読書雑感

このコラムは、企業経営者、団体のリーダーなどの方々にご登場をいただき、読書を基本軸に仕事や生活、文化、芸術、経済、哲学、を語って頂くコラム、エッセイです。第19回の今回は、昨年の夏熱く燃える甲子園で決勝再試合を劇的に戦った駒大苫小牧高校野球部の「深紅の旗・その後」をお届けしています。筆者の蔵重俊男さんは香田監督が駒大苫小牧に赴任してから様々な形で支えてきた一人であります。北海道の高校では初となる甲子園優勝までの苦闘の10年間の物語は、当大学のwebで好評連載中です。今回は、初めて深紅の旗を手にしてから今日までの時間を改めて、つづって頂きました。それは、夢を手にしたあの瞬間から、言い知れぬ重圧が監督、部員、蔵重さんら協力者の肩にまで重くのしかかってくる時間との格闘であり、恐ろしいまでの不安とあふれんばかりの期待の始まりでもありました。平成16年夏の歓喜の優勝から平成18年夏、早実との激闘までの濃密な時間を書き記した言わば、特別版「深紅の旗・その後」をお届けいたします。きっと「何か」を感じて頂けるものと思います。当初は3回シリーズを予定し、読者のみなさまにご案内しましたが、どうしても紙面が足りず、4回シリーズといたします。今回はその3回目となります。どうぞお楽しみにください!

■第19回 深紅の旗その後・「絶頂から奈落の試練に立ち向かう人々」
筆者:蔵重俊男

「深紅の旗は我にあり」著者 蔵重俊男

道民の期待に見事に応え、「連覇の偉業」に酔いしれていた私であった。だがその喜びも束の間、部長による部員への暴力行為が明らかになった。今回の部長による暴力行為は、春先の朝練習の時と、甲子園での宿泊先での二度に渡るものだった。仮に正当な理由があったとしてもそうした行為は許されない時代になっている。熱血あふれる指導者の愛情表現は、もう少し違った形で表現しなければ単なる暴力行為となって一年間の謹慎処分を課せられる事になる。被害を受けた子の親と学校長が電話で交わしたやり取りが注目視され、「隠ぺい」があったとか、「優勝旗の返還」や「何発なぐった」など、私の見方からすれば、一部の報道の視点がズレた方向に走り、そのまま益々エスカレートしていった。ある学校関係者は「こんな野球部、私の一言でいつでも潰してやる」と正気で、それも子供達の前で暴言を吐く者も出る始末だ。こうした悲しく虚しい事柄は、どれほど子供達の心を傷つけたことか。このような関係者の失言は、私にしてみればとうてい許されるものではなかった。

その後、暴力行為の事実関係が話し合いによって次第に煮詰められた。学校長の「勘違い」もあり、その子の親も柔軟な姿勢を見せ始めてくれた。さらに弁護士の仲裁により、正式な監督と部長の謝罪によって書面上は解決した。だが「おいおい、勘違いで解決するような問題だったのか」と周りの人達の中には首をかしげる者も少なからずいた。暴力行為の事実を踏まえ、学校側は弁護士を中心に「危機管理委員会」を設置しここに至るまでの経緯を再度確認した。そして今後の生徒指導、卒業、進学に関しては、学校側が全て責任を持って行うと言うものである。表面上は解決したかに見えていた。一方野球部の現場では監督が子供を守る形で、毎日その子供を札幌の自宅から学校まで送り迎えをしていたのである。こんな事を監督がやっていたなど、知る由もなかった。「監督らしいよな」と話しながらも、一般生徒もピリピリした登下校だから、周囲が静観し始めるまで続くのだろうなと思っていた。自宅から寮生活に戻ってからも、引き続き監督はその子供の送迎を続けていた。そうした監督や周囲の配慮に徐々に心を開き独り立ちして行く。「今はわからなくていい、いずれ分かってくれれば良い事だから」と、私たちはそっと見守っていた。

監督はAAAの韓国遠征のコーチを辞退する事を申し入れ、正式に受理された。林裕也と田中将大が、監督の分まで頑張って来ることを誓い合い、全日本チームに合流した。裕也がキャプテンとして全日本チームを引っ張りながら、勇躍、チームを優勝に導いた。また幸いにしてその後、高野連からは国体出場や新チームへのペナルティもなく、久しぶりにのびのびと野球をやれる環境になった。主将林裕也は、「国体は絶対優勝するぞ」と固い決意で試合に臨み、これまでの悔しい思いを全てぶつけ、見事に三年間の有終の美を飾ったのだった。

