読書雑感

このコラムは、企業経営者、団体のリーダーなどの方々にご登場をいただき、読書を基本軸に仕事や生活、文化、芸術、経済、哲学、を語って頂くコラム、エッセイです。
第32回「読書雑感」は、有人宇宙システム(株)監査室長代理の吉井実さん「老いて学ぶ」をお届けいたします。所得倍増の声を聞き、列島改造の波を経て高度成長期そしてバブル期の全てを人生の時間軸とともに歩んできた筆者吉井さんの「仕事・人の歴史」が、言葉を飾ることなく綴られています。団塊の世代の筆者は、およそサラリーマンの宿命である出向を国内はじめヨーロッパ、北米と数年単位で幾度も経験され、異なる人種・文化、異なる言語の中で精一杯誠実に仕事をされて来ました。今回は、これまでのコラム、エッセイとはちょっと異なるアプローチですが、丁寧に綴られた個人の歴史からは、何故かより鮮明にあの時代の生々しさが浮き上がってくるように感じるはずです。高校大学で野球を通して培われた辛抱、胆力をエネルギーに変換し世界を走り抜けた爽快感がここにはあります。原子力の安全有効活用、冷戦の最中での宇宙開発、こうした時代の日本そして世界の重要な役割の一翼を担った「あるサラリーマンの歴史」が見事に存在しています。前編、後編の2回シリーズでお贈りいたします。さあ、どうぞお楽しみに。

■第32回 「 老いて学ぶ 」 前編

有人宇宙システム(株) 監査室長代理 吉井 実

1 論語

論語に「子曰く、吾(われ)十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順(したが)い、七十にして心の欲するところに従いて、矩(のり)を越えず」とあります。このことばは、中学か高校の国語の時間に習ったように記憶していますが、私は、昨年9月に還暦を迎え「六十にして耳順う、つまり六十歳で自分の主張より人の言葉を素直に聞けるようにならなければならない」年齢に達した訳です。今、孔子のこの「人生設計」に照らしてわが歩みを以下に記します履歴とともに省みますと「三十にして海外駐在と国際公務員を経験し」、「四十にして自分の専門分野が原子力か宇宙開発かをおおいに惑い」、「五十にして天命を感じて退社を決意した」次第で、思わぬ人生展開となりました。

2 大学入学、専攻、入社

ここで大学での専攻、職歴を紹介しますと、まず、大学での専攻を「原子力」に決めたのは高校3年生の時、正月元旦の新聞記事「北海道電力の原子力発電所計画」を読み、これからのエネルギーとしてとても魅力を感じたからであります。また、就職先にプラント建設の日揮(株)を選んだのは、この会社が新しく原子力プラント建設に参画しようとしていることを知ったからです。入社後は、プラント会社の基礎知識である化学工学の勉強のため「社内留学」し、化学プラントの設計を1年半学びました。その後所属の部署に戻り、茨城県東海村の原子力発電所の建設工事に従事しました。この工事は、元請けであるGE社からの受注で会社にとってもこの種類の工事は初めてであり残念ながら最終的には赤字でありましたが、新入社員同然の私は少ない経験を補うべく先輩の指導を受け、体力の続く限りひたすら一所懸命に働くだけでした。

3 ウイーンの国際原子力機関(IAEA)へ

工事は無事完工し、試運転、運用、定期点検と順調に進捗していたところへ突然、オーストリア・ウイーンにある国際原子力機関(IAEA)への出向の話が持ち上がりました。この機関での業務はあまり聞き慣れない「核物質・核施設の査察」であると知らされ、とりあえず社内選考に応募することにしたところ第一候補になり、履歴書を作成、提出して指示を待っておりました。あとで知ったことですが、この履歴書は、民間の窓口である日本原子力産業会議、科学技術庁(当時、現在は文部科学省)、外務省、現地日本大使館経由で国際原子力機関に提出されたそうです。そして書類選考の結果採用となりましたが、ここから現地赴任までが一苦労です。まず英語。会社の手配で横浜の英語学校に3カ月通いマン・ツウ・マンのレッスンを受け、茨城にいる家族とともに引っ越しの準備をし、これに加えて仕事の引き継ぎ、現地での生活の準備等々です。幸い、先任者による指導もあり無事現地に着任することができました。このウイーンには4年間駐在していましたが、1年のうち約100日間は、査察業務のため主に西ドイツ、英国に出張しているような生活でした。

今、思い返しますと、独特な緊張を強いられる極めて多忙な日々でしたが、まだ若かったためか苦労そのものが面白く感じられ、とても充実したウイーン生活を過ごすことができました。

