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蔵重俊男さんのビタミン・エッセイ新シリーズが始まりました。当web読者の皆さんはご存知かと思いますが、蔵重さんは駒大苫小牧高校野球部と香田誉士史監督の10年を丹念に綴った著書「深紅の旗は我にあり」の筆者です。人と人の出会いをとても大切にされる蔵重さんは、「出会い」こそ、生きていくことの中心軸として欠かすことの出来ない「人生」だと考えています。ご自身の出会いの在りようとそこから紡ぎだされる深い思いをテーマに不定期ですがシリーズでお贈りいたします。どうぞお楽しみに。

出会いの中で

■1.「出会いの中で」後編 くらしげ としお

蔵重 俊男

晩年を私の両親と過し、月に一度は長い髪を染めていた祖母は、病気以来、短くした白髪を頭の後ろで丸めて括り、本当に「おばあちゃん」の姿になってしまった。三度の規則正しい生活の中、新聞を見入りテレビを見ては私に情報を提供してくる。ある時は筆を執って書き物をする姿は、いつも凛々しく見えた。正月の賀状も一枚一枚丁寧に書きとめていた。殆んど親戚への新年の挨拶と健康を願っての内容であった。私が幼い頃、父が忙しいときには、祖母が椛のような私の手を優しく包み、一文字、一行、丁寧に筆の運びを教えてくれた。そのお陰か人並みに字が書けるようになった事の嬉しさは心中「やったあ」と叫んでいたものだ。

祖母が他界する前、私に何度も言っていた言葉がある。それは「なかなかお迎えが来ないね」の一言だった。私にして見れば、二度と聞きたくない一言も、次第に祖母の気持ちが理解してくると、今度は私から「まだまだ、ばあちゃん、やる事あるからご先祖さんも迎えに来ること忘れているんだよ」と切り返してやった。そうすると、満面の笑顔で笑ってくれた。

ある日、幼い頃を思い出し、九十才を過ぎた祖母が入浴している時に、いきなり入り込んでいった。祖母はビックリして、慌てて萎んだ胸をタオルで隠していた。でも嬉しそうな笑顔を見せながら、やせ細った身体を隠すようにして湯船に浸かってしまった。そして祖母は小声で「骨皮筋衛門だから」の一言に私は苦笑した。「これから嫁さんにでも行くのかい?」と言うと「そうだね、いい人いたらね」と、ばあちゃんは、粋のいい鼻声で応戦してきた。二人の会話は菖蒲湯の時期を迎えた6月に、何のためらいを感じることなく弾んでいた。「背中、流すかい?」「そうだね」屈託の無い返事が返ってきた。「本当に骨皮筋衛門だあ」と言うと、無言になり背中が少し淋しそうだった。「まだまだ、肌の艶はなかなか良いよ」と言うと「そうかい」と少しは気分も明るくなったようだ。危ない所だった。危なく気分を害する所であった。シャワーの無いお風呂は、湯船のお湯を桶にとっては、何度も優しく背中から流していく。大判のタオルで祖母を包み、湯冷めしない内に、着替えさせ、ぬるめの番茶をごくりと飲んで、ゆっくりと寝かせた。

祖母は何か言いたそうだった。白濁した膜がかかった様な黒目も視線を合わせようと何度も瞼をパチクリさせながらじっと私を見入って言った。「私は幸せだわ、こんなに長生きさせてもらって」・・・「お前はね、小さい頃から優しくて、死んだじいちゃんそっくりなんだよ」と、初めて言われた。この「優しさ」と言う言葉は、そのまま祖父への愛情表現だと直ぐにピンときた。「そうか、祖父は優しい人だったんだ」と思いながら、仏壇の上に掛けてある肖像画をまじまじと見入った。今まであまり気にしていなかった事が、祖母に言われると、なんだか目線や鼻筋、口元など、侍剥げになると、似ているかもしれないと思った。そうか祖母は、長い間、私に対する優しさはこう言う事だったのか?ずっとこの一言が私に言いたかったのだろうか?と心の中で呟きながら、まじまじと祖母の顔を見入った。ニコニコしながら、満足そうな寝顔に終始見入っていた。

