深紅の旗は我にあり 香田誉士史監督と駒大苫小牧高校野球部の10年間の歩みです。
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書籍:深紅の旗は我にあり 平成16年8月夏の甲子園球場は歓喜と感動の嵐に包まれていた。深紅の優勝旗が初めて津軽海峡を渡った瞬間だった。
著者の蔵重さんは、青年監督として香田監督が苫小牧へ赴任して以来今日まで公私ともに監督を支え野球部を応援されて来られた方です。感動の夏の甲子園初優勝を機会に、平成17年7月に香田監督と野球部の10年の歩みを一冊の本として上梓されました。非売品であり書店ではお求めできませんが、苫小牧駒澤大学のWebサイトで毎月連載としてお楽しみ頂けることになりました。
■第4回 出会い  著者: 蔵重 俊男
 1995(平成7)年12月24日クリスマスイブは、夕方から小刻みに大粒の雪が降り、まれにみる大雪となった。しんしんと降り積もる雪は、風速20メートルもあろうかという北風が舞う中、奇妙な二人の出会いを演じているかのように一晩中降り続いていく。

 その日は、当時、私が教えていた少年野球美園スラッガーズの元後援会の渡辺和雄氏と佐伯吉郎氏から監督と一度会ってみないかとの誘いがあった。フェンス越しに何度か頭を下げ合って挨拶を交わしただけで、ゆっくり話す機会はなかった。子供を監督に預けている二人からは何度か誘いを受けていた。少年野球場の隣が駒澤のグラウンドだったこともあり、監督が就任してから熱心な指導を間近に見ていたので私も一度はゆっくり話がしたいと思っていた。

 一杯会をやるというのが口実でいつの間にか飲み始めると、私は酒の肴になり野球談義が始まっていた。監督に苫小牧に来たいきさつを伺いながら、はじめての北海道での生活、雪の少ない苫小牧といっても冬の寒風はこの地方独特なもので、かなりこたえている様子であった。いかにこの冬を過ごすかが課題だとしみじみ話されていた。「石の上にも三年は頑張りたい」と酒の勢いで気丈なところも見せていたが、何かやるせない周囲の無常さも痛感していたようだ。同じ野球人として何かをしてやりたい心境にかられてしまう。そんな雰囲気の中、酒が進むにつれて彼の思いは募り、将来の夢を語り、北海道の野球を変えて甲子園に行っても十分に戦えるチームづくりをしていきたいと、貪欲な抱負を語っていた。

 野球選手として何が必要なのか、ある私学の監督は体の大きい生徒をどんどんとってくるが、それよりも運動能力の高い選手を集めることが最終的には花を開くのじゃないだろうかと話は尽きなかった。そして高校野球で過去の甲子園大会で優勝旗が津軽の海を渡ったことがないことも話し、夢はどんどん膨れ上がり、渡辺家のカレーライスをいつの間にか4杯ほどたいらげていたようだ。若者は食っても飲んでも背筋を伸ばして最後まで付き合ってくれた。

 時計の針が深夜零時を回り、彼と共通することが次第に見え隠れしてきた。最終的には「野球を通して社会に通用するような人づくりなんだよなぁ」といいながら、素直な生徒の方が将来楽しみだけど、そこまで考えて生徒を集めて野球をやるのは並大抵なことではない。しかし三度の飯より野球好きな彼のキリッとしたまなざしに陰りはなかった。

 野球談議と同じように積もった雪は吹雪になり、もう胸までの高さに成っていた。途中から加わった佐伯氏も1991(平成3)年の8月に毎年水戸市で開催されている学童の少年野球全国大会に出場したときの話しをしながら「人と人との出会いの大切さを知り、さらに子供を通して野球がこんなに楽しいものとは思わなかった」と話されていたことが印象的であった。監督自身も兄を慕って少年野球を小学校2年生から始めて、その時の指導者である武富監督さんに対して今でも感謝していると言う。

