読書雑感

このコラムは、企業経営者、団体のリーダーなどの方々にご登場をいただき、読書を基本軸に仕事や生活、文化、芸術、経済、哲学、を語って頂くコラムです。
さて、今回は、かつて絶対不可能と思われた車粉問題解決に中心的な役割を果たされた黒田隆樹さんの「車粉追放と人生の詩(師)との出会い」後編をお届け致します。
札幌を始め道内主要都市に暮らす人々を悩ませていた車粉問題、それはスパイクタイヤの使用による健康問題であり重大な環境問題でもありました。黒田さんは定年1年前のこの春、札幌市交通事業管理者・交通局長を退職されました。34年間の長い公務員生活の中で特に意義深い仕事のなかから、この車粉と格闘した「その時」を克明につづって頂きました。行政・市民・業界、幾重にも重なる利害関係の螺旋を忍耐強く解きほぐし、気の遠くなるような調整作業を貫徹出来たのは、「奉仕のこころ」と「仕事への愛」の強い信念が筆者の気持ちを支えたのでした。どうぞ後編をお楽しみください。
■第15回 「すべての仕事は空虚である、愛がなければ。」
〜車粉追放と人生の詩(師)との出会い〜 後編

3.スパイクタイヤ対策
黒田 隆樹 (株)北海道熱供給公社 顧問 スパイクタイヤ対策が数限りなくある中で、特に自分の記憶に深く残るものとして次のようなことがある。
(1)スパイクタイヤ1万本ピン抜き作戦
 特にひどい春先の車粉対策として、もう春だからスパイクタイヤからピンを抜いて、スノータイヤとして走行してもらおう、というもの。少々乱暴な対応だとは思ったが、ピン抜きは路面に合わせて早めの脱スパイクを進め、次シーズンのスタッドレスタイヤの使用促進に役立った。
 大通西8丁目広場に学生アルバイトを募り、エアー式のピン抜き機により、タイヤ1本5分間程度で抜いていった。昭和60年からピン抜き1万本、2万本、3万本と実施環境を拡大したが、毎年春に大通公園で実施されるこの行事は、当時、春の風物詩となった。
ピン抜き会場の様子
↑ピン抜き会場の様子
(2)スタッドレスタイヤ1万本モニター作戦
モニター募集ポスター
↑モニター募集ポスター
 車粉公害解決に向けての対策は、スタッドレスタイヤの普及にあるが、当時は冬道でのスパイクタイヤに対する信頼という「スパイク神話」があった。スタッドレスタイヤへの切り換えへの不安を取り除くため、タイヤ購入費の一部を市が補助して、まずは使用してもらい、解決に向け実際に市民参加をしてもらおう、という大胆な作戦。
 新たにスタッドレスタイヤを4本購入した人を市のモニターとして委嘱し、タイヤ性能等に関するアンケートに応じてくれた人に対し、報償金として9千円をモニターの口座に振り込むというもの。当初はタイヤ1本相当分の補助として9千円を考えていたが、財政当局から税金を市民が本来負担すべきタイヤ購入の補助として支出するのはおかしいし、たとえモニターとしても1人9千円×1万人で9千万円の支出はあまりにも大きすぎる、というケンケンガクガクの議論の末、最終的には市民会議において、何としても普及のために必要という進言に対し、市長の英断で採用となった。その後、2万人モニター(1億8千万円)、4万人モニター(3億6千万円)にまで拡大された。
(3)「札幌の街を車粉から守るためスパイクタイヤの使用をきれいする条例」の制定
 担当者時代に全国に先駆けて「スパイクタイヤ使用期間制限指導基準」を昭和58年2月に制定し、スパイクタイヤのはきかえ時期を明示し、使用自粛を呼びかけた。しかし、市民へのお願いということだけでは限界があり、抜本的な対策を求める声が強くなっていった。
 昭和60年に初代のスパイクタイヤ対策係長として再び勤務についた当初、市のトップから呼ばれ、3年間で罰則付のスパイクタイヤ規制条例をつくるよう厳命が下った。しかし、車社会にあって、車の広域性を考えた場合、札幌市の市境で規制内容が変わるのでは市民はついてこない。ましてや罰則付では、その実効性を考えると…。だが、トップがそう判断せざるを得ない程、車粉問題は深刻なのだ。
 昭和60年7月に、学識経験者、市民代表など30人からなる「札幌市スパイクタイヤ問題対策審議会」(会長:菅原北大工学部教授)を設置し、「車粉問題の全面解決」を基本理念として使用規制の具体的な施策の策定に向け、計21回に及ぶ審議を経て、同61年9月には「最終答申」が市長あて提出されるというハードスケジュール。答申では、「スパイクタイヤの全面禁止」を目指し、当面は期間規制とし、更にその内容を強化していくというもの。そして、その内容に沿った市の条例案ができあがった。この条例の名称は、表題でもあるように、市民への定着を願い、理念を訴える意図で、札幌市の条例上初めてひらがなを用いたものとした。
