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第4回 北海道と胆振地方の古代史
はじめに

蓑島 栄紀 准教授 北海道に人類が住むようになってから、数万年単位の歴史を持っている。だが「古代史」とは、平たくいえば邪馬台国や、聖徳太子や大化改新、奈良・平安時代など、文字によって記録された古い時代を対象とする学問である。これらの歴史が、北海道とどの程度関わりがあるのか、疑問をもつ方も多いのではと思う。

 あまり知られていないかもしれないが、北海道の古代史を日本や東アジア古代史の一部として考えることは、学界では一般的になりつつある。ただし、胆振地方の古代史を語ることは、文献の記録はもとより、考古学の力を借りてしても難しい。だが、今日はあえて、やや大胆に、思うところを述べてみたいと思う。
古代の北海道

 『日本書紀』など、日本古代の史料には「渡島」(わたりしま)という地名が登場する。はじめて「渡島」の記録が登場するのは、7世紀のこと。7世紀は、いわゆる飛鳥時代。聖徳太子の活躍に幕を開け、大化改新などをへて、日本古代国家が完成に向かう時代である。このころ、中央の有力豪族、阿倍比羅夫が「渡島」に遠征したという事件が記録されている(斉明4〜6年〈658-660〉条)。この「渡島」は、江戸時代に新井白石が「蝦夷地ではないか」と解釈して以来、北海道説が根強い。そして現在、この「渡島」が北海道のことであることを疑う人は、研究者の間でも非常に少なくなっている。それは、考古学の発掘調査の進展によるところが大きい。なお、「胆振」の語源についても、『日本書紀』の「イフリサヘ」から来ており、これを勇払のことと解釈する説があるが、信頼に足るものにはなっていない。

 7世紀前後の北海道は、擦文文化というアイヌ文化の前身となる文化と、大陸と強い結びつきをもつオホーツク文化とに二分されていた。この時期、江別・札幌・恵庭・千歳あたりの擦文文化の多くの遺跡では、本州の古墳群と同レベルの、多数の刀剣類などの遺物が見つかっている。竪穴式住居や土器の特徴なども、本州とほとんど変わらない。こうした状況については、古くは河野広道氏が、「苫小牧地方古代史」という文章で、この地域が北海道の中心地だったのではないかと推測している。河野氏の時代から数十年を経たいま、さらに多くの事実が明らかになっている。7世紀前後の北海道には、本州からの急激な文化的インパクトがあったことが明らかであり、おそらく、阿倍比羅夫の北航のような、古代王権による政治的な介入を想定しなくては解釈できない。
活発だった海上交流

 『日本書紀』のなかで阿倍比羅夫は、「粛慎」という謎めいた集団と出会う。「粛慎」は、中国の古典に登場する伝説的な北方民族の名である。この「粛慎」が、オホーツク文化ではないかという見解は、札幌大学の故・石附喜三男氏や、北海道大学博物館の天野哲也氏が1970年代から発表していた。この説には賛否両論あったが、2002〜3年にかけての奥尻島青苗砂丘遺跡の調査においてオホーツク文化の住居などが発見されるなど、オホーツク文化が予想外に広い活動範囲を持っていたことが明らかになってきており、「粛慎」=オホーツク文化説は改めて注目を集めている。

 さらに、阿倍比羅夫が「後方羊蹄」(しりべし)という場所に「政所」「郡領」(国家側の出先機関)を設置したという記録もある。戦後まもなく、「後方羊蹄」は北海道の余市町であるという説をとなえた学者がいた。日本法制史研究の大家、故・滝川政次郎氏である。滝川氏は、「後方羊蹄」を「シリパのヨイチ」と理解した。「シリパ」とは余市湾に突き出た岬の名前。アイヌ語地名の「シリパ」は各地に残るが、余市町のシリパ岬はひときわ目立ち、航海の絶好の目印となる。

