読書雑感

このコラムは、企業経営者、団体のリーダーなどの方々にご登場をいただき、読書を基本軸に仕事や生活、文化、芸術、経済、哲学、を語って頂くコラムです。
さて、第15回の今回は、かつて絶対不可能と思われた車粉問題解決に中心的な役割を果たされた黒田隆樹さんの「車粉追放と人生の詩(師)との出会い」をお届け致します。
北国の厳しい冬を乗り越えやっと陽光うららかな春の訪れを迎える頃、札幌を始め道内主要都市に暮らす人々を悩ませていたのが、車粉問題でした。それはスパイクタイヤの使用による健康問題であり重大な環境問題でもありました。黒田さんは定年1年前のこの春、札幌市交通事業管理者・交通局長を退職されました。34年間の長い公務員生活の中で特に意義深い仕事のなかから、この車粉と格闘した「その時」を克明につづって頂きました。行間から立ち上る筆者の仕事への愛情と市民への奉仕のこころを、きっと読者の皆さんは感じて頂けるのではないでしょうか。過去に失われた言葉「公僕」がここには確かに在る。どうぞ前編をお楽しみください。
■第15回 「すべての仕事は空虚である、愛がなければ。」
〜車粉追放と人生の詩(師)との出会い〜 前編

黒田 隆樹 (株)北海道熱供給公社 顧問まずは、この非常にわかりにくいタイトルをお許しいただきたい。

はじめに
 この3月31日まで、札幌市役所34年間の勤務を終え、定年を1年残し勇退した。最後の3年間は、交通局の交通事業管理者として「市営バスの民営移譲」、「路面電車の存廃問題」、「地下鉄の経営再建問題」等に取り組み、地下鉄の黒字化の目標年度を大幅に前倒しで実現できる目星がつくなど、一定の成果をあげることができた。この他、「中央卸売市場の再整備」、「札幌駅南口開発と熱供給事業」、「廃プラスチックリサイクルなどの環境問題」等、その時々の大きな課題に正面から取り組むことができ、自分としてはシアワセ者だと思っている。

1.スパイクタイヤ問題とは
真っ黒くなった雪が解け、
春先には車粉の除去作業に
追われる
 なんと言っても自分の記憶に大きく残る仕事は、スパイクタイヤによる粉塵問題である。この問題に担当者として、昭和54年から4年間と1年間他の部署への異動後、係長として、昭和60年から3年間の計7年間携わった。
 スパイクタイヤ問題といっても、記憶が薄れて(北海道に当時住んでいなかった人も含め)いると思いますが、冬期間のスパイクタイヤによって削り取られた道路のアスファルトが、道路端の雪に混じり、黒い雪の塊となり、春先雪解けとともに粉塵となって舞い上がる。特に道路上雪の少ない秋口と春先が粉塵のひどい季節であり、この粉塵をあえて「車粉」と名付けたのです。

↑白線が消える 〜 初雪とともに、スパイクタイヤ装着率が上がり、2週間程で
横断歩道の白線標示がなくなり、この状態が翌年の春まで続く。
 スパイクタイヤ問題は当時、美しい都市と言われてきた札幌の大気を汚し、健康への影響も大きく懸念されることから、早急に解決しなければならない深刻な社会・環境問題となっていた。

 過去に札幌市における深刻な環境問題としては、終戦後まもなく、移動手段として使われていた馬車(そり)の馬の糞が乾燥して舞い、馬糞風による大気汚染と昭和30年代後半から40年代初めの暖房用の石炭による煙突から出ている煤塵問題があった。前者は、道路上に落とさないように、馬に「おしめ」をしなければならないという決まりを条例で定め解していった。また後者は、都心部そして大規模住宅地の光星、真駒内、もみじ台地区などにおいて高温水を共通の暖房用として送る熱供給事業の実施によって解決している。
かつての札幌の街は黒い粉塵の底に沈んでいた。(昭和61年12月11日)
そして再び札幌に青い空と白い雪が戻った。

 行政としてスパイクタイヤ問題に初めて手をつけたのが昭和54年であり、道路端の堆積土壌と浮遊粉塵の成分調査とスパイクタイヤ装着率の調査を開始した年に担当することになったのです。

