読書雑感

このコラムは、企業経営者、団体のリーダーなどの方々にご登場をいただき、読書を基本軸に仕事や生活、文化、芸術、経済、哲学、を語って頂くコラム、エッセイです。
前回のトヨタ自動車北海道(株)田中社長に続く第23回の今回は、苫小牧市副市長の中野裕隆さんのエッセイ。筆者は多忙な苫小牧市副市長の要職にありながらも何とか工夫をして「読書を楽しむ」時間をつくっています。それは、人が暮らしていく上で欠かすことの出来ない、欠かしてはいけない栄養素と信じているからです。毎日食事をするのと同じで、心と人間としての成長には「読書」という毎日の食事がとても大切なのです。さて、4回シリーズの第2回目は「学生時代の思い出」。最も多感な青春時代を時代の空気とともに書き綴っています。論理的に整合性のない言わば理不尽なことに夢中になった経験は他を持って替えがたい“青春道場”のようなもの。今回は、読書を離れて、一心不乱に身体で学んだ過ぎし大切な大学生活を活写しています。触れると火傷しそうな熱い時代の息吹きがここにあります。どうぞお楽しみに。

■第23回 読書の楽しみ(2)

苫小牧市副市長 中野 裕隆

3 学生時代の思い出
○ 教養部の思い出

私の学生時代は、70年安保をはさんで1968年から72年までの間である。69年は日米安保闘争のピークにあって、この年の入学式は教養部の体育館が学生によって封鎖されて中止となり、引き続き教養部も封鎖となった。大学構内の学部が連鎖的に封鎖されていった。まともに勉強したのは1年生のときだけで、次の1年間はほとんど授業がなかった。

1年目は半年間、苫小牧から札幌に汽車通学したので忙しかった。朝6時半の汽車に乗って千歳に着くまでにおにぎりを食べ終わった。帰りは部活を終えて9時の汽車で着いた。

英語、数学は必須、物理や化学の単位も理系では落とすことはできない。出席日数が不足すると無条件に不可となる。英語とドイツ語は和訳、予習していない授業では当てられないことを祈りながら、必死で辞書をめくっていた。

教養部に隣接する生協の本屋で大きな場所を占めていたのがサルトル全集である。実存主義まっさかりのなかで、サルトルの「嘔吐」と「実存主義とは何か」は必読書だった。

学生運動とは直接かかわらなかったが、教養部でのクラス討論や6・15樺美智子追悼デモや10・21国際反戦デーのデモには参加した。10・21の時には、夕方、下宿に友人が「今日、機動隊が入る」と誘いに来て、多くの学生が大学に集まった。大学の周囲の道路にバリケードを築き、全共闘のデモ隊が札幌駅西側の今はない陸橋の上で機動隊と対峙し、突入して火炎瓶を投げる者もいた。

○ 空手部の思い出

空手部に属していたので、大学封鎖中も毎日、夕方4時から6時まで練習があった。理由なく欠席すると腕立て百回の罰則があり、欠席する毎に累積していく。同期入部が50人ほどいたが、大学紛争もあって2年目で20人、3年目で14人、卒業のときには6人しか残らなかった。

部活は4年生の11月に武道館で開催された全国学生選手権大会まで続いた。

空手部に入学したようなものである。

春と夏の合宿は5日間ずつ。朝6時15分からすすきのに向かって走り、戻って教養部の体育館で8時まで腕立て腹筋など鍛錬。午前は10時から12時まで、午後は2時半から5時まで、夕方は7時から8時まで。練習中は座って休むことはない、立ったまま呼吸を整える。春の合宿は5月の連休。1年目は終了後すぐに外科に走って、足の裏にめり込んだガラスと、足の裏に広がった水泡のために皮膚を1/3切り取った。

このとき、気力が活きるのは体力があってのことだと気がついた。いくら精神力を奮い立たせても体力がなければ、腕立て百回はできない。格技では練習不足からくる技の切れのなさやスピードの低下は決定的である。気力では勝てない。

大会直前に1週間おこなう強化練習のときは、練習前に10キロ走る。当然スタミナはつく、入学時4000ccの肺活量が1年間で5000ccを超えた。

練習はハードで、特に、フリーという自由組み手は簡単に言うと殴りあいである。サンドバックや巻きわらで鍛錬した突きと蹴りを、生身の身体で受けるのだから怪我をしないほうが不思議だ。突きは、常に顔面、相手の目をねらう。毎日、何人かは鼻血を出すか、腹を蹴られて横になっていた。私などは何回殴られたものか、低い鼻をさらにつぶされた。

2年生の時に、東京から札幌に出張で来た先輩が練習を見て、そのまま居着いて監督になった。いつ会社を辞めたのかは定かでない。7年間空手部にいて、人を殺して寮の床下に埋めたといううわさのある、赤鬼と呼ばれた人だった。本人に言わせれば、殺したことはないそうだが、豊平橋の上で3人連れの土方とすれ違って、振り向きざまに顔面に一発、2人目は金的を蹴り、3人目は頭を抱えてこめかみに一発、3発でのばして逃げたことがあった、これを誰かが見ていたということだ。

