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蔵重俊男さんのビタミン・エッセイ新シリーズが始まりました。当web読者の皆さんはご存知かと思いますが、蔵重さんは駒大苫小牧高校野球部と香田誉士史監督の10年を丹念に綴った著書「深紅の旗は我にあり」の筆者です。人と人の出会いをとても大切にされる蔵重さんは、「出会い」こそ、生きていくことの中心軸として欠かすことの出来ない「人生」だと考えています。ご自身の出会いの在りようとそこから紡ぎだされる深い思いをテーマに不定期ですがシリーズでお贈りいたします。どうぞお楽しみに。

出会いの中で

■2.「 香田誉士史 」その1 くらしげ としお

蔵重 俊男

その時は、必ずやって来るものである。私の大好きなその男は、春の陽射しを浴びながらあたかも隣の街にでもでかけるようにそっと立ち去っていった。

「夢を追い続ける」そして「積練来夢」という言葉を残し、13年余りを北海道の高校野球に全精力を傾けた青年監督「香田誉士史」は、子供たちの人間育成に向けて一途な思いで必死の努力かたむけてきた。奇跡の成果を残し、夢は未完のまま去っていったのである。

初めて出会った時の純粋さと野球に対する情熱は今も何一つ変わっていない。彼のこうした精神は一体何処に宿っていたのだろうか。全国高校野球史に刻み込んだ数々の戦歴の中を共に歩んできたと思っている私は、とてつもなく大きな財産を与えて頂いたと感謝しているのである。幾度となく弱々しい我が心を支えてくれただけでなく、強靭な精神と闘う勇気をも与えてくれたのである。時が経つにつれ、そうした貴重な過ぎし日が次々と思い出のいっぱい詰まった脳を刺激してくるのである。私は筆を走らせ、あの濃密な想い出を書き留めておきたいと思った。熱い願いはただ単に勝ち負けの世界ではない。そんな中で培ってきたものは「敗者からの勝利」で始まっている。勝つことより負けることから学ぶことの多いことを認識していた姿と、それを糧にして勝つことによって更に大きな舞台へ子供たちを導いて行こうとする姿があった。それはまた、子供たち高校生活三年間のプロセスを大切にして「今、何をなすべきか」を常に自分自身へ問いかけてきた彼の姿でもあった。長い人生から見ると三年間はあっという間の時間だが、社会人となる為の最低限の「基礎」を野球というスポーツをとおして指導してきた。「単なるスポーツの指導者」ではなく「人間力」を高め、これまでの経験の中から見出した彼自身でなければ出来得ない「人づくりの指導者」であった。

昨年のことだった。三月初旬一本の電話が入り「今月で退職することになりました。長い間お世話になりました」と、いつもと変わらぬ礼儀正しい丁寧な声が耳に入ってきた。私はその一言に「良かったな」と、即座につい本音をいってしまった。少しは慰めの言葉も欲しかったのだろうけど本人の為にはこの言葉で締めくくって良かったと思っている。そして、数日後の各新聞紙上に「香田監督退任」の活字が躍った。あわただしく記者会見も行われた。律儀な男だから、活字になる前に直接私に伝えたかったのだろうと思った。以前、監督復帰の際にも私に新聞の活字になる前に自分の言葉でどうしても直接伝えたかったといっていたことを思い出していた。そういえば「深紅の会」の皆様から頂いた心温まる手紙へのお礼の言葉には、あふれんばかりの感謝の気持ちが込められていた。「人の生き方」「人の道を外れる」ことは自分自身に対して許せないのである。彼の「心遣い」「思いやり」は初めて出会った時から今日まで少しも変わっっていない。こうした目上の人に接する態度は指導者として重要な資質であり、「私の人を見る目に狂いは無かった」と感じている。口に出すのを自重していたこの言葉だが、彼が去った今ようやく口に出していえるのである。

札幌市役所のロビーに置かれている銅像をご覧になったことがあるかと思う。彼と同郷の佐賀七賢人の一人、北海道開拓の祖「島 義勇」である。「河水遠流山峙隅・・・」の心を打つ詩が刻み込まれている。蝦夷地の開拓に心血注いだ島 義勇と香田誉士史の歩んだ道程が見事なまでに重なって私の目に映るのは何故だろうか。島 義勇は官の命を受け未墾の蝦夷地を多くの開拓者と共にこころを通わせ汗を流し、厳しい環境のなか開拓に邁進したのである。現在、四季を通して札幌市民の憩いの場としで賑わう大通り公園は、北海道開拓の記念碑的場所のひとつとして知られている。香田誉士史も当時駒澤大学の監督であった太田 誠氏の命を受け、平成六年、冷たい秋風が吹く頃、苫小牧の地にやってきたのだった。右も左も分からず全てが一からの出発であった。駒大苫小牧高校野球部は昭和四十一年の夏の選手権大会出場以来、地区予選もなかなか勝ち上がることすら出来ないチームになっていた。さまざまな人脈を通して人材が送り込まれてきたが、成果が出てくることはなかった。生徒の私生活まで気が回らず、残念なことに、野球部はいつの間にかクラブチーム化していた。私立高校としては情けない練習方法に思えたし、目的意識を持って全員が一つの方向に向かって練習に取り組んでいるとは、私には到底思えなかった。野球部の復活によって何とか全国区にという強い願望は、どこか別世界のことに思えてならなかったのである。

そんな中、彼の生活は教員免許取得を前提に翌年の春まで指導者として東京と苫小牧を往復する日々が続いていた。平成七年の春、監督就任後は試合の都度「何をやっているんだ」とOBから「罵声」を浴びせられていた。周りの高校野球ファンに期待を抱かせる試合内容ではなかったのだ。しかし私の見る所、今までの指導者とは違う練習方法に高い評価を下していた。迷いながらもまずは「基本的な高校野球」をやろうとする目的が明確だったこと、反復練習の中から徹底した指導をしている姿に感動を覚えていた。あのバイタリティと情熱が力強く継続するならば三年後には甲子園に出場できると断言するまでになっていた私だった。しかし周囲は「そんな情熱だけで甲子園は無理」「まだまだ若いから経験を積まなければ甲子園は無理」といわれ続けた。その後も子供を預けている私にまで苦言を呈する人が出てくる始末。当時の父母会も甲子園を熱く語る人は皆無。これでは士気は上がらない。だが二年目、夏の全道大会に進出し二戦目に北海のお株を奪う正確なバントを見事に決め、当時の大西監督の心を揺さぶった。円山球場の高校野球ファンの目と心にも何かを残した。私にとってこの一戦は、香田野球名勝負の中の重要な試合であり、円山球場から悔し涙を流しながら帰路に向かう当時の香田誉士史の姿をいまだに思い出す。野球指導と教壇に立ち子供たちの私生活もしっかり心配りをしていた結果が少しずつ見え始めていた。しかし周囲の監督に対する苦言は一向に絶えることはなかった。一方、新米監督は“自分の野球がしたい、どうしたら北海道の風雪の中で満足のいく練習が出来るのだろうか”と自分の野球が出来ないジレンマと苦悩との戦いの只中にあったのだった。
=次回へつづく。どうぞお楽しみに。

■筆者プロフィール
蔵重 俊男 KURASHIGE TOSHIO
住  所: 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連 絡 先: 0144-55-5069
生年月日: 昭和25年6月20日
出  身: 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)(S60年1月〜)
北海道スバル(株)中古車部部長(現在に至る)
趣  味: 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法

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