 この問題に本格的に取り組むきっかけの一つが、世界の北方圏の都市が集まり、課題解決に向け話し合う「北方都市会議」の開催でした。昭和57年に札幌市で開催された第1回会議で諸外国のスパイクタイヤ規制の事例を知り、大いに勇気づけられ、対応が加速していったのです。
2.スパイクタイヤ問題の困難性
 スパイクタイヤを規制するにしても、車の移動そのものの広域性もあって、一自治体である札幌市だけの取り組みには限界があるだけでなく、この問題は市民の「健康・環境」をとるか、スパイクタイヤによる「冬道の交通安全」を取るか、さらに「加害者(運転手)自身が市民であり、同時に被害者にもなる」という、一見相反する異なる事柄が関連し、その解決を困難にしていた。
 この解決には、スパイクタイヤの規制はもとより、冬の道路環境の整備、市民協力といったあらゆる角度からの対策が必要とされた。特に行政として、解決の方向をしっかりと見据えた先導者としての統制が重要であるとともに、青い空と白い雪を求める強烈な市民総ぐるみによる街づくりに向けた運動が必要であった。そのためにも、まずは広域行政を所管する北海道、交通行政を所管する北海道警察、周辺市町村、通産省(タイヤ所管)、環境庁などの国、そしてタイヤメーカーとの強力な連携を必要とした。しかし国は、東京には雪が降らない為、スパイクタイヤ問題そのものの認知度が低かったことから、同じようにスパイクタイヤ問題で悩んでいる本州の仙台市、長野市、松本市などと連携の輪を広げながら、国と折衝していったのである。

 とにかく忙しかった。しかし、楽しく充実した時代でもあった。
30歳代という働き盛り、まさしく団塊の世代(昭和22年3月生)そのものといった感じ。夜12時近くまで仕事をし、すすきのも好きだった。その他、地域で町内会の役員をしていたほか、小学生のソフトボールの監督で週4回、朝5時半から練習という超多忙な生活を送っていた。
 これを当時抵抗なくこなすことができたのも、そして自分の進む道を確認できたのも、一つの詩との出会いであった。自分は絵画・音楽・演劇などおおよそ芸術的要素に拒絶反応する人間であるが、たまたまある広告会社の社内報の中で小さく載っていた詩に思わず目がいった。その瞬間、衝撃的な出会いであった。そのページの詩の部分を切り抜き、職場の机の端の方に貼り、照れもあったことから、その上に書類をおいて他の人の目に触れないようにしながら、たまに見て一人納得していた。その詩は次のようなものである。

仕事を通して人生を愛することは、成功の最も心の奥深い秘密に通じたことである。人生は闇である、とも人は言う。それにあなたは疲労の中で疲労が如何なるものかくり返して言うだろう。それなら私も言おう。人生は真に闇である、躍動がなければ。そしてすべての躍動は盲目である、知がなければ。そしてすべての知は空虚である、仕事がなければ。そしてすべての仕事は空虚である、愛がなければ。ポール・ヴァレリー


 この詩人がどこの国の人で、有名であるかどうかもお恥ずかしいが全くわからない。この詩を読んだ人それぞれに感じ方は違うとは思うが、自分にとっては目からウロコ。この3月に退職するまで同じ状態で机の上に存在していた。そして今は自宅で大切に保存している。

以下、次回後編につづく・・・お楽しみに。2006年4月17日脱稿

■筆者プロフィール
黒田 隆樹さん [(株)北海道熱供給公社 顧問]
■経歴
1947年3月 北海道名寄市に生まれる。
1965年3月 北海道立名寄高等学校卒業
1969年3月 北海道大学法学部法律学科卒業
1969年3月 伊藤忠商事(株)紙パルプ部入社
1972年3月 同社退職
1972年4月 札幌市役所勤務
1997年4月 都市整備局開発部駅南口担当部長
1999年6月 環境局清掃部長
2000年4月 環境局環境計画部長
2001年4月 経済局理事(中央卸売市場長)
2003年4月 交通事業管理者
2006年3月 退職
2006年4月 (株)北海道熱供給公社 顧問

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