監督は練習量や厳しさでは関東の私大に負けない、全国制覇できると言って、厳しかったが、特に私たちの代に目をかけた。私などは、全道選手権の個人戦で優勝候補だったH大学のキャップと対戦したときには、反則負けでいいから殴り倒してこいと殴り方まで指示をされ送り出された。何度も相手の顔面に逆突きが入るのだが、歯に当たって倒れない。目か鼻であれば間違いなく倒れたはずだ。2回の延長を戦って、わずかに負けた。試合後の打ち上げで、監督からは、私の対戦相手を制して優勝した同期よりも私の方がほめられた。いい試合だった、お前の方が勝っていた。

甘いものが食べたくて、よく、駅前の「にしむら」に行って、子供に混じって「アイスクリームぜんざい」を食べた。これは、つぶしあんの上に氷を挟んでアイスクリームを載せたもので、ともかく甘い。あるときは、お汁粉が無性に食べたなって、狸小路のお汁粉屋に入ったら、周りはすべて制服姿の女学生ばかりだった。それでも体が甘いものを要求していた。

○ 工学部の思い出

工学部は衛生工学科。当時は公害問題が大きな社会問題となっていて、水俣病やイタイイタイ病、四日市ぜんそくなどが企業の犯罪として、学生から指弾されていた。教養部から学部移行のときに、公害を工学的に解決したいと考えて選んだ。

大学の試験は、○×や5者択一のような運に任せてもいいような問題はなく、すべて計算や論述式である。物理ですら計算問題はない。

記憶にあるのは「月世界で生活する場合、水と空気を循環再利用するための工学的処理を書け」と1問だけ、2時間でB4版の西洋紙2、3枚を与えられた。びっしりと書き上げたら、クラスの友人から「中野はSFばかり読んでいるから書けるんだ」と言われた。

工学部の地下にあった図書館には早川書房発行の世界SF全集30巻が揃っていた。教養部図書館にあったエドワード・E・スミスの「レンズマン・シリーズ」、「スカイラーク・シリーズ」もわくわくして読んだ。

学科で話題になった本は、農薬被害を訴えたレイチェル・カーソンの「沈黙の春」である。訳者は偽名だろうともっぱらだったが、近年、本名であることを新聞報道で知った。「沈黙の春」以降、重要な環境書は、環境ホルモンをとりあげたシーア・コルボーンの「奪われし未来」だろう。

○ 下宿の思い出

大学時代の拠点は、下宿と大学と空手部道場の3カ所。これらをぐるぐる回って4年間を終えた。下宿とアパートは、札幌北高校裏の北27条に始まって、北21条、最後は北18条東1丁目へと次第に大学に近づいていった。冬は雪が多く、北27条のときは道路が雪のため玄関の戸口の高さまであったので、降りて下宿に入った。最後のアパート「福寿荘」の1階に住んだときには、窓の高さまで雪が積もり、吹雪いた朝は部屋に入り込んだ雪をかき出さなければならなかった。すきまだらけの古ぼけたアパートだったので押し売りも来なかったが、あるとき、エホバの証人の親子づれが布教に来て、幼い子供が共同洗面所の前で水を飲みたいと言うと、母親が「汚いからやめなさい」と言ったのを確かに聞いた。

部活のあと生協に寄って、食パンとマルハの魚肉ソーセージを買って帰り、パンにマヨネーズをたっぷりつけてソーセージを挟んで食べた。何でうまかったのか分からないが、たぶん腹が減っていたからだろう。

アパートでは酒を飲むのが定番で、試験が終わったとか雪が降ったとか、何かと理由をつけては、どこかの部屋で毎日のように飲んだ。酒を飲みながら試験勉強をした学生がいたが、大学を出るのに7年かかった。金があるときは近くのホルモン屋で飲んだ。店のおばちゃんとは今でも賀状を交わしている。「モツラ」という小さな焼鳥屋が大学病院の近くにあったのも思い出で、店ではモツラーメンを出した。

2008年4月4日 脱稿

■苫小牧市役所URL http://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/

=4回シリーズ。次回へ続く。どうぞお楽しみに!=

■筆者プロフィール
中野 裕隆 [苫小牧市副市長]
氏  名 中野 裕隆(なかの ひろたか)
生年月日 昭和24年10月13日
■経歴    
昭和43年3月 北海道立苫小牧東高等学校卒業
昭和47年3月 北海道大学工学部衛生工学科卒業
昭和47年4月 京都市下水道局勤務
昭和50年4月 苫小牧市勤務
平成 3年5月 同市 土木部都市計画課長
平成11年5月 同市 企画調整部都市開発室長
平成13年4月 同市 企画調整部長
平成16年4月 苫小牧港管理組合総務部長
平成19年4月 苫小牧市副市長

技術士(建設、上下水道、衛生工学、環境、総合技術監理)

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