 滝川説は、状況証拠に過ぎない部分も多かったが、近年、「後方羊蹄」=余市説が、再び脚光を浴びるようになった。その要因は、1980年代からの余市町大川遺跡の発掘調査である。大川遺跡は、縄文から近世にわたる重要な遺跡だが、7世紀の見事な大刀や、奈良時代の役人が身に着ける帯金具、漢字を記した数点の土器のほか、大陸系の遺物なども見つかり、古代の余市町が、本州の古代国家や大陸の諸民族と関わりを持つ、日本海北部で屈指の流通・港湾拠点であることが指摘されるようになってきた。

 「政所」とは、現地社会が王への特産品を献上する「朝貢」の場所であったと考えられる。「朝貢」というと、一方的な従属とか、搾取のような想像をされるかもしれないが、一般に前近代のアジアでは、「朝貢」とは多くの場合形式的なもので、しかも返礼として莫大な品々が返されるのが常だった。異民族にとっては、非常に割の良い取引であり、自分たちが「朝貢」しているという意識もあったかどうか疑問である。「朝貢」の実態は、「交易」に他ならなかった。有名な例としては、中国の清王朝がアムール川下流域に設置した機関「デレン」の存在があげられる。高価なクロテンの毛皮を集めるための朝貢場であったが、その返礼として莫大な量の中国物産が流入し、アイヌ民族も巻き込む北方交易のネットワーク(山丹交易)を成立させるきっかけになった。

 7世紀ごろの北海道に、日本古代王権による交易所が、一時的にせよ設置されたことは、当時の北海道における多量の鉄製品や本州製武器類の出土状況からみて、充分にありうることである。ただし、北海道の住民と日本古代国家の接触の場は、8世紀中頃には本州の秋田城に場所を移したと考えられる。その理由ははっきりしないが、秋田城には、毎年のように北海道の人々が毛皮などの特産品を持って交易に現れ、中央貴族たちは競ってそれらを買い求めた。その結果、本州の産物や文化が北海道に流れ込む状況は、さらに拡大していった。

 そうした状況を示す一例が、千歳市ウサクマイ遺跡群である。ウサクマイ遺跡群は、多数の刀剣類を副葬する7世紀の墓地などで、擦文文化の重要な遺跡として知られていた。1999年、ウサクマイN遺跡の発掘で、オホーツク文化の土器(8世紀後半ころ)とともに、9世紀初頭に鋳造された日本の貨幣「富寿神宝」が発見され、南北文化の共存で話題を呼んだ。ウサクマイは、名水でも有名な蘭越に位置する。また、かつて北海道大学の知里真志保氏や萱野茂氏が、苫小牧の志方写真館の協力で、アイヌ民族のサケ漁に関する記録映像を撮影した場所としても知られる。千歳川の豊富なサケ類などの恵みに支えられ、古くから栄えた場所だったのだろう。
7〜9世紀頃の北海道とオホーツク文化の南下
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胆振地方の古代史に向けて

 ところで、ウサクマイの地名がはじめて登場するのは、江戸時代末期のこと。当地を訪れた松浦武四郎の記録である。「北海道」の名付け親としても知られる武四郎は、探検家・役人・学者などさまざまな顔を持つ。安政4年7月19日、武四郎は、アイヌ民族の協力者に導かれ、ウサクマイを出発して樽前山麓をめぐり、わずか1日で太平洋岸に出て、白老に宿泊している。

 この付近に、気になる地名が存在する。敷生川支流にある白老町の「飛生」である。松浦武四郎の記録にも「トヒウ」の地名がある。実は、『日本書紀』で阿倍比羅夫が接触した蝦夷のなかに、「トヒウの蝦夷」なるものが存在するのである。
 「問兎の蝦夷、イカシマとウホナ、二人進みていわく。「後方羊蹄を政所とすべし」と」(『日本書紀』斉明5年3月是月条)。つまり、さきほどの「後方羊蹄」を、「政所」にしたいと申請した当事者こそ、「トヒウの蝦夷」なる人々だった。
 『日本書紀』の「問兎」について、多くの地名辞書類は、この白老町の「飛生」に言及しているが、決して大した根拠があるわけではない。だが、この『日本書紀』の「問兎」と白老の「トヒウ」が、実際に結びつく可能性はないであろうか、というのは、私の密かに温め続けている考えである。

