読書雑感

このコラムは、企業経営者、団体のリーダーなどの方々にご登場をいただき、読書を基本軸に仕事や生活、文化、芸術、経済、哲学、を語って頂くコラム、エッセイです。
第34回「読書雑感」は、大学卒業後約40年にわたり千葉県庁に勤務され、今年3月に定年退職された元・地方公務員の宮崎忠夫さん『苦労を厭わず、楽しく生きる』をお届けします。筆者の宮崎さんが大学生だった昭和43、44年頃の大学進学率は現在よりはるかに低く、確か20%に満たない程で、学生のほとんどが貧しくつつましく、身なり小汚くいつもお金が無くピーピーしていたが、夢と希望と志で溢れていたようです。だがそれは、列島改造に始まった日本の高度成長期とその後のバブル経済の絶頂を予感する奇妙な高揚感と学生運動の嵐が交差した激動の時代でもありました。当時、民間企業の給与が公務員のそれを大きく上回っていて、ある意味で公務員になる学生は“チョット変わった人”と思われる向きもありました。それは経済力、お金、儲け、資産が社会の新しい大きな価値基準に転換した時代の瞬間でもありました。それまでの庶民的な価値基準“市井の人々”の暮らしを重んじる考え方が崩れていくことでもあり、「公僕」という言葉がその存在と意義を失い過去へと押しやられる始まりだったのです。ここには、ひたすら真面目に真剣に、一生懸命県民に尽くした一人の歴史が言葉を飾ること無く綴られています。筆者宮崎さんの「苦労を厭わず、楽しく生きる」から“市井の人々”そして“公僕”を今いちど考えてみたいと思われるのです。そして今だからこそ「平凡の非凡」の価値をもう一度考えてみる意義があるようにも思います。さあ、どうぞお楽しみに!

■第34回 「 苦労を厭わず、そして楽しく生きる 」

元・地方公務員 宮崎 忠夫

序 趣旨

今年3月千葉県庁を定年退職した私は、現在県庁に再任用職員として勤めている。昨今の就職戦線の状況を考えると複雑な心境になるのだが、日々を楽しむことを基本に仕事や余暇に精を出している。

これから私が若い皆さんへ伝えられることは、38年間にわたる県庁生活で私が経験し、感じたことを率直に語ることだけである。そして、その中から皆さんがこれから生きていく上で参考になるものを汲み取っていただければ、この上ない喜びである。

私は大学を卒業して県庁に勤めた。昭和47年当時、県庁はとても地味な就職先で、民間会社に就職するのが一般的であった。私もテレビドラマに興味があり民間の放送局に入りたいという夢を持っていたが叶わず、結局自分の気持ちに漠然と沿った就職先として地方公務員を選択した。それは安定志向というよりも、地域住民と接する場が数多くあることで自分が成長出来るのではという期待があった。

実際にそのような場面が多かったかというとそうでもなかったのだが、県庁に入り様々な職場を経験していく中で素晴らしい上司や同僚との出会いがあり、徐々に県庁の持つ仕事の魅力に引かれていったように思っている。

それでは、これから私の軌跡の一端を紹介したい。

1972年 初めての職場

私の最初の職場は県税を取扱う出先機関だった。若い人も多く全体で50人を超す職場であった。私の担当は主に個人事業主に税を課す事務で4人がその仕事に関わっていた。当時はコンピューターが導入され始めた時期で、試行錯誤の中で事務を行っていた。滞納者の家に催促に行くことも時々あり、行政の苦情を聞かされたりしたこともあったが当時は行政のこともよく分からず、任された仕事を一生懸命やっていたのだと思う。ただ税金の仕事は毎年ほぼ同じようなサイクルで回る仕事なので2年目以降徐々に慣れるに従って余裕が出来、都合4年いた私にとって最後の方は少し退屈気味になっていた。

そこで、私にとっての最大の楽しみは5時以降仲間と飲むお酒であった。職場の気の合った仲間たちとの語らいは、まさしく学生時代の延長で「人生とは何ぞや」などと喧々諤々議論をした。よくまぁお金が続いたと思うくらい毎日のように飲んでいた時期もあったが、今となっては懐かしい思い出である。

