深紅の旗は我にあり 香田誉士史監督と駒大苫小牧高校野球部の10年間の歩みです。
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書籍:深紅の旗は我にあり 平成16年8月夏の甲子園球場は歓喜と感動の嵐に包まれていた。深紅の優勝旗が初めて津軽海峡を渡った瞬間だった。
著者の蔵重さんは、青年監督として香田監督が苫小牧へ赴任して以来今日まで公私ともに監督を支え野球部を応援されて来られた方です。感動の夏の甲子園初優勝を機会に、平成17年7月に香田監督と野球部の10年の歩みを一冊の本として上梓されました。非売品であり書店ではお求めできませんが、苫小牧駒澤大学のWebサイトで毎月連載としてお楽しみ頂けることになりました。
 一昨年夏の甲子園に続き、平成17年の夏の甲子園連覇の偉業を成し遂げ、さらに国体高校野球の部優勝、そして明治神宮野球大会優勝という驚くべき実績をあげることが出来、平成18年の春の選抜大会の出場権もほぼ確定しているようで、本当にとても嬉しく誇りに思えることです。「感謝と一生懸命」を胸に秘め、驕ることなく素直に戦う選手たちの姿や日々の暮らしを大切にする姿勢は、香田監督就任の10年前に始まったような気がいたします。
 この本からは香田監督が悩み決断する真摯な姿、著者蔵重さんや多くの理解者、協力者が監督や野球部を支える姿が詳細な文章から鮮明に浮かび上がってきます。
きっと何かを感じて頂けるものと思います。全国のみなさん、どうぞお楽しみに!
■第2回 香田監督の就任  著者: 蔵重 俊男
 1994(平成6)年の秋季大会が終わる頃、駒澤高校の監督が代わることは隣の少年野球の指導者達にもすぐさま情報が流れてきた。「佐賀商業出身らしいぞ!」とか「駒澤大学で先生の免許を取ってるんだって」とかいろいろな噂がささやかれていた。太田誠駒大野球部監督の勧めで1995(平成7)年の4月までは駒大の5年生として在学しながら、学業と両立の就任だった。この年の夏の甲子園で優勝した母校、佐賀商業でもコーチとして指導力を発揮したそうである。佐賀商業在学中は、田中公士監督の元、レギュラーとして春夏3回の甲子園を経験されている。なにせ練習の虫ともいわれ、授業中にもダンベルを手にして朝から夜遅くまで野球に明け暮れていたという。大学に入学して野球の奥深さと野球がこんなに難しいものかと、つくづく思ったそうで、高校野球を更に進化させた近代野球そのものをしっかり身につけた指導者の誕生でもあった。

 しかしながら就任当時はそんな彼のことを理解する者も少なく、周囲の風当たりも強く「若いやつに何ができる」とささやかれていた。子供達には決して難しい話はせず「ごく当たり前のことを当たり前のようにやる」難しさと「高校生は高校生らしく」礼儀や挨拶などをしっかりやる。「周りのことにどんどん気がつくようになる」と自然に野球も上手になるという彼の持論。こうした指導方針は新鮮に聞こえてきた。北風がさらに冷たさを増してきてもキリッとした瞳の奥にはいつも闘志がみなぎっていた。しかし練習試合でもなかなか勝てず、投手もさまにならず、必死で試行錯誤を繰り返している様子もうかがえた。野手をしていた選手の中からセンスのよい者を投手にしたり、自分が描いていたイメージを日替わりで試している姿は今日も変わりない。

 練習に対する子供達の姿勢、これら試合をやる以前の問題が山積していたのである。悩んでいる指揮官の姿をフェンス越しに見るのは本当にしのびなかった。だが新任の監督は、一生懸命で、練習試合中でもベンチの裏から、しきりに「檄」を飛ばしていた。

 それでも前監督から引き継いだ選手達も徐々に大声を出すようになり、それなりに成長の兆しが見えてきた。練習の終りには全員で校歌を歌って一日のけじめをつけるなど、部としての統率さえもみえ始め、とにかく毎日なにかをまさぐっている様子がうかがえた。自分の目指す野球をやりたい、そうした思いが毎日の厳しい練習に表れていた。ボールを足で蹴る者、バットやグローブを投げ捨てる者、そのような行為は、彼にとって一番許せない事で罵声が飛び交うシーンだ。両親が高いお金をかけて買ってくれたものに対して最大の侮辱行為でもあるからだ。何度も何度も同じような事を繰り返す日々が続いていた。これから先どのような思いで子供達との絆を深めていくのかが、我々の密かな楽しみでもあった。

 それにしても、練習試合を含めて熱心な指導には心が打たれる。冬の始まりは室内練習の前にはアイスホッケー部と同じように、当時は、北大演習林までのランニングが日課であった。自ら一生懸命に取り組んでいる姿は痛々しさすら感じられた。石塚東洋雄部長がなだめ役で、彼の純粋さに心を打たれながら12月初冬にはそうした気持ちを理解してくれる石塚部長と地域の中学校へ挨拶回りを行い、駒澤への入部をお願いして歩くのが日課であった。

 駒澤高校のアイスホッケー部は伝統があり、皆さん認知していたようだが、中には野球部があることすら知らない中学校の指導者がいたという。それくらい野球部は低迷していたのである。がっかりしながらも毎日のように奔走してした。そうした繰り返しの日々は少しずつ成果も生まれてきた。翌春に向けて監督は、一大決心をして九州・佐賀商業への遠征を決行することになる。そのために子供達は親の出費を少しでも抑えるために全員、郵便局のアルバイトへと出かけることになる。
■筆者プロフィール
氏  名 蔵重 俊男
住  所 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連 絡 先 0144-55-5069
生年月日 昭和25年6月20日【55歳】
出  身 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)【(現)北海道スバル(株)苫小牧西店】(S60年1月〜現在に至る)
趣  味 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法
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