4 故郷北海道での仕事

国際公務員としてのウイーン勤務を終え、元の職場の日揮(株)に戻ったところ、タイミング良く北海道電力泊発電所の工事の受注があり、プロジェクトエンジニアの業務を担当することになりました。ここで忘れられないのはウイーンでのある先輩の話です。「4年間も会社を離れ、本業から離れ、しかも海外にいたら、日本に帰っても1年間は海外ボケで役に立たない」との忠告でした。正にその先輩の言葉どおりで、業務の内容、手続きがどうもよく分からない。4年間の留守の間に入社した新人がまるで先輩のように見えてくる有様です。しかしながら、幸いにしてこのプロジェクトの社内関係者にとても恵まれ、また、お客様が北海道電力という私の故郷の企業であったためか、温かいご指導も得られ順調に設計業務を遂行することができ、泊村での建設工事に取り掛かる段階に至りました。ところが「よし、これからだ!」と意気込んでいたその矢先、今度は宇宙開発事業団(NASDA)への出向を打診されたのです。

5 宇宙開発の現場へ出向。宇宙開発事業団(NASDA)

当時NASDAでは、新しく国際宇宙ステーション計画に米国、欧州、カナダとともに参加することになり、プロジェクトを遂行するために国内企業等から大勢の技術者を集めているところでした。この当時の宇宙開発は、人工衛星の開発、輸送手段としてのロケット開発、そして軌道上に打ち上がった衛星の運用管制が主たる業務で、いわゆる無人の宇宙開発です。世界的に見ますと、ソ連は有人の宇宙ステーション「ミール」を運用しており、米国は国際協力でソ連以上の規模の宇宙ステーションを建設しようとしたようです。このような状況下でのプロジェクト立ち上げですが、既存の宇宙業界だけでは技術者不足のため、プラントエンジニアリング会社、造船会社、航空会社、鉄鋼会社等からいろいろな専門能力を有する人材が集められた次第です。私は、NASDAに3年間出向し、その後国際宇宙ステーションの安全・信頼性管理及び運用を担当する新会社として平成2年5月に設立された有人宇宙システム(株)に移り1年間開発業務に携わりましたが、当時は宇宙と名の付く本を見つけては次々と買い漁ったものです。

さて、この後、やっと本社に戻りどっしりと落ち着いてバリバリ仕事がやれると思っていたのでしたが…、人生、そう単純には行かないモノの様です。又しても、である。

2010年4月17日 脱稿

■筆者勤務先:有人宇宙システム(株)
http://www.jamss.co.jp/

=さて、まだまだ嵐の出向生活が待っている!次回、後編をお楽しみに!=

■筆者プロフィール
吉井 実   [有人宇宙システム(株)監査室長代理]
氏  名 吉井 実(よしい みのる)
生年月日 昭和24年9月3日(岩見沢市)
■学歴    
昭和 43年 3月
北海道立岩見沢西高等学校卒業
昭和 47年 3月
北海道大学工学部原子工学科卒(2期生)
■職歴    
昭和 47年 4月
日揮(株)入社 原子力事業部配属
昭和 50年 10月
茨城県東海村駐在(原子力発電所建設工事に従事)
昭和 54年 6月
国際原子力機関(IAEA)出向(オーストリア国ウイーン市)
(国際公務員として原子核物質の査察業務に従事)
昭和 58年 6月
日揮(株)復帰、北海道電力(株)泊発電所建設工事に従事
昭和 62年 6月
宇宙開発事業団(NASDA)出向
(国際宇宙ステーション計画の安全・信頼性・保全性・
品質保証管理業務に従事)
平成 2年 5月
有人宇宙システム(株)出向(同上)
平成 3年 7月
日揮(株)復帰、宇宙開発業務に従事
平成 4年 5月
ADTECHS CORPORATION出向(米国バージニア州駐在)
(米国原子力施設の核汚染水浄化施設建設工事に従事)
平成 5年 6月
同上(米国ワシントン州駐在)(同上)
平成 6年 9月
日揮(株)復帰、宇宙開発部次長
平成 11年 4月
宇宙開発担当プロジェクト部長
平成 11年 9月
日揮(株)退社
平成 13年 4月
有人宇宙システム(株)入社、企画課長
平成 15年 7月
応用化事業室長
平成 15年 10月
利用技術部長兼応用化事業室長
平成 17年 10月
監査室主幹
平成 21年 8月
監査室長代理(現在に至る)

上へ移動↑