懐かしいと言えば、職場で私の隣の席にいた1年先輩のIさんのことは忘れられない。Iさんは学生運動華やかなりし頃に在学中だったため都合7年間大学にいた方で、どこに出かけるにも傍らには必ず本を持っていた。お酒も大好きで、お酒を飲みながらよく本の話をした。Iさんは埴谷雄高、武田泰淳、吉本隆明が大好きでその他の話題の本もよく読んでいて、よく「これ面白かった」と言って本をくれた。同じ職場にいたのは2年ぐらいだったと思うが、その後も付き合いが続き何かとアドバイスをもらったりした。現在は病気で亡くなってしまったが、今でも懐かしく思い出す兄貴のような先輩であった。

当時の仲間との付き合いは今でも続いているが、県庁生活の原点とも言える時期に心置きなく話せる仲間と巡り合えたのは、私にとって最高の宝であると思っている。

1982年 町役場へ派遣

県庁生活も10年経ち地方行財政を業務として経験後、私はある町の企画財政課長として派遣になった。多少地方行財政制度について勉強もしていたので何とかなると意気込んでいた。15〜6人位の課で、年配の人もいたが私と同世代の人が主力の課だった。最初は職場環境も異なり戸惑うことも多かった。特に町会議員との対応は理屈だけではない人間と人間とのぶつかり合いのようなところがあり、自分の至らなさに気付く場面が相当あった。そして、町議会の本会議では予定されていない質問が出たため、議会が一時ストップするようなこともあった。その時は茫然自失で頭が真っ白になってしまったが、様々な苦い経験を通じて学んだことも多かったように思っている。

色々あったが次第に役場の雰囲気にも慣れてきて、職場の同僚ともお酒をよく飲んだ。2次会のスナックでカラオケに興じたのも楽しい思い出だ。

一番印象に残っている仕事は町の基本計画づくりに参画出来たことだ。経験者が誰もいない中で、コンサルのアドバイスを受けながら様々な意見を聞いて1年近くかけて作った。役場の職員はもちろん、普段だったら話も出来ない住民や関係機関の人達との話し合いの場を数多く持てたことはとても良かった。出来栄えはともかく、計画とは何ぞやを考え続けた1年だった。

3年間の町での経験は県庁にいては決して味わえないもので、また県庁を外から見ることが出来た初めての貴重な体験だった。

1993年 県工業ビジョンの作成

県庁生活の中で県内工業の将来ビジョンを作成する仕事をした時ぐらい高揚感を味わったことはなかった。仕事そのものを誇りに思え自然にやる気が沸いてくる時と言うのは県庁生活でもめったになかったが、この時がそうだった。

国から来た若いキャリア課長をキャップに私が担当として、約1年をかけてビジョン作りに取り組んだ。一流のコンサルを入れ、最先端の工場見学をはじめ地元中小企業者との酒を酌み交わしながらの懇談などをこなし、課内での議論も相当回数行った。当時は昼休みに近くの県立図書館に行くことが日常茶飯で関係図書にも相当触れたように思っていた。
そして、課長からの指示で私がビジョンのたたき台を作ることになった。しかし、私の頭から紡ぎ出される言葉は単にこれまでの資料をなぞっただけで、ビジョンには程遠い内容のものであった。そこで、課長自ら自分の思いを書き出してそれを数人の職員で意見を言いながら修正していく方式でビジョンは作成されていった。ビジョンが出来上がった当時、県内はもちろん国でも話題となったビジョンであった。

私がそのビジョン作りにどこまで力になれたかはよく分からない。ただ、私なりの意見を率直に言い続けたこと、そして、ビジョンの一部ではあるが私の提案がそのまま通った箇所があり、私にとって大切な思い出となっている。そして、自分の力不足を認識した半面、自分の力が通用することを知ったことで、その後の仕事への自信に繋がっていったように思っている。

