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教授、准教授、講師による大学講座です。インターネットを通してそれぞれの各専門分野に触れることが出来ます。学び知る楽しみをお届け致します。
あわせて大学の授業の雰囲気もわずかですが知って頂けることと思います。
第2回 知の力学―学問と社会と人間への新しい視点
【知は力なり】
植木 哲也 教授 人はいったい何のために大学に入るのでしょうか。勉強するため、という答えが返ってくるかもしれません。では何のために勉強するのでしょう。おそらく、資格を取ったり、就職先を見つけたり、といった実用的な答えが多いでしょう。
 これは言い換えれば、知識は役に立つ、という考えです。何の役にも立たなければ、わざわざ高い金を払って勉強はしません。知識を身につければ、生活が豊かになるだけでなく、地域が発展し、国家の安全も保障される……おそらく多くの人がこう考えるから、世界中の無数の学校で多くの学生が学び、数えきれないほどの卒業生が生み出されているのです。そんなこと当たり前、かもしれません。
 ところが、知識が役に立つという発想は昔からのものではありません。かつて知識は別の捉え方をされていました。たとえば古代の哲学者アリストテレスは、何かを作り出す制作学や行動のための実践学より、世界を見つめる観想学を学問として高く評価しました。あるいは西欧中世の大学では、神に近づくために学問が行われました。真理を知れば世界を創った神の意志がわかる……知識は信仰に仕えていたのです。
図1 欠如としての無知
図1 欠如としての無知
 では、いつから学問は実用に仕えるようになったのでしょう。知識が役立つという考えをはっきり述べたのは、十七世紀の哲学者フランシス・ベイコンです。自然の法則を知り自然の力を利用することで、人々はより豊かな生活を送り、国家はいっそう栄えるだろう、と彼は考えました。彼の考えは当時としてはかなりユニークだったに違いありません。この発想はその後「知は力なり」という言葉で知られるようになり、自然科学の発達や産業革命を経て、いまや当たり前になりました。富国強兵・殖産興業をめざして欧米文化を導入した日本では、特にこの傾向が強いようです。日本は近代科学という知識を活用することで、欧米諸国に追いつこうとしてきたのです(図1)。
【権力としての知】
 さてここからが本題です。問題は、知識の力はどういうものか、ということです。病気の原因を知れば治療が可能になり、作物の作り方がわかれば飢餓に悩まされず、経済の仕組みを理解すれば事業で成功するかもしれない……こう考えると、力は知識そのものに宿っているように思えます。真理は知れば知るほど大きな力が手に入る、だから少しでも多く知識を獲得しよう、というわけです。
 ですが、実を言うと、ここにはかなりの疑問があります。少し考えてみてください。学校を卒業するまでいろいろ学んできたと思いますが、教室で習った知識を卒業後どれだけ活用しているでしょうか。ほとんど忘れてしまった、というのが本当ではないでしょうか。しかし、忘れてしまえば力は発揮できないはずです。それではなぜ、これほどまで多くの人が学校に通うのでしょう。
 表向きの考えと実際の行動とが一致しないことは、よくあることです。そのことに当人はしばしば気づきません。しかしこのズレに注目すると、人間や社会や宇宙の仕組みが、少しですがわかってきます。
 実は知識には、もうひとつの力が備わっています。ベイコン的な、知識そのものの力を「自然的力」と呼ぶとすれば、この力は「知識と認められることによる力」です。「認められる」にはほかの人々が必要ですから、「社会的力」と呼ぶことができます。
 卒業と同時に忘れてしまった勉強も、テストのときは必死に憶えたに違いありません。学校での勉強は「試験」と一体となっていて、試験に合格することで卒業証書を手に入れ、「学歴」という資格を得ます。中味は忘れても資格は残る、だから人は安心して忘れてしまえるのでしょう。
 社会で知識を有効に使うためには、単に知っているだけでなく、知っていると人々に認めてもらう必要があります。だから資格や学歴が幅を利かすわけです。こうした仕組みは学校だけでなく、社会のすみずみで働いていて、たとえば医師になるには国家試験に合格することが必要ですし、研究者としてやっていくにも同僚たちの承認が必要です。政府の審議会で意見を述べるのも専門家として認められた人びとに限られます。ひとりで勉強しただけでは、知識は有効性を発揮しないのです。
 その一方で、社会的に認知されることで、一定の権限が与えられます。試験に合格し資格を得ることで、あるいは学会で活動し同僚の承認をえることで、治療を行うこと、人に教えること、研究を行なうこと、政治家に進言すること、等々が可能になります。社会的力は「権限を与えられた力」、つまり「権力」でもあるのです。
【落差を生み出す知】
図2 落差としての無知
図2 落差としての無知
 この力はいろいろと不思議な性質を持っています。たとえば誰もが専門医なみの医療知識を持ち、高度な治療技術を駆使できる、と仮定してみましょう。その場合、より多くの人びとがいっそう健康に暮らせるでしょうが、医師という職業は必要なくなるでしょう。専門家が世の中から尊重されるのは、他の人の知らない重要な知識や技能を持っている、と思われているからです。つまり、持つ者と持たない者との知識の「落差」によって、専門家は成り立っていると言えます(図2)。