更に、新チームは、練習試合を4試合消化しただけで地区予選、全道大会と公式戦に臨み、多くの課題を残しながらも頂点を極めた。なかでも新主将の田中将大が投打に大活躍し、その勢いをもって明治神宮大会に挑んだ。中沢、本間が打撃好調の中にあって試合毎に奥山や三谷と言ったヒーローも生まれた。ここでも、互いに刺激し技術を高めあっている。選手層では何処にも引けをとらないメンバーが揃ってきた。田中の豪腕も冴え、まだまだ未熟なデェフェンスを全員でカバーしながら、清峰、高岡商業、早稲田実業を撃破し、決勝は関西を5対0と完封して頂点を奪取した。私は、身震いするほど嬉しかった。

監督はこの神宮大会を勝つ事で、甲子園の切符をもう一枚、北海道に持って来ようと願っていた。田中を四連投させるあたりは真剣そのものであった。北海道の高校野球界を活気付けるこの勝利は、彼らにとっても新たな大きな自信を勝ち取ったものと言える。一年間を通しての三冠は、史上初の快挙であり、伝統と誇りが、一人一人の手によって築き上げられて行く。

その陰で、実質指導者二人体制で指揮を執ってきた秋、監督が体調を崩し入院をする非常事態もあったが、その間、茂木コーチの苦労や、苫小牧駒澤大学野球部の教え子達が連日指導に来てくれたことを、現役の父母の会や学校関係者はどれだけ気がつき、そして理解していたのだろうか。こうした支えは本当にありがたいことであった。いざとなれば、信頼できる裏方が監督を支えに来る。「茂木コーチには心よりありがとうと、言いたい。こんな頼もしい奴は、なかなかいないな」と彼の人柄に改めて、「感謝」「感謝」だ。ご両親も立派だが、高校時代から長い間、彼の姿勢を見て来て「何度も目頭を抑えるシーン」があった。私が見る限り、監督との二人三脚は漫才で言う「つっこみ」と「ぼけ」の様で、これからも益々楽しみになってくる。

オフシーズンになっても監督、指導者は多忙を極める。毎年、三者懇談を皮切りに進学や就職先への訪問があり、シーズン第二幕の始まりと言っても過言ではない。時間との戦いだ。とりわけ先決しなければならないのは、事件当事者の進学先を第一に考え、監督はひたすら頭を下げて各大学を奔走する。一人で駈けずり回っているが、なかなか受け入れ先が無く苦労の連続だった。そうした監督の誠意に応えてくれる大学がようやく見つかり、少しは肩の荷も降りたようだ。やはり、こうした事も全て監督が直接やっていると思うと監督の深い人間性に驚かされるとともに一方では無性に腹が立ってくる。手土産の果てまで自腹だから、奥さんの苦労が手に取るように分かる。日本一の監督になったからと言って給料が特別高いわけでもなく、会社勤めをしている同年代の連中と変わりはない。住む家もあり、ご飯も食べられるし、子供が居て安らぐ家庭がある事に「感謝」「満足」しながらも、ふと何気なく気づいた時に、どこか虚しい風が心の片隅を通り抜けていくのではないだろうか。私が心配することではないが、監督の心情を察すると、周りの人達は、まだまだ香田誉士史と言う人間を理解していないように思われる。私が何故、こうして香田誉士史と言う人間の姿を書き綴っているのかは、お分かりいただけるだろうか。