ところで、1年の間余りにも身体や精神を酷使したことが原因だと思うのだが、その後6ヶ月ぐらい原因不明の膝痛に悩まされた。膝が十分曲げられず、色々相談しても原因が分からなかったが、ある時を境に急に治ったのが懐かしい思い出だ。

2004年 障害者施設へ派遣

県立知的障害者施設の運営団体の事務局長として派遣されたのが、私にとって初めての福祉の仕事であった。当時全国の公立施設の運営は、法改正もあって民営化の流れがあった。そこで、派遣団体が引続き障害者施設を運営するためには、プレゼンで民間団体に勝たなければならなかった。私の役割は、プレゼンの前に県と同様の給与水準であった当団体の給与や職員の削減などのリストラをすることであり、民間団体と対等に戦える組織体を作ることであった。

職員の理解を得ながら県との信頼関係を取り戻していく作業は当然のことながら難航したが、目標をしっかりと見定めて淡々と仕事を進めていく中で少しずつ理解が得られていった。その背景には、職員に現状を変えなければという気持ちがあり、県も必要な支援はするという意志があったからだと思っている。

プレゼン資料提出の締切り前夜、議論を重ねながらの資料作成は翌朝まで続き、ほとんど眠らないまま資料を提出したことも懐かしい想い出だ。また、当初は反発しかなかった職員と協力する関係までになったことは貴重な体験であった。加えて、障害者との出会いも貴重な体験で、確かに目をそむけたくなるような場面も数多くあったが、次第に人間として自然に向き合うことの大切さが分かってきた。これまで家族ともども多くのつらい体験をしたであろう障害者達に対し、これからも自然体で付き合えるよう努めていきたいと思っている。

ところで後日談であるが、私の定年退職時にこの施設の女性職員から花束とメッセージが届けられた。そこには、私の働きぶりを見て公務員のイメージが変わったというお褒めの言葉が書いてあり、私の県庁での仕事へのご褒美のように感じられとても嬉しかった。

2010年 そして今

いま週4日の仕事と国際交流のボランティア活動に打ち込んでいる。国際交流はかって私が関わった仕事の延長線上にあるもので、私にとって現役時代のやり残しをやっているという意味合いもある。好きなことを一生懸命やるのがボランティア活動だと聞いていて、「どうしたらより楽しく活動出来るか」をテーマに取り組んでいきたいと思っている。

最後に、人生を深く生きるためには読書は欠かせないと思っている。私自身、学生時代よりも勤めてからの方が本に接する機会は多かったように思う。最近は専ら図書館を活用して少し古めの本を読んでいる。若い頃は読書の領域を増やしたくて様々な本を読んでいたが、今は好みのジャンルの本を楽しく読むことを基本としている。

実は、最近黒柳徹子の本を読むようになった。それは、この文章を書くに当たり何か参考になるものをと思い、立花隆の『二十歳のころ』を読んだが、その中で黒柳徹子が改めて魅力的な人だと分かり読み始めたのだ。黒柳徹子がなぜ渥美清を兄と慕い、沢村貞子を母と慕っていたのか。それは黒柳徹子が世に出るまで決して順調だった訳ではなく、つらいことも数多く経験したことと無縁ではない。そのような裏づけがあってこそ今の黒柳徹子があると思っている。

これから社会に巣立っていく皆さんは恐らく多くの苦労をされるのだと思う。でもそれを肥やしに生きてこそ、人間をたくましく、そして魅力的にさせていくのだと思う。苦労を厭わず、そして楽しく生きていただきたい。それが私から皆さんへのメッセージです。 (完)

2010年10月24日 脱稿

■筆者プロフィール
宮崎 忠夫   [元・地方公務員]
氏  名 宮崎 忠夫(みやざき ただお)
■略歴    
1968年3月 神奈川県立平塚江南高校卒
1972年3月 北海道大学経済学部卒
1972年4月 千葉県入庁
2006年4月 報道監広聴グル―プ長
2007年4月 県土整備政策課政策室長
2008年4月 企業庁土地分譲課長
2010年3月 千葉県企業庁退職

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