連との力の拮抗状態の上に外交関係を築くとともに、一つの地域のライバル同士を戦わせることによって、大国の出現を防ぐという「均衡戦略(パワー・オブ・バランス)」をとってきた。しかし、いうことの聞かない国は全部潰すという「アメリカ一強主義(ユニラテラリズム)」に転換しようとしているのかもしれない。

となると中東地域においてはイスラエルという一強を軸に政策を展開していくことになる。現に今のアメリカ上層部は親イスラエルの人間が多い。結局この戦争で一番得をするのはイスラエルなのかもしれない。

中東和平の可能性(新しい仲介役)

 常に大国の思惑に翻弄され、戦火にまみれてきた中東情勢は、民族・宗教の問題も絡み合い、複雑化している。和平への見通しは依然として立たない。オスロ合意の時代に仲介役を担ったアメリカも、いまやアラブとパレスチナの和解は無理だという姿勢で仲介役を放棄しているようにも思える。アメリカに代わる中東和平に不可欠な仲介役に十分な国はないのだろうか。

 私はトルコを挙げたい。トルコは西洋的な政策をとるイスラム国である。現在アフガニスタンの首都カブールに展開している国際治安支援部隊の中核を担っているのはトルコ軍だ。アメリカが「アメリカ対イスラム」という構図を避けるために要請したといわれている。カブールではトルコ語を理解する人も少なくないこともあるのだろう。

 2002年11月3日トルコの総選挙でイスラム系政党が全議席の3分の2を占め、第一党となった。新政権はイスラム諸国との関係を深めつつ、EU(ヨーロッパ連合)に加盟することを第一の目標としている。しかし、そのことによって、チェチェンやアフガニスタンなどの難民がトルコを経由して流出してくるのではないかとEU加盟国は難色を示している。EUへの早期加盟、アメリカ・ロシアとの良好な関係、その上、難民にも寛大でありたいとするトルコ新政権の無謀と思える政策が一定の成果を上げ、トルコが中東紛争の仲介役の資質を真にえたとき、中東和平へのステップが始まるものと思う。そのことを期待しつつこの論文をおえたい。

 

おわりに

 アメリカ同時多発テロ以来、イスラムや中東紛争に関する本が多数出版された。そのせいで、逆に困惑してしまった。いろいろな論調があり、参考資料を選ぶのに苦労した。また、題材にしたイスラムと中東情勢は思っていたよりも、ずっとずっと複雑でまとめるのにも苦労した。中国のウイグル自治区やロシアのチェチェン問題やウイグル人問題なども論文の中にいれたかったし、アメリカ同時多発テロやイスラム教に関することももっと詳しく書きたかったが、自分の力では難しかった。それが残念である。

 だが、大国の思惑に翻弄され、現在まで混迷を深めている中東の様子を最低限のレベルではあるが紹介できたと思う。

 室本ゼミの下で4年間勉強させてもらい、戦争に関する意識が変わった。それまでは日本人に多く見られる、理想論を掲げる人間であったが、少し現実的な目で世の中を見られるようになった気がする。いずれ、この現実的なビジョンが社会に役に立つことと思う。

 最後に4年間ご指導くださった室本先生に感謝の意を述べ、終わりの言葉とかえさせていただきたいと思う。ありがとうございました。

 

<参考文献>

わかりすぎ!国際紛争 真田健次&時事問題研究会

イスラームと国際政治―歴史から読む― 山内昌之

なぜイスラムはアメリカを憎むのか 内藤陽介

大人の参考書「中東問題」がわかる! 大人の参考書編纂委員会

中東とイスラムが本当によくわかる本 「中東」と「中近東」はどう違うのか ッジ・スズキ

誰にでもわかる中東紛争―その背景、歴史、和平交渉の現状― 須藤隆也

湾岸戦記 村松剛

アラブとイスラエル パレスチナ問題の構図 高橋和夫

イスラムから見る国際ニュース 宮田律

<インターネット>

田中宇の国際ニュース解説

日本外務省ホームページ

<テレビ>

NHK ユーラシア 21世紀の潮流