「全国優勝」そして「連覇」の後、彼の周りには余りにも物分りの悪い人達が少なからずいることに、私は少々憤りを感じピリ辛で筆を走らせている。私から見た真実を書くことで香田誉士史と言う人間を理解していただき、全国の高校野球ファンが誤解に至らないようにと、切に願っているのです。長い濃密な時間の中で彼を見てきて、この若さで家庭も顧みず、我を忘れ頑張っている姿に触れていると、私は「言い知れぬ感動」に満たされてくる。周りは、そんな彼に優しい言葉をかけるのとは裏腹に陰では「嫉妬心」から行動しているとしか思えないことが意外と多く見受けられることに驚いている。新聞社や週刊誌に、日常の私生活の事まで投稿する者など、目もあてられない「がせネタ」が試合の度に活字となって発信されていた。「いいかげんにして欲しい」と言いたくもなる。勝負の世界の常勝軍団は「嫉妬」される事が「世の常」かも知れないが、笑顔の裏にも見え隠れする意外な人間の「心」に、私の困惑は深まった。以前あるとき「男の嫉妬は海の底よりも深いものだよ」と先輩の新聞記者が教えてくれた。「ふーん、そんなものか」と思っていたが、次第にその意味が理解できるようになった。初優勝してから周りの見る目も変わり監督や子供達へのサイン攻勢は大変なものだ。子供達を勝手に市内の飲食店に連れ出しては食事会やサイン会の真似事をやっている大人の無神経さが私には理解できなかった。これは学校側にも一部責任があったと思う。教育、指導や広報がしっかりしていなかったが故に自由奔放になり一つ間違えば大きな責任問題にも発展する可能性があった。当然矛先は監督や指導者に向けられる。まだ高校生なのである。間違った優越感が芽生えてしまえば、自分を見失ってしまうから要注意なのだ。これは子供たちの一生の問題なのである。大切な子供達を預かっている以上、監督がいくら私生活に関して指導をしても、指導者の目の届かない所でこうしたことが日常化すれば、歯止めが利かなくなるものである。一つのルールを構築しない限り、野放しの状態が続けば、大きく子供たちの心を左右し、さまざまな問題が頭をもたげて来るのではないだろうか。「危機管理委員会」や「クラブ後援会」など、多くの有職者は、基本的なことを長期的な視野に立ち、しっかりと話し合うべきで、入部に関しては他のクラブも各々で内規を充実し、最終的には誓約書を取り交わす位の事も必要になってくる。虚しく悲しいことだが、そうした時代になって来たのである。一番大切なことは、子供を守らなければならないのである。

新しい年を迎え、指揮官は毎年、心新たに「チャレンジャー」としての誓いをたてる。厳寒の中、子供達と一緒にパフォーマンスする姿は実に頼もしく映る。そして、昨年よりも今年と、いつも新しい練習メニューは更に厳しさを増していく。嬉しいことに平成18年2月3日は「三冠達成」の報告と祝賀会が、甲子園出場後援会で企画され、市内のホテルでとり行われる事になった。北海道知事、苫小牧市長を始めとする首長、財界人の方々を含め600人程がお祝いに駆けつけて下さった。「これを機会に、佐賀のお母さんをご招待した如何でしょうか?」と後援会の方にお願いしたが、案内状は行ってないと言うことが後で 分かった。これは私にとり、寂しい話であり、大変失礼な事だと感じた。私が監督の親ならば、公式の場において、子供の成長した姿を見て「感動」し、お世話になった多くの方々へは感謝の言葉を述べさせていただきたいと思う。それは親心と言うもので、そのまま人の道に通じるものと思っていた。更に残念なことは太田誠氏も出席されていないことだった。「うーん、何かがおかしいな」と思いながら、こうした凛々しい姿を一番見て欲しいのは、監督自身が口に出して言わずともお母さんであり、太田誠氏である。何故、多くの有識者の方々は気が付かなかったのであろうか。気が付いても出来ない理由があったのだろうか。監督のこれまでの道程を考えたとき一番先に答えが出てくる筈なのに。香田誉士史その人物の存在が忘れ去られているような気がした。

祝賀会最後の謝辞は、学校長が務められた。この謝辞に関して、私は、新たな出直しの決意と学校と家庭の双方の努力と協力で、野球部の子供たちを含めた高校生への人間教育に対する断固たる意思の表明を期待していたが、そうしたものではなかったのがとても残念で落胆をしてしまった。

私は祝賀会の様子をしっかりビデオに撮ると、翌日、大特急で佐賀に暮らす監督のお母さんに送った。すぐさま弾けるような喜びの声が受話器の向こうから届いた。とても嬉しそうだった。本当に嬉しそうだった。良かった。ビデオをじっくりと観たという、はずんだ甲高い声を聞き、何としてもお母さんをご招待すべきだったと後悔した。

