深紅の旗は我にあり 香田誉士史監督と駒大苫小牧高校野球部の10年間の歩みです。
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書籍:深紅の旗は我にあり 平成16年8月夏の甲子園球場は歓喜と感動の嵐に包まれていた。深紅の優勝旗が初めて津軽海峡を渡った瞬間だった。
著者の蔵重さんは、青年監督として香田監督が苫小牧へ赴任して以来今日まで公私ともに監督を支え野球部を応援されて来られた方です。感動の夏の甲子園初優勝を機会に、平成17年7月に香田監督と野球部の10年の歩みを一冊の本として上梓されました。非売品であり書店ではお求めできませんが、苫小牧駒澤大学のWebサイトで毎月連載としてお楽しみ頂けることになりました。
■第7回 もがき苦しんだ一年  著者: 蔵重 俊男
 春季大会は初戦、苫高専と接戦の末、逆転で7−6の僅差で勝利し、2回戦の苫中央戦も白崎の完封で1−0と厳しい試合展開で準決勝、道桜ヶ丘戦を迎える。好投を続ける白崎が2試合連続の完封で3−0で昨年の秋に引き続き連勝した。

 決勝は古豪復活をアピールする苫東。エース寺沢は4連投ながら好投し、白崎は3連投と疲れのあるところをとらえられ小刻みに苫東が加点。渡辺、河村とリレーしたが3−9で負け、春季全道への道は絶たれた。10安打を打ちながら失策がらみの点が痛かった。苫東は10年ぶりの円山切符であった。春の悔しい思いを夏へと、3年生最後の夏もエース渡辺の復調が今ひとつで白崎、河村と健闘するも厳しい夏を迎えた。エース渡辺に代わり白崎を中心の試合展開になっていく。試合内容は良くても勝たなければならないし結果を出さなければ何にもならない。3年生最後の夏も苫小牧ブロックを抜け出すことができず、初戦苫工に6−7と惜敗した。「どうした監督」と背中をポンとたたくと「いやぁ負けたのは私の力のなさで・・・・・・」といつも自分を責めつづけた。この厳しい苫小牧地区を抜け出さなければ何にもならないことは分かっている。歯車が狂っている。貪欲な監督が今まさにもがき苦しんでいる。そんな時は監督の気持ちを察し、グラウンドに顔を出しては「今日一杯やるか」という。すかさず「やりますかぁ」と言って街へと繰り出し父親の真似事しかできないが、まぁいいだろうと思いつつ食事をしながら野球談議が始まる。ジョッキを一杯飲んだ後は焼酎に切り替え、軽く1本あけてしまう。何事も勢いで飲み干したものだ。

 何度もこうした機会でお酒を酌み交わしているうちに本音が見えてきた。「やはり勝って結果を残さなければグラウンドの設備も良くならないし勝つことにもっともっと執念を燃やしていきたい」ともらしていた。

 会社組織と同じで、鶏が先か卵が先かの話になってくる。時々監督に暗示をかける言葉を選んで話した中に「大監督といわれる人物は皆父親を早くに亡くしているぞ。仰木監督しかり野村監督しかりで、監督も同じ条件で育ったんだから大監督になるのは間違いないな」と話すとニヤニヤ笑っていた。20歳も年の離れた親父と飲むのもよいが「若い娘と飲む機会はないのか」と言うと「私にも彼女はいるんです。でも片思いかも」とポツリ。飲んだ勢いで「積極性が足らんなぁ」などと私も適当にあしらっていた。今は野球一筋といったところかもしれないが、でも彼女の一人位、いなくちゃなぁと酌み交わす酒もペースが速くなっていく。「野球以外に世間の風にあたらなければ、なかなか周りが見えてこないぞ」と独り言を言っている私でもあった。

 そんな折、私の後輩であり同郷の社会人野球チーム王子製紙苫小牧の監督に就任した石井薫氏に声をかけ、香田監督と一緒に食事でもしないかと誘ったら快く引き受けてくれた。

 石井馨氏は苫小牧工業時代、名将金子監督の下で、3年に春夏連続甲子園に出場した経験の持ち主で、甲子園でも4番打者として活躍した選手であり、王子製紙でも熱血漢溢れる、私も大好きな選手であった。なんとなく、監督と気が合うんじゃないかと思った通り、酒が進むに連れて、野球以外の話しはないのかと思う程、二人の話は尽きない。二次会の席でも永遠と続いていき、お互いに親交を深めることが出来て私も満足した。少しでも身近に監督の理解者を得ることで視野を広げて欲しいと願っていた。 そんな折、私の後輩であり同郷の社会人野球チーム王子製紙苫小牧の監督に就任した石井薫氏に声をかけ、香田監督と一緒に食事でもしないかと誘ったら快く引き受けてくれた。