 古代史料の地名と、近世や現代の地名を安易に結びつけることは、学問的には、きわめて危険な行為である。しかし、武四郎の記録にあるように、ウサクマイと太平洋岸をわずか1日で結ぶルートの付近に、この「トヒウ」が位置する点が気になる。

 ウサクマイの集団は、擦文文化のなかでも有力な集団の一つだった。この遺跡の本州系文化は、日本海側から石狩川を遡って流入した可能性もあるが、同時に、太平洋側からダイレクトに流入するルートの存在も想定してみる必要性がある。その場合、胆振地方は、本州との交流の玄関口となったことになる。あるいは「トヒウの蝦夷」とは、こうした太平洋側の出入りを取り仕切る集団だったのではないか。このように考えをふくらませた時、トヒウの地名は、古代の胆振地方の様子を知る、数少ない手がかりになりうるかもしれない事例として、注目したくなる。

 しかし、もう少し考えを進めたとき、私のこの仮説(空想?)は、ハタと立ち止まる。先ほども述べたように、私は「後方羊蹄」は余市町である可能性が高いと考えている。それには、大川遺跡という古代の北海道でも希な流通拠点の存在という状況証拠がある。とすれば、白老あたりの人々にとって、古代国家との交渉の拠点を余市町にしてほしいと願うことに、一体どのようなメリットがあるのだろうか。太平洋沿岸部の人々にとっては、本州や古代国家と、自分たち自身の手で取り引きできた方が有利だったに違いない。むざむざと、日本海側の余市あたりの集団にリーダーシップを明け渡すであろうか。こうした点が、せめて論理的にクリアーできない限り、私の仮説は、夢物語の域を一歩も出ないことになる。
北方史の可能性

 研究者という人種は、四六時中、新たな研究の糸口となるアイデアを考えている。だが、その多くは「思いつき」に過ぎない。どれほど光り輝く(本人にとって)アイデアでも、充分な証拠があるか、せめて論理的に首尾一貫しなければ、「仮説」として世に出ることもなく、お蔵行きとなる。人にもよるだろうが、実際に証拠を固め、学説として公表されるアイデアは、思いつきのうちのせいぜい十分の一に過ぎないのではないか。

 今回は、あえて、私のまとまっていない頭の内をそのままご紹介したが、北方の歴史研究は、いま非常に多くの成果が蓄積されている分野である。例えば、サハリン南端に存在する白主土城は、中央大学を中心とする研究グループとロシア側との共同調査が進められており、アイヌ民族の進出に悩まされた元のフビライ・ハーンが、北海道アイヌの活動を抑えるために設置した拠点である可能性が指摘されている。

 日本古代王権が北海道を目指したのは、この地域が、北方ユーラシア大陸の世界につながっていることを悟っていたことも一因だろう。長きに渡った冷戦時代は、北海道とユーラシア大陸を分断し、そこが「交流の海」としての歴史を持つことを忘れさせてしまった。しかしいま、北海道を取り巻く海域に繰り広げられた諸民族・諸文化の豊かな交流の歴史に、再び光が当てられようとしている。
■プロフィール
蓑島栄紀(みのしまひでき) [准教授]
1972年神奈川県生まれ。1999年、國學院大學大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(歴史学)。苫小牧駒澤大学国際文化学部助手をへて、現在、苫小牧駒澤大学国際文化学部准教授。著書に『古代国家と北方社会』(吉川弘文館、2001年)。共著に『古代日本の伝承と東アジア』(吉川弘文館、1995年)。『古代史がわかる』(朝日新聞社、2002年)。

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