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蔵重俊男さんのビタミン・エッセイ新シリーズが始まりました。当web読者の皆さんはご存知かと思いますが、蔵重さんは駒大苫小牧高校野球部と香田誉士史監督の10年を丹念に綴った著書「深紅の旗は我にあり」の筆者です。人と人の出会いをとても大切にされる蔵重さんは、「出会い」こそ、生きていくことの中心軸として欠かすことの出来ない「人生」だと考えています。ご自身の出会いの在りようとそこから紡ぎだされる深い思いをテーマに不定期ですがシリーズでお贈りいたします。どうぞお楽しみに。

出会いの中で

■3.「 父 」その4 くらしげ としお

蔵重 俊男

長男が札幌の大きな自動車工場に数年間勤めた後、検査員講習を終了して、昭和四十七年に、いよいよ我が家も札幌陸運局指定の民間車検場を取得た。時代を先取りして父は事業を軌道に乗せていく。こうした父の先見の目は、周囲の人を驚かせていた。しかし一方では、お客さまからの入金は途絶えがちで一向に資金繰りは良くならず、いつも銀行に借り入れをしていた。入金がないのに、仕入先には支払いをしなければならないのだから大変なのは明らかである。原因は何処にあるのか分っていても、父は兄嫁や母に集金をすっかり任せていたのである。それでも何とかやれたのは、今なら債務超過で借り入れなど出来ない状態でも当時は信用貸しがあった時代で、必ず返済してくれるという銀行の信頼を得た経営基盤を父は築いていたのである。

私は、昭和四十七年のオイルショック後、三年八ヶ月勤めた会社を退職し、父にいわれるがまま翌年から家で整備の手伝いをやっていた。オイルショックの後は、すぐさま就職先がなかったのだ。半年後に父から三級整備士の免許取得を命ぜられ、その後二級整備士も取得した。この時期は父や兄、従業員と充実した時を過ごしていた。昭和五十四年に結婚を控えていた私に、ある日突然「家を建てなさい」と父にいわれ唖然とした。土地はあるから、後は上物だけだからと。手続きは、銀行借り入れや金融公庫の支払い審査など全てスムーズにいった。翌年には検査員講習を命じられ、渋々室蘭の姉の家に泊まり込みで講習に通った。勉強する時間が十分にあったせいか難関を突破し資格を取得することが出来た。兄もこうした苦労を重ねて検査員として現場で頑張っているんだと、ようやく兄の自分への厳しい態度の心情が理解できた。その後、私の妻に父は、「将来的に車の免許が無ければ仕事にならないからなあ」といって妻にも免許取得を勧め、その資金は父の小遣いから捻出してくれたのである。「これは内緒だぞ」と父にいわれ、子供を私の両親に預けて自動車学校に通った。父の将来構想は着々と実現していった。四年後に次男が誕生し、二人の子宝に恵まれ何不自由ない生活だったが、そんなある日、私は一大決心をした。父の元を離れることである。

三ヶ月後に三人目が生まれることもあって周りは大反対だった。だが父は私と同じ様な思いを持っていて、私たち家族の考えを支持し後押しをしてくれた。兄や兄嫁、従業員の方々には大変お世話になりながら、何のお返しも出来ずに、新たな次のステップに挑戦していく私たちを、お互いの両親は一番心配してくれた。入社した会社の社長と父は入魂の仲で、大いに私を評価してくれた。検査員、フロント、板金見積り、精算業務と、新しい勤め先での業務は激務で、帰宅はいつも午前様であった。しかしながら入社前に父から、「今度の会社は倒産するかも知れないけど、メーカーが付いているから全く心配ないぞ」といわれた。私は驚き「倒産する会社に入社するのか?」というと、父は笑って「メーカー管理になれば、色んなことが変わり働きやすい環境になるから、辛抱して一生懸命に働いて、頑張れ」と真顔で力強くアドバイスをしてくれた。

=次回につづく・・・お楽しみに!=

■筆者プロフィール
蔵重 俊男 KURASHIGE TOSHIO
住  所: 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連 絡 先: 0144-55-5069
生年月日: 昭和25年6月20日
出  身: 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)(S60年1月〜)
北海道スバル(株)中古車部部長(現在に至る)
趣  味: 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法

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