 この年秋の新人戦は、梶川弘樹主将を中心にようやく監督が率いる新チームとして大会に臨む。この時、鵡川高校にも砂北を3度甲子園に導いた佐藤茂富氏が野球部の監督として指揮をとることになった。その鵡川高校との初戦、失策を重ねる鵡川を打線が加速し10−0の5回コールドで圧勝した。苫工も名将金子監督からバトンタッチした木村浩二監督が率いて初陣を11−0と浦河を一蹴した。さらに夏の覇者・静内高校を苫南が下し波乱気味の大会となっていく。2回戦では苫工に対して道桜ヶ丘は小山内尚也の本塁打2本で10−9と接戦を制した。古豪復活の苫東も静内農業を21−1、えりも高校を22−0とコールドで下し準決勝へ、同じく駒澤も白崎の好投と打線の援護で苫中央を13−3で下した。準決勝は好投手寺沢聡と左腕蔵重雄人の投手戦となり内野の悪送球の間と、カバーリングの乱れに乗じて苫東が先制し捕手のファンブルで加点され、好投手寺沢の前にスライダーを打ちあぐみ0−2の完封を喫してしまった。9奪三振、散発7安打と粘投した蔵重に打線が報えなかった。苫東は勢いに乗り、ブロック決勝の道桜ヶ丘にも接戦の末、7−6で撃破し、室蘭支部代表の登別大谷との代表決定戦を11−2で下し、10年ぶりの全道進出を果たす。

 好投手寺沢の頭脳的なピッチングは、全道大会でも冴え渡り、打線の援護を受けながら北照との頂上決戦となった。苫東は、大型選手はいなくても自分達の野球で北照に挑戦する。対する北照は兵庫県内有数の中学硬式経験者がほとんどで、チームカラーは全く違っていた。しかし最後まで粘りに粘った決勝戦は70回の記念大会にふさわしい試合であり、選抜出場も2校が選出される可能性があった。

 一冬越して、その時がきた。東北・北海道に2校が増枠され、苫東の30年ぶりの甲子園出場が決定した。身近な高校が甲子園出場することによって監督の志気は上昇し、香田野球に強烈な攻撃野球を浸透させていく。投手力そして攻撃力を持ってディフェンスを固め、監督の野望は果てしなく続いていく。冬の間の室内練習に於いて、駒大岩見沢との合同練習でも佐々木啓司監督が連れて来た選手との差は歴然とまでいわれていたが、徐々にその差は縮まってきている。技術面だけでなく、人に接するときの子供達の態度も、今ではどこに出しても恥ずかしくない姿勢が見受けられるようになってきた。これは指導者、香田誉士史監督の日頃の指導力であると周りが次第に評価し始めてきた頃でもある。

 父母の会も梶川会長を中心にまとまり、いよいよ三位一体ができあがってきた。こうなると監督は周囲の期待にどんどん応え結果を出していく。しかし監督が一番悩んでいたのが寮設備の問題だった。旧教職員住宅に寮生を迎え入れ、監督が管理し朝食は近くの「たいやき食堂」まで行くのが日課であったが一部の父母から健康面や寮設備に関して苦情が入った。しかし当時の状況ではどうしようもなく、結果を残すことで学校としても寮設備やグラウンド設備も徐々に監督の納得するような方向へと進んで欲しいと、いつも話していた。

 監督自身、半信半疑の状態で練習に取り組んでいる姿も見え隠れしていた。そんな折、学校近くで寮としての受け入れをしてくれる人物が現れ20数名を入寮させたが間取りなどが悪く、ギュウギュウ詰めで勉強する環境ではなかった。次第に、親からも健康管理面での苦情が監督のところに殺到した。監督がこの様な事もやらなければならないと思うたび、父母の会も監督の悩みに応えてやりたいと、その都度、管理の方と話し合いを設けて食事など、少しずつ改善していただいたが、決して満足のいく内容ではなく、お風呂や洗濯の件にしてもまだまだ課題を残していた。
=全26回シリーズ。・・どうぞ次回もお楽しみに!=
■筆者プロフィール
氏  名 蔵重 俊男
住  所 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連 絡 先 0144-55-5069
生年月日 昭和25年6月20日【55歳】
出  身 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)【(現)北海道スバル(株)苫小牧西店】(S60年1月〜現在に至る)
趣  味 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法
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