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蔵重俊男さんのビタミン・エッセイ新シリーズが始まりました。当web読者の皆さんはご存知かと思いますが、蔵重さんは駒大苫小牧高校野球部と香田誉士史監督の10年を丹念に綴った著書「深紅の旗は我にあり」の筆者です。人と人の出会いをとても大切にされる蔵重さんは、「出会い」こそ、生きていくことの中心軸として欠かすことの出来ない「人生」だと考えています。ご自身の出会いの在りようとそこから紡ぎだされる深い思いをテーマに不定期ですがシリーズでお贈りいたします。どうぞお楽しみに。

出会いの中で

■4.「 親友ヤッチ 」その1 くらしげ としお

蔵重 俊男

昭和五十三年十月五日は、生涯忘れることの出来ない“私と彼の一日”である。彼の死から三十数年、あの当時の私は墓参りを繰り返すたびに涙を流していた。現実から逃避していく自分もいた。時の流れと空間は徐々に自分の心を癒しながら現実の生活に埋もれ、薄らいでいく過去の記憶に心の葛藤もあった。ふと気がつくといつの間にか、すっかり心の片隅に彼の面影をしまい込んでいたのだった。「出会いと別れ」は喜怒哀楽を醸し出しながら多くの経験を積み重ねて行くものだ。そして、その思いを偲びながら、ときおり心の引き出しからそっと過ぎてしまった時間を取り出して覗き込む。そんな時だ、いつも言い様の無い悔恨と激しい感情に揺さぶられるのだ。

「中村康博」通称「ヤッチ」。彼との出会いは、高校の入学式当日に彼から声をかけられたことに始まる。ニキビ顔でニコッとすると目じりの下がった優しい笑顔で私に近寄り、オドオドしながら、それでも初対面なのに親しい口調で「よろしく」といった。出欠の名前順も離れているのになぜ私に声を掛けてきたのか、不思議に思った。部活は、彼が剣道部で私は野球部。部室の隣が剣道部と柔道部の練習場になっていた。毎日の練習の合間には薄暗くなった道場の練習風景を見つめ、竹刀を振りかざす彼の雄姿に何処と無く何か惹かれるものを感じていた。竹刀を振り下ろし寸止めする瞬間のカシッ、ビシッ、チャキッと発するこのピーンと張り詰めた空間での音は来る日も来る日もすり足の中、一点に集中し、いつものヤッチの顔からは想像もできない恐ろしい程の視線と、武士を思わせるその姿があった。普段、教室でのヤッチはいつもニコニコと笑顔が絶えなく、目じりを下げて細い目を更に細くして皆を笑わせていた。そうした人なつこい一面のあるヤッチが、ひとたび竹刀を手にするや人格まで変わっていく。私には不思議に思えてならなかったのだ。

ヤッチは小学校、中学校と剣道一筋、それで自分を磨いてきた。入学後、半年ほど経ってヤッチに剣道の試合を申し込んだ。それは私も小学校三年から中学一年まで剣道を習いその心得があったので、ちょっと自分を試して見ようと思ったからだった。バットを竹刀に持ち替えての挑戦だったが、たったの十数秒で奈落の底に突き落とされた。私は小学校五年の時には全道大会で準優勝した経験を持ち、中学一年までやっていた自負もあった。二段の段位を持っていたし、それまでの多くの試合経験を生かせると思っての挑戦だった。自分なりにそうした驕りもあったからかも知れないが、とにかく彼とは充分戦えると思っていたのだ。しかしながら、いざ一戦が始まると、全てを理解せざるを得なかった。全く歯が立たないとはこのことであろう。三年ほどのブランクはあったにせよ、自分としてはかなり自信を持って臨んだにも拘わらず、その一瞬、一体何が起こったのだろうか?と思わせるあのスピード感を味わう羽目になった。彼の目線の奥に秘めたギラギラとした一種の獲物を追いかける野生動物、ハンターの様相を見せていたヤッチは、完全に私を圧倒した。手も足も出ない私は、完膚無きまでに打ち負かされたのだった。田舎育ちだが剣道、野球、陸上ハイジャンプ、卓球、バスケット、冬はスキー、スケートなどやってきたスポーツ万能と思っていた私は、その中でも得意とする剣道で、まさかこんな屈辱を味わうことになろうとは思わなかった。「井の中の蛙」となった私は、こうした悔しい思いを卒業するまで心の底に秘めていた。

それからというもの、ヤッチに対しては尊敬の眼差しで見るようになった。本当に面白い奴と感じてからの出会いは、その後の私の生き方をも変えていった。野球部の練習が終わった後に、何度か再挑戦してみたが、やはりヤッチの掌のひらに乗せられているかのように、まったく勝ち目は無く、体良く