大学へ進学する者、就職する者達が学校関係者や監督の配慮で、全て決定し、ようやく監督の肩の荷がおりる。子供達の為に一生懸命走り回った監督の疲労度がピークを過ぎようとする頃、1年間を振り返り監督として教育者として、充実感とともに至福の時がやって来る。それは、「卒業式」だ。走馬灯のように過ぎ去った1年間を大粒の涙と共に洗い流し、香田誉士史はまた一回り大きく成長していく。だが監督にとって、生涯 忘れる事の出来ない事件が待ち構え、最後の最期まで、彼らと付き合う事になっていく。

卒業式のその日の夜、数人の野球部員と他のクラブの仲間が、市内の飲食店で飲酒と喫煙したことが通報され、警察沙汰になった。翌日、緊急集会を開き当事者の親たちも学校に謝罪に訪れ事実確認が行われた。その夜、監督、茂木コーチと食事をしながら、今後の行方は高野連の裁定に従うのだけれど、今回は部員と言うことで、慎重かつ冷静な対応になるのは間違いなさそうだと複雑な心境の中、つとめて冷静に受け止めていた。所が、翌日になって記者会見を開く旨を聞かされ驚いた。職員会議やクラブ後援会など、有識者を交えての会議も何度か行われたが、校長の意見は学校長の辞職、部長、監督の辞任、そして選抜甲子園出場の「辞退」と言う誰も想像していなかった事態が、スピード記者会見で分かり驚いた。何故、監督が辞任し選抜辞退なのか。私には不透明なことだらけであった。高野連の「慎重に」と言う言葉は完全に「無視」した形になってしまった。現役部員の親たちにも何の説明も無いままの発表は、全く冷静さを欠いていたとしか思えなかった。会議の席上で監督が涙ながらに「辞退する事だけはやめて欲しい」と嘆願した。また前父母の会会長の高野氏も監督と共に嘆願したが何も進展が無かったと聞かされ、これまた驚き私の感情は抑えることが出来なかった。せめて、現役の親達に説明するなり、監督の懇願に対しては、高野連に「委ねる」と言った方向付けが何故出来なかったのであろうか。監督を失った子供達のことを考えると「教育者たるもの、こんな考えで良いのだろうか」と、私は悲嘆にくれ暗澹たる気持ちになった。それは「乳飲み子が、母親を失った」のと同じことである。

その日の夕方監督を訪ねたが、事務室で接客中との事で、暫く待っていた。30分程経過した頃、校長、副校長、教頭の三人が事務室から出てきた。監督はまだ接客中だった。校長に歩み寄ると、すぐさま校長室に案内された。開口一番「全てが終わった。これでいいんですよ。以前から次に何かあったらこうしようと決めていた」と顔を高潮させながら一方的に今回の経緯を語った。私は一瞬2月3日の「三冠達成」時の謝辞を思い出しながら胸の内を推し量ってみた。決定に至る説明に対し、私を納得させる何ものもそこには無かった。その上私の過失に及ぶ発言があり、私も面食らってしまったが、「大丈夫ですか?」と何度か繰り返して申し上げると、気持ちが落ち着いてきたようで、最後は「ありがとう」と握手を求めてこられた。その手はずっしりと重く憔悴していた手であった。おしぼりで何度も顔を拭く学校長の心労は、多少は察しが付いたが、実際は思った以上の激しい重圧に押しつぶされていたようだった。こうした時こそ、学校長を補佐し信頼おける人物が傍に居てあげることで、もっと冷静に判断する事が出来たのではないだろうか。

マスコミから逃れたいと言う重圧を撥ね退ける程の「即決断」は余りにも多くの波紋を呼んでしまった。後日、一、二年生の野球部員と学校側との話し合いも平行線が続き、ついに学校長が直接話し合い彼らに経緯を説明するも、当然、誰一人納得する者はいなかった。過去の事例を挙げながら、高野連の裁定が下される最期の時間まで話し合いが続けられたが、選抜の出場辞退をマスコミの前で発表した時点で、もう覆す事は出来なかった。高野連の裁定を待てば、甲子園の出場も可能性が残されていたと思うし、一部の心無いマスコミが騒ぎ立てても最悪の事態は回避できたのではないかと思う。監督が野球から離れる事もなく子供達の心も離れていくこともなかったと思う。でも私は、こうした身を切られるような非情な試練が、お互いを見つめ合い、それぞれが深く考え尽くす為の貴重な時間を神様が与えてくれたと考えるよう、何とか自分を納得させた。監督が戻った時に、今以上の信頼関係が出来たら良いことだと次第に思うようになった。

