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蔵重俊男さんのビタミン・エッセイ新シリーズが始まりました。当web読者の皆さんはご存知かと思いますが、蔵重さんは駒大苫小牧高校野球部と香田誉士史監督の10年を丹念に綴った著書「深紅の旗は我にあり」の筆者です。人と人の出会いをとても大切にされる蔵重さんは、「出会い」こそ、生きていくことの中心軸として欠かすことの出来ない「人生」だと考えています。ご自身の出会いの在りようとそこから紡ぎだされる深い思いをテーマに不定期ですがシリーズでお贈りいたします。どうぞお楽しみに。

出会いの中で

■3.「 父 」その1 くらしげ としお

蔵重 俊男

全身真っ黒になって一生懸命に働く父は、今も、私が最も尊敬する人である。父の存在が分かるようになったのは三歳位だっただろうか。胡座をかいた膝の上にチョコンと座ると、ヒゲもじゃの顔を私のイガグリ頭にこすりつけ、じゃりじゃりと音を立てながら鼻歌を歌っていた。当時、私の右腕は包帯でグルグル巻きの状態で、何故こうなったのかは正確には記憶に無いが、その衝撃と激痛の感覚はわずかに残っている。毎日、田舎の病院に行っては包帯を取り替えるのだが、外す瞬間の痛さがその後も絶えず残っていた。「牛の油」や「はこべ」は熱を下げるのに薬代わりといっては、包帯を取り替えていた。私が大火傷をした時のことを理解し始めたのは、その事故から半年位いしてからだろうか。火鉢に乗ったぐだぐだ煮立った鉄瓶の傍で肘を突いて絵描きをしていた私の上を飛び越えようとした父が、誤って鉄瓶をひっくり返し私の体に熱湯がかかってしまったのだそうだ。寒い冬の事で、着ていた私の分厚いセーターを急いで脱がせた時には一緒に柔らかな皮膚まで剥がれてしまった程だったらしい。記憶に残る激痛の感覚は今もある。腰の一部と右腕の肘から手首の辺りはケロイド状になっている。それでもその父を恨む訳でもなく大きな膝にどっかりと腰を降ろす私を、いつも優しく父が包んでいてくれた。右腕が使えない分、左手が利き腕になっていく。ケロイド状の皮膚の塊を切っては、肘が少しでも伸びるようにと、かかりつけの病院の先生は一生懸命治療を施してくれた。薄い皮膚の割れ目から鮮血が走ると、また暫らく皮膚の表面が治るまで時間がかかった。しかしながら、父はどういう訳か、真っ直ぐに伸びない右腕をしきりに使わせた。祖母と同じく五十音の鉛筆書きや習字の練習は一字、ひと筆、細かく手を取り教え込まれた。こうしたことは、父の私に対する少しでも詫びをしたかったからなのかどうか、その答えは定かでないが、かれこれ小学校に上がるまで、いつも私の手を取り丁寧に文字を教えてくれた。

夏は一番嫌な季節だった。あれから三年も経ち、皆が半袖で遊んでいる夏の真っ盛りに、私は包帯を巻いた上から長袖を着ていた。それは、転んでも皮膚が傷つかないようにとの医者の配慮だった。一度転んで皮膚に傷が付きでもしたら治るまで数週間もかかってしまうからだ。ケロイド状の皮膚がすべすべした皮膚になり、肘も数回の手術によって、おおよそ真っ直ぐになってきた。父の心配をよそに、思いっきり外で遊び回れるようになったのは小学校二年生位からだ。今度は包帯が取れてケロイド状の皮膚が丸見えになってしまい、本当に異常なほど恥ずかしかった。そんな私を見て父は野球のボールを買ってくれた。そして兄が使っていたらしい、ごわごわしたグローブをチャッカリ借用し、毎日隣の家の壁にボールを当ててはそれを受け止める遊びを始めた。

そんな時、向かいのそば屋の厚三兄さんが来て、毎日々々同じことを繰り返している私に、壁に当てたボールを連続十回捕球できたら、私の大好きな蕎麦をご馳走するといってきた。簡単そうで、それがなかなか上手くいかないのである。右手で下から壁に当てる動作が、火傷のせいでボールの軌道が安定しない。毎回まちまちなボールが返ってくるのだ。「そうだ、左手でボールを投げて右手で受け止めれば何とかなる」という発想は良かったが、結局ボールの軌道は正確であっても、受け止める右腕がなかなかいうことを聞いてくれない。子供なりに試行錯誤しながら、やはり利き腕の右手で投げて左で受け止める方法が良さそうであることに気付いた。一週間、二週間が過ぎ何とか形になってきた。十回連続受け止められる様になって、勇んでそば屋の厚三兄さんを呼びに行った。だが、いざやってみるとこれが中々成功しないのである。完璧なまでに出来るようにならなければ、美味しい蕎麦を食べられない。蕎麦のためではあったが一方で、幼いながら自分の人生と懸命に戦うという、そんな何か不思議な心境にかられていたのも事実だ。

とうとうその日はやってきた。完璧に出来るようになり、意気揚々と厚三兄さんを呼びに行った。「やった〜どうだ」とばかりに意気込む私に厚三兄さんは、更に今度はワンバウンドしたボールを同じく連続十回出来たら、また蕎麦をご馳走してくれると、見本を見せていうのである。グローブで取るより素手で取った方が何となく上手く行きそうなので、その方法でチャレンジした。十回連続は単にボールを受け止めるより遥かに難しい。連続二回以上、上手く行かないチャレンジも、やはり徐々に様になってきた。時々見ていて、たまりかねた父は要領を教えてくれた。それは手先だけで取ろうとすれば失敗するとのアドバイスだった。身体全体で膝を使ってやれば上手くいくと見本を見せてくれた。なるほどと思いながら重量感あるグローブを持ってやってみた。「なんだ、こんなことだったのか」と思いながら何度か成功していった。またまた厚三兄さんを呼びに行くと、不思議と連続して成功しない。やはり蕎麦は諦めた方が良さそうとも思ってみたが、父のように膝と肘も使えば、もっとスムーズに行くような気がしてやってみた。ボールの軌道が正確に運ぶようになると難無く出来るようになった。そして大成功し、またまた美味しい蕎麦が食べられたのだ。

町内会の人達は、私の大火傷のことや父の心情を知っていたせいか皆、優しく接してくれた。右腕も上からボールが投げられるようになり、自分でも次第に自信が付き、町内会のソフトボール大会や、お寺の前で遊んでいる仲間に入ってキャッチボールや三角ベースを作って盛んにやれるようになった。そんな姿を父はどのように見ていたのだろうか。次第に元気よく遊ぶようになっていく私には、その後、声を掛ける事も少なくなってきた。私も仲間と毎日暗くなるまで遊んでいた。姉達が「ごはんだよ〜」と呼びに来るのも無視して遊びまくっていたのだ。家に帰ると、もうご飯もおかずも無くなり、おはちの回りについたご飯にお湯をかけ、すすって食べていた。いつもそんな私を見て父は怒るどころかニコニコ笑っていた。

=次回につづく…、お楽しみに。=

■筆者プロフィール
蔵重 俊男 KURASHIGE TOSHIO
住  所: 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連 絡 先: 0144-55-5069
生年月日: 昭和25年6月20日
出  身: 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)(S60年1月〜)
北海道スバル(株)中古車部部長(現在に至る)
趣  味: 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法

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