 初めての一杯会の夜は、渡辺家の玄関の戸も開かなくなり私の家まで50メートルくらいしか離れていないのに帰ろうとしても吹き溜まりがひどかった。今日はお開きということで、せっかく美味しい酒を飲んだにもかかわらず、雪をかき分けて30分ほどかけて家にたどりついた。玄関先では妻と子供達がこの遅い時間に雪かきをやっていた。目の前の大雪はもう人間の手では間に合わないほどであり、汗だくの私が着いた頃には吹雪もやんできた。「あの男をなんとかしてやりたい」とつぶやきながら眠りについた。

 監督は、渡辺家に泊まることになり、翌朝は300メートルほど離れた学校横の旧教職員住宅まで、あの大雪の吹き溜まりの中を、黙々と雪をかき分けながら軽装備で帰っていった話しを聞かされ驚いた。「あいつはただものじゃないな」と思った。

 前日からの積雪は30センチを超えていただろうと思うほどで、その日、苫小牧地方の幹線道路は雪と吹雪の影響で寸断され、道路のあちこちに車を置き去りにしていったこともあって除雪もままならず、千歳方面や白老方面から行き交う交通網も大パニックを起こしていた。当然、町内会の道路も駒澤高校までなにひとつ除雪がされていなかったのに、一体どうやってたどり着いたのか不思議でならない。人間の足では100メートル進むにも大変なのに・・・・・・後日、監督にうかがうと「無我夢中で雪をこいでいきました」とケロッとして話していた。「二日酔いどころじゃなかったですよ」とびっしょり汗をかいて自宅についたが、玄関の戸は今にも壊れそうになっていたらしく、家の中まで雪が入り込んでいたという。最初の試練が台風並みの吹雪と大雪だとは思いもよらなかったであろう。私自身も会社にも行けず一日中雪かきに終始した。今考えてみてもお互いに何もなくてよかったと思う。

 冬の怖さを知らない九州男児は、このときから何かをやりそうな雰囲気を漂わせていた。母の「ことば」を心の支えとし、肝に銘じ、翌年度の新入部員の加入に走り回る監督と石塚部長。私も少なからず甲子園を語れる親がどのくらい入部するのかが楽しみで、少年野球を通して自分の子供と同期の親達に駒澤で野球をやろうと話しかけたが、苫南、苫工、苫東という公立高校へ入学するという親達ばかりで私立はダメだという近隣の風潮が根強くあった。これでは地元以外も走り回らなければなかなか選手は集まらないなと思った。
 その中で白崎和城(苫駒大−現苫小牧市役所勤務)の父親が,駒澤で一緒にやらないかと声をかけてきた。白崎健二氏には私の父も兄も大変お世話になっている人で、すぐさま待ってましたとばかり甲子園を語れる人がようやくきたか、と胸の高まりを感じた。いろいろな方々の紹介もあり、また石塚部長から熱心に私学の利点についてのお話もいただき、私の長男も駒澤で本格的な近代野球を香田監督の下でやれるという楽しみが、親としてもあった。18名ほどの新入部員が苫小牧市内を中心に決まり、室内練習にも多数参加してくるようになり熱気が伝わってきた。目を引く選手も何人かいて、なかなかいい雰囲気を持った選手も目に付いた。ある日、寒空の中、グラウンドでダブダブのジャンパーを着てランニングをしている息子の姿があった。監督が大学時代に愛用していたジャンパーをプレゼントしてくれたとの事で、なかなか気遣いのする監督さんと言うイメージが加わった。新入生との合同練習も一冬を過ごし、春を迎える頃は北海道の高校野球を含め他のスポーツも一気に眠りから覚めていく。・・・全26回シリーズ。次回につづく・・・
■筆者プロフィール
氏  名 蔵重 俊男
住  所 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連 絡 先 0144-55-5069
生年月日 昭和25年6月20日【55歳】
出  身 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)【(現)北海道スバル(株)苫小牧西店】(S60年1月〜現在に至る)
趣  味 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法
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