私は3月3日の時点で、監督復帰の嘆願書を作った。その2,3日後監督に嘆願書を見せた。「いずれ学校側が復帰を考えているにしても、今は、まったく白紙の状態であり、こうした嘆願書によって世の中がどのように判断し、監督の復帰を願っているのか、見極めたい」「子供達のためには一日も早い復帰が必要だね」と言うと「そうですね」と一言、力の無い返事が返ってきた。数日後、後援会の経過報告説明会があったが学校長は残念ながら出席しなかった。疲労困憊、心身がボロボロであったことは容易に推測させるが、私としては最後の「けじめ」には倒れても出席していただきたかったと思っている。だが、フォローする副校長や事務長の挨拶は立派だったし事務長は学校長が以前つい私に浴びせてしまった誤った叱責、罵声に対しても深々と頭を下げ陳謝をしてくれた。私の胸は熱くなった。

時間が経過していく中、「深紅の会」の会員に配布した嘆願書はおよそ3週間で2万8千人分が私の手元に届いた。一般市民の実に多くの方々も進んでお手伝いをして下さった。
そうした方々の心からの応援は、何事にも代えがたくありがたくとても心強いものであった。「深紅の会・札幌支部」の小岩氏は、メールやインターネットでの配信をして頂き、数千人の嘆願書がすぐさま集まっていた。その後、私の嘆願書をベースに後援会も動き出し、学校への嘆願書もFAXで届くなど、1ヶ月半程で、8万5千件が集まった。予想以上の人が、監督の復帰を心底願っていることが実証された。私は、改めてホッとし、嬉しかった。

「深紅の会」の会員達も、もがき苦しむ監督に手紙を書いた。私の所にわざわざ送って来て、私が読んでから監督に見せて欲しいと言う会員もいた。それは、自分達の子供が監督にお世話になって、家族が助けられた思い出や、監督と同じ年齢の頃の自分を思い出しての苦労話しだった。妻と二人で自然とあふれ出る涙を拭おうともせず、丁寧に書かれた手紙の活字を追った。私は独り言のように「監督はいいよな、私がいくら頑張っても監督のような経験をしたくても出来ないのだから」「私も監督のような天国と地獄を味わってみたいものだ」と言うと、妻はいつもの笑顔を見せていたが、内心は「何を言ってるの?監督が経験した忍耐は、到底あなたには無理よ」と思っていたのかも知れない。私は「人生楽しんで」と手紙の最後に付け足した。

監督は恩師の太田誠氏を訪ね自分の心境を語り今後、自分の進む道はどうあるべきか、自分一人では決められない世の常を悟らされてくる。様々な激励を頂いたり、心配をお掛けした全国各地の監督さんにもお詫びに出かけ関東、山陰、九州を巡った。久しく会っていない母の顔を見に佐賀に足をのばす。この3月以降10数キロ体重が減り、母親が一目見れば息子が苦労していることさえ直ぐに分かるのに、身体の事を人一倍心配する母の前では元気な自分を精一杯振舞っていたと言う。勇気を貰う以上に自分の気持ちを確かめながら父の墓前に報告し帰苫した。

4月3日に野球部顧問として現場復帰したが、どん底から這い上がるだけの強靭な覇気とモチベーションがどのように湧き上がるかである。後は、最終的に学校側がどの時点でベストの人員体制を組み復帰させるべきかを決定するだけである。時は確実に過ぎていく。夜をついばみ微かに音を残して過ぎていく。やがて「香田監督復帰」のその時がやってきた。それは、私にとっての緊張と心から待ち望んでいた歓びの時である。

2007年1月10日脱稿

=3回シリーズ・その3(了)次回<特別追加版>に続く=

■筆者プロフィール
蔵重 俊男(くらしげ としお)さん [ 「深紅の旗は我にあり」著者 ]
住所: 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連絡先: 0144-55-5069
生年月日: 昭和25年6月20日【55歳】
出身: 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)【(現)北海道スバル(株)苫小牧西店】
(S60年1月〜H18年3月)
北海道スバル(株)カースポット月寒。現在に至る。
趣味: 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法

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