いつかは、祖母ともお別れしなければならない日が来る事は分かっていても、現実を受け入れられない自分は、祖母の言葉を借りれば、まだまだ「修行が足らんよ」と言われたかも知れない。

月夜は雲の陰を照らしては見え隠れし、遠田の蛙の合唱は月光によって更に大合唱となり祖母の深い眠りを誘っていた。

九十四才で他界するまで、本当に元気な「おばあちゃん」であった。祖母の十七回忌も終わったばかりだが、我が家にある祖母の形見となった茶箪笥は凛々しく日本間の片隅に置いてある。明治の匂い、大正の匂い、昭和の匂い、そして平成の匂いを吸いながら、この茶箪笥は私にいつも語りかけている。今、私は祖母と出会った幼い頃の自分と、四十才を過ぎた頃の自分を思い出し、濃密な時間を過した時を辿っている。力強く生きた祖母の面影は、今も鮮明に思い出される。

現代社会は、逆ピラミッドの高齢化社会に突入している。その中でのオールドパワーは、まだまだ必要不可欠な人材集団であることは間違いない。幼い頃の「スロー」な世界は誰もが経験してきている。時間に追われる現代人はもう少し、自分の時間を大切にして欲しい。そう言う自分もまだまだだが、「スロー」な自分と「クイック」な自分を上手く使いこなすべきと思う。そして「コミニケーション」は多くの情報を収集し、お互いの心を開き大きな財産をもたらす。人生の大先輩として何時の世も優しく手を差し延べてくれる筈だ。

しかしながら、現実は親子や、祖父母の間で、死に追いやる事件が多発している。一体どうしてしまったのだろうか?大きな歪みは何故、何度も繰り返されるのだろう。索漠とした人間関係の中から「命の大切さ」など何処に置き去りにしてきたのだろうか?ふと、高度成長時代の十年サイクルで、2度も痛い目にあったオイルショックの頃を思いだして見ると、一時的な失速は、更に大きなうねりとなって二度も加速した。しかしながら低迷するバブル崩壊後の市場はやることなすこと泥沼に嵌り、長期に渡っての政権など、実際の暮らしや社会の状態何処吹く風と若者たちを追い詰めてきた。高度成長の時代に育った子供たちの環境と現代では余りにもギャップが大きすぎる。試行錯誤しても、ニートの生活から脱却できないでいる多くの若者たちは右往左往している現実。戦後、アメリカ的発想の時代は、高度成長時代を支えてきたのは間違いないが、日本人が長い間、培ってきた日本古来の伝統と言うものが、どんどん失われもした。

そんな中、私は、明治気骨の祖母と出会ったことで、私に課せられた物は何だろうか?と真剣に自分に問いただしてみた。先ずは、四十年間仕事に没頭してきた自分からの脱却が第一のテーマかもしれない。仕事があって、健康である私を支えてくれた家族への「感謝」は永遠に変わりないと思う。

この原稿が公開される頃、私は「おじいちゃん」になっているだろう。祖母が私に話してくれた記憶にある秘めたる言葉を、今度は孫と語り合える事が唯一の楽しみになりそうだ。祖母から戴いたパワー全開も時間の問題になってきた。勿論、若夫婦が許してくれる常識の範囲でね。私の常識は通用するかどうかも第二のテーマになりそうだ。(完)

■筆者プロフィール
蔵重 俊男 KURASHIGE TOSHIO
住  所: 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連 絡 先: 0144-55-5069
生年月日: 昭和25年6月20日
出  身: 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)(S60年1月〜)
北海道スバル(株)中古車部部長(現在に至る)
趣  味: 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法

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