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蔵重俊男さんのビタミン・エッセイ新シリーズが始まりました。当web読者の皆さんはご存知かと思いますが、蔵重さんは駒大苫小牧高校野球部と香田誉士史監督の10年を丹念に綴った著書「深紅の旗は我にあり」の筆者です。人と人の出会いをとても大切にされる蔵重さんは、「出会い」こそ、生きていくことの中心軸として欠かすことの出来ない「人生」だと考えています。ご自身の出会いの在りようとそこから紡ぎだされる深い思いをテーマに不定期ですがシリーズでお贈りいたします。どうぞお楽しみに。

出会いの中で

■3.「 父 」その2 くらしげ としお

蔵重 俊男

我が家は祖母と両親、三男三女の六人兄姉、そして従業員の三名がひと家族だった。食事時はいつも私の不平不満が引き金で、よく母に怒られた。従業員や父、兄、祖母は尾頭つきの魚が出されても、末っ子の私はしっぽの所しか食べさせてくれないのである。一匹の三分の一もあっただろうか。憤慨してそれをいうと、母からは働いている人が一番といわれ、母も姉たちも同じであった。そういわれれば仕方ないが、遊び回ってお腹の空いた私はいつも我慢を強いられた。姉に片栗粉とでん粉を混ぜ合わせ、湯がいて砂糖を少し入れたものを作ってもらったり、でん粉の代わりにそば粉を混ぜたりして空腹を凌いでいた。しかし朝のご飯は、卵一個でたっぷり三杯位はおかわりしたものだ。子どもながらに、いつも思っていたことがある。両親は、お金が我が家にないことなど全く気にせず「通い帳」で豪勢に買い物をしていたことに疑問をもっていた。それは全て働いている人への食事代であり、我が家にお金が入るのは、盆と正月の二回だから、今考えるとよくそんな商売をやっていたものだと思うのである。

お金の支払いが出来ないお客さんは、野菜や米などを持ってきた。養豚をやっている人は、豚の足一本とかである。正月近くになると裏の物置には色んな食材が棚に置かれてあった。豚の足など柱からぶら下がったままの姿である。今考えると、それはとんでもない光景だった。家の裏手に豚小屋があった。二番目の姉はいつも綺麗なワラを敷き詰めて、子豚が生まれた時などは寝泊りしていた。子豚は暖かくて、いつの間にか一緒に寝込んでしまうこともあったようだ。また、大きな豚の足が裏小屋に吊るしてあるものだから、姉たちはしり込みして誰も豚肉を切りに行けず、それは母の役目になっていた。子ども達は他にも大切な手伝いをやらねばならなかった。飼っていた数匹の豚の世話がそれで、毎日リヤカーを引き豚のエサの雑飯を貰いに家々を一軒ずつ回って歩くことだ。数匹の豚の飼育は、子ども達の大切な役目でもあった。そのほかに、にわとりを飼ったり、ヤギの乳搾りやウサギの餌をやったりしたし、夏の間は父が教えてくれた薪割りをやったり、子ども達がやらなければならない仕事は山ほどあったが、私は時々ずるく立ち回ってそれらを兄や姉たちに任せていた。

終戦後、船で満州から引き上げてきた父は、船の中の数日間、食事は“ひじき”ばかりで、いつも「ひじきの顔は見たくない」といっていたと母から聞いた。今では栄養満点の健康食品の食材だが、朝昼晩の三食がひじきでは流石の父も参ったらしい。自営業の自転車店を長い間経営し、中卒の生徒を見習として同居させ、組み立てを指導していた。自転車店からくるま屋になったのは昭和20年代の後半くらいからと記憶している。オートバイを扱ったりしたが、オート三輪の時代のあとに、必ず時代の大転換期が来ることを父は予想していた。整備業を懸命にやっていたのはそうした父の読みでもあった。普通の人たちが自動車で色んな所へ自由に行き来できるような時代が直ぐそこまでやってきていたのである。既にバイクで多くの人達が「遠乗り」をしていた。町内の数十人の連中が連なってバイクで遠出をするのである。勿論、私はすぐ上の姉と交互に父が先頭を切って走るサイドカーにちゃっかり乗って参加していた。当時の道路の状態は舗装などされていない為、数十台のバイクが走ると土煙が立ちのぼり、やや暫らくは収まらない程だった。後ろを走る人はその土煙の中を果敢に突っ走るのである。戦争当時父が愛用していた帽子やジャンパーなど、寒さを凌ぐのにサイドカーの中には色んな物が積み込まれていた。札幌、定山渓、小樽と遠出をしたが、当時のあのバイクで往復数百キロの距離をよく走破したものだと思う。町の人達は年に一度の「遠乗り」を楽しみにしていたが、私自身もその日をワクワクした気持ちで待ち侘びていた一人であった。

自転車店を経営していた時は、六人の子供を養っていくには大変な日々を過ごしていた。商売は上手く行っていたようだが、仕入先への年数回の支払いは、それがなかなかお金の都合がつかいないのである。私達の学校の授業料袋にもお金が入らず、母はいつも困っていた。それ以上に父は困惑していたようだった。ある日、父が私に「お客さんが来るけど今は居ないというんだ」と告げたことがあった。何のことか分からないまま、母と一緒に話を聞いていた。背広を着た数人の偉そうな人達は、母に何かを告げながら、商売道具などに紙を貼っていった。一体この人達は何者なのだろうと訝っていたが、すぐに父からその訳を聞かされた。税金を払えないと、商売道具や家財など皆、持っていかれることを知らされ、これは不味いなと思っていた。しかし父が隠れていたのは、私がいつも姉達に追われ、逃げ隠れている押し入れだったことに苦笑した。「まあ成るように成るさ」が口癖だった父の一言は、子供心にも何処かその辺に居る大人とは違っているようにも思えた。

その後、ダンプカーなど大型の車が二台入っても余るような大きな工場を建てた。町内の人からは大き過ぎるのではないかといわれたが、父の選択は、間違いなく次の時代を感じさせていた。三輪車やオートバイの整備から、いよいよ四輪乗用車へと大型の車を扱うようになっていくのである。当時は、トヨタ、日産、いすゞの大型車両などを扱っていた。官公庁の車の整備は、全て分解し交換するものが多く、夜中までエンジンの組み立てや下回りの部品交換をやっていた。こうした日々が何日も続き、整備が終わる翌日には、その車を試運転し100キロ程離れた室蘭の陸運支局まで車検に持ち込みにいくのである。時折、私も一緒に連れて行ってもらい、検査が終わるまで色んな車を見て回っていたが、一日がかりで一台の検査が終わっても、なかなか父は出てこなかった。疲れ果てた私は事務所で眠ってしまった後、一体何をやっているのかと思い休憩室を覗きに行くと、月に一度来る父を待ちわびて皆で麻雀をやっていたのである。今なら大変なことになるのだろうが、娯楽もあまりなく、規則も緩やかだったその昔は、昼休みを利用して少しの時間をも趣味を楽しんでいたのである。だがそれは子供の目から見て、何とも形容しがたい不思議な大人の世界の光景であった。

=次回につづく…、お楽しみに。=

■筆者プロフィール
蔵重 俊男 KURASHIGE TOSHIO
住  所: 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連 絡 先: 0144-55-5069
生年月日: 昭和25年6月20日
出  身: 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)(S60年1月〜)
北海道スバル(株)中古車部部長(現在に至る)
趣  味: 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法

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