 このことはさらに奇妙な事態を発生させます。知識そのものに力が宿っているなら、知識が増えれば無知も解消され、それだけわたしたちの力も強まるはずです。ところが知の権力については、これは当てはまりません。むしろ「無知」が解消してしまえば、知と無知の落差は消え、力そのものも消失してしまいます。力を保持するために、知はつねに「無知」を必要とするのです。
 力を手に入れようとして、ひとびとは落差に腐心するようになります。自分は「知」の側に立ち、相手を「無知」の側に置かなければなりません。競い合いが始まるのです。その方法は大きく分けて二つあるように思えます。一つは自分の知識を増やすこと。もう一つは自分以外の知を消失させること。
 第一のやり方は誰もが多かれ少なかれ経験していることでしょうが、要するに人よりたくさん受験勉強をすることです。たくさん勉強して試験に合格すれば、知の所有者の側に立てます。しかし、重要なのは、こうした個人レベルの問題よりも、集団や企業や国家といったものが介在してくる場合です。知をめぐる競り合いはこのレベルでも発生するからです。企業は新製品を開発し市場経済を生き抜くために、新しい知識を必要とします。国家も国際社会で指導的地位を保つために、政治的、経済的、軍事的な最新の知識を求めています。すでに知られていることから落差は生まれません。ライバルにない知識や情報を獲得するのがもっとも有効な方法です。こうして生み出された落差が、近代的組織の死活を握っているのです。
 新しいものがどんどん世の中に出てきて大変だ、と思ったことはないでしょうか。やっとワープロをマスターしたと思ったら世の中はパソコン時代になっていた、なんてことは日常茶飯事です。科学や技術が進歩すれば、無知は消滅するはずでした。ところが、実際には、世の中には理解できないことがどんどん増えています。これは、古典的な知識観からすれば不可思議なことですが、落差のメカニズムを理解すれば当然の成り行きと言えます。企業は新機軸を打ち出し続けなければ生き残れませんし、研究者は論文を書き続けなければ研究費をもらえません。ですから新しい知識や技術を生産し続けます。こうして、わたしたちは、とてもせわしない世の中に生きていくことになります。息切れしても立ち止まれません。
図3 隠された知
図3 隠された知
 二番目のやり方にも触れておきましょう。知識の落差は、相手の知識を否定することでも生み出されます。この際、実際に知識そのものを消してしまう必要はありません。知識が知識として認められないようにすればよいのです。こうした現象は、異文化の出会いなどで生じてきました。たとえば、強力な勢力が他の勢力を支配するといった場面でしばしば発生します(図3)。
 わたしたちの身近な例で言えば、和民族は軍事的・経済的な力関係を背景に、アイヌ民族を「無知」と決め付けました。アイヌの人たちが実際に無知だったわけではありません。動物や魚たちのこと、森や海や天候のこと、儀式や道徳や生命のこと、こうしたことについて豊富な知識を持っていました。ところが、「無知」と決め付けられたことで、これらは脇へ押しのけられ、かわりに和人の文化を押し付けられることになりました。こうして、自分たちの文化を失いかけただけでなく、たいへんな苦境に追いやられましたが、知の力を奪われていたために、和人に対抗するのは困難でした。知識は差別の道具にさえ使われるのです。
【知についての知】
 社会的力は、知と「認められること」によって生まれる力です。とすると、幅を利かせている者が、実際に有効な自然的力の持ち主かというと、そうとは限りません。一方、知識がありながら、これを有効に活用できない人たちもいることになります。こうした錯誤を解くために、知の力の由来には、かなり慎重になった方がよいでしょう。知らぬうちに権力の手下にされたり、力ずくで押さえ込まれたり、あるいは粉々に砕かれたり、そんなことにならないためにも、です。
 知の力を考察することは、それ自体、もうひとつの知を生み出します。もちろん、この知もまた、力関係に取り込まれています。ですから、知の分析は素粒子の測定なみに厄介な作業といえます。
 ところで、自分自身を振り返る、というのは、もともと哲学が得意としてきたやり方です。この学問は長いあいだ実用と無縁でしたが、これは言い換えれば、力の作用のはずれに位置するということです。物事の真相は、その中心より少し離れた所から見た方が、よく解ることがあります。もしかすると、知の力学的考察にあっては、実用的でないことこそ、哲学の最大の取り柄なのかもしれません。
■プロフィール
植木 哲也(うえき てつや)  [教授]
植木 哲也1956年群馬県生れ。
苫小牧駒澤大学で「哲学」、「科学技術と社会」、「比較文化論」などを担当。最近の論文に「アイヌ研究と知の権力」「隠された知」「知の普遍性と個別性」、「開かれた哲学が排除するもの」、訳書にマッギン『ウィトゲンシュタインの言語論』(共訳)、ファイヤアーベント『理性よさらば』、グランジェ『哲学的認識のために』など。

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