(4)市民運動のうねり
 車粉問題解決のためには、市民の一人ひとりが解決に向けて考え、市民自らの主体的な意思により、今後の進むべき道を決めていく、いわば市民自治による政策決定がなければ、たとえ条例が制定されたとしても、実効のあがらないものになってしまう恐れがあった。そこで、市民の多くの賛同が得られる市民総ぐるみの運動展開が必要であった。
ア.「市民の市民によるスタッドレスAre You?運動推進委員会」
 車粉のないクリーンな街づくりをめざして、スタッドレスタイヤ普及の輪を広げていくことを目指して、当時の商工会議所会頭が会長に、青年会議所理事長が事務局長となり、我々行政とも十分連携をとりながらスタートした。
 また、札幌市に「脱スパイク・スタッドレスシティ推進宣言」を行う団体が相次ぎ「Are You?運動」が幅広く浸透していった。
イ.「スタッドレスの会」
 行政などのスタッドレスタイヤ普及の取り組みに先んじて、昭和58年から普及の実践を含め、様々な運動を展開してくれた。(代表:関根司法書士)
ウ.「車粉をなくす市民の会」
 札幌市における審議会の答申と、それを受けた市の条例案の行方を見定めた上で、発足した会(代表:西尾医師他各3名)である。
 罰則は規制条例の制定を求め、「法律上定められている住民の直接請求権(札幌 の有権者の50分の1以上、約2万2千人の署名が必要)を行使したのである。期間わずか1ヶ月しか認められていないが、昭和61年11月15日から始まった署名活動は最終的に6万人を超えた。
 当初、市の方では、11月末からの第4回定例市議会に市の条例案を提出という考えもあったが、それを見送り、翌年2月の第1回定例市議会に提案し、市と市民の会がそれぞれ提出した二つの条例案が同時に審議される、という異例なケースとなった。最終的には罰則なしの市の案が通ったが、札幌市にとって後にも先にも直接請求権を行使しての条例案が提出されたのは現在までで見てもこの時だけであり、市民の会が投じた運動の流れは、真に貴重なものであり、その後の具体的な実践が大いに進んだ。
 これらの市民運動のうねりには、今でも感謝している。
4.スパイクタイヤの終り
 その後、北海道、東北6県、長野県の市民グループが、大手国内メーカー7社を相手取り、スパイクタイヤの製造及び販売中止を公害等調整委員会に申し立てを行い、同委員会は、昭和63年6月「スパイクタイヤの製造は平成2年12月末日限りで、販売は平成3年3月末日限りで中止する」という内容で、調停が成立した。このことによって、事実上、スパイクタイヤ問題は終焉した。
なお、北海道が平成元年10月に「北海道脱スパイクタイヤ推進条例」を制定し、国においても平成2年6月に「スパイクタイヤ粉塵の発生に関する法律」が制定された。

終りに
 スパイクタイヤ問題=車粉追放運動は、昭和50年代半ばから平成3年頃までの約10年間ちょっとの出来事であるが、自分たちの街の快適な環境を取り戻すために、時代を先取りしながら市民自らの手で青い空と白い雪を取り戻すことができたのは、貴重な歴史の1ページだと思う。
 その仕事に携われた自分は、やはりシアワセ者であり、人生の詩(師)に感謝したい。最後に、前・後編の長文を読んで頂いた読者には心からお礼を申し上げます。
2006年4月17日 脱稿

■筆者プロフィール
黒田 隆樹さん [(株)北海道熱供給公社 顧問]
■経歴
1947年3月 北海道名寄市に生まれる。
1965年3月 北海道立名寄高等学校卒業
1969年3月 北海道大学法学部法律学科卒業
1969年3月 伊藤忠商事(株)紙パルプ部入社
1972年3月 同社退職
1972年4月 札幌市役所勤務
1997年4月 都市整備局開発部駅南口担当部長
1999年6月 環境局清掃部長
2000年4月 環境局環境計画部長
2001年4月 経済局理事(中央卸売市場長)
2003年4月 交通事業管理者
2006年3月 退職
2006年4月 (株)北海道熱供給公社 顧問

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