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蔵重俊男さんのビタミン・エッセイ新シリーズが始まりました。当web読者の皆さんはご存知かと思いますが、蔵重さんは駒大苫小牧高校野球部と香田誉士史監督の10年を丹念に綴った著書「深紅の旗は我にあり」の筆者です。人と人の出会いをとても大切にされる蔵重さんは、「出会い」こそ、生きていくことの中心軸として欠かすことの出来ない「人生」だと考えています。ご自身の出会いの在りようとそこから紡ぎだされる深い思いをテーマに不定期ですがシリーズでお贈りいたします。どうぞお楽しみに。

出会いの中で

■1.「出会いの中で」前編 くらしげ としお

蔵重 俊男

彼岸入り、盆入りには実家のお墓参りに家族揃って田舎に足を運ぶ。故郷を離れて二十数年、毎年欠かさずのお参りは、家族の絆を強くし、ご先祖へのお礼として手を合わすのである。一月元旦は一年の計として、どのような気候であれ家族はこぞって、毎年ご先祖に会いに行く。吹雪や豪雪の時も、それぞれの思いが、心の安らぎになっている。子供たちが幼い頃は、家族全員が揃って墓参したが、いつの間にか、自分たちの時間で、いつの間にかお参りを終らせているのである。もう一人前になった子供たちは、「お先にお参り済ませました」と言う言葉に、共稼ぎの我々は、子供たちの時間は、自分たちの時間として大切にしている訳だから仕方ないなと思った。当たり前になっている墓参りが習慣付いたのは、やはり祖母のお陰である。

祖父は、私が生まれる前に他界したが、祖母は私が生まれた時、毎日、産湯に入れてくれた大切な「おばあちゃん」である。我が家の兄姉たちも皆、祖母が入れてくれたらしい。そしてヨチヨチ歩きの頃になると、我が家に隣接する「真正寺」と言うお寺に「報恩講」なるものがある度に手を引いて参列していた。偉いお坊さんが何やら語る言葉など、全く理解出来る筈もなく、ただ祖母の隣で正座して聞き入っているのである。その時間たるや、足の痺れよりも酸欠状態の様に自然に祖母の膝にもたれ掛かっていた。

明治生まれの祖母は和服を着込み、いつも凛々しくしていた。真剣な眼差しと背筋を伸ばした毅然とした姿は、子供ながらにカッコいいと思っていた。寝入る私をいつの間にか、祖母の膝に上に私を抱きかかえる様に包み込んでくれていた。あの温もりと祖母の匂いは自分にしか分からない、何とも形容しがたい未だに忘れられないものになった。

記憶にある三才、四才、五才とそれ以前を含めると随分お寺に通ったものだ。帰りには飴玉や煎餅を貰って帰り、これを食べると「御利益」があると信じていた。寝入っている事が多かった「講話」の時間も、いつの間にか洗礼されたかのように、「ご先祖様があって私たちは生かされている」と言う言葉が、どのお坊さんも話されている事に気付き脳裏に焼きついていた。

「私は一体どうしてこの世の中にいるのだろう」「何の為に生まれてきたのだろうか」と自問自答する年頃になると、祖母には「何故」「どうして」と言う質問を浴びせていた。祖母は私の質問に一つひとつ、噛み砕いて悟りかけてくれた。そうした空間は今になると私にとって大切な祖母との時間だった。至福の時間と言えるのかどうか分からないが、祖母の部屋では何時間も居座ることが多く、兄姉は私を遊び相手に誘ってくるが、なかなか祖母の部屋にはそう簡単には入れないのである。私が「ばあちゃん」と言うといつも快く開けてくれたが、兄姉たちは、どう言う訳か容易には入れなかった。その理由はいろいろあるが、その一つに、近くのおばあちゃん達が毎日のように裏玄関から祖母の部屋を訪ねて来るからである。

祖母の部屋は、仏壇や箪笥もあり、それを除いても八畳位はあった。お客さんが数人来ると子供の座る場所などないからである。しかしながら、私は別扱いだった。火鉢で鉄瓶のお湯をコトコトと沸かし、お茶会をするおばあちゃん達は、毎日、毎日何を話すことがあるのかと言う位、笑っては手を叩いて、昔話に酔いしれていた。着物の胸の合わせ目や、袂にお菓子を隠し持って来る時の話は、とても愉快で、嫁姑の戦いは昔ながらの様相だった。その中の私は、話に飽きたら静かに部屋をでる。話の流れで次はこんな話になるなと言うストーリーが分かると、お茶菓子をポケットに入れて、そっと部屋を出て行った。毎日同じような話をしているのに、同じ所で同じように笑いが出る。昨日話した事なのに、ばあちゃんたちは忘れているのか作り笑いをしているのか分からないが、とにかく不思議な光景であった。

朝晩の布団の上げ下げは小学校の頃になると私の仕事になっていた。そして私だけが何故か時々、駄賃を貰った。早起きの祖母は仏壇の水を入れ替え、母が用意した御飯を一緒に祭壇に上げるのが日課だった。ろうそくと線香を灯してお経を唱えた後は、ご先祖様に何かを語りかけている。耳を澄まして聞き入っていても、ぼそぼそと、私には分からない言葉で語りかけているようだ。その語りかけている言葉の語源を何とか聞き出そうとするが、祖母はなかなか語ってくれなかった。その時、聞いてもおそらく理解できないと思ったからであろう。おそらく、祖父との語らいなのかと長い間思っていたが、そうでもなさそうであった。

あれから三十数年経って祖母はやっと語ってくれましたね。私はあまり気にしていなかったが、体調を崩し近くに住む私の両親と同居するようになる頃、ぽつり、ぽつりと仏壇の前で話していた。私が想像するものとは、かなりかけ離れた内容で「自分の幸せだけでなく、ご先祖様のお陰で毎日楽しい生活をさせてもらっている事への「感謝」と私の両親や私の兄姉夫婦や孫やひ孫達、一人ひとりの名前を告げて今日一日、健康で穏やかに過せるように」とお祈りをしているのだと言う。そんな言葉を聞いて驚いた。すっかり祖父との会話と思っていた私は、それからと言うもの、お墓参りと仏壇の前では「感謝」の言葉を心で思うだけでなく声を発する様に努めた。祖母が六十年以上、慣れ親しんだ部屋を去っていく事への一抹の思いも私には充分すぎる位、理解できた。仏前での祖母の涙は、その時以来一度も見たことがなかった。
=次回後編に続く。お楽しみに!=

■筆者プロフィール
蔵重 俊男 KURASHIGE TOSHIO
住  所: 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連 絡 先: 0144-55-5069
生年月日: 昭和25年6月20日
出  身: 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)(S60年1月〜)
北海道スバル(株)中古車部部長(現在に至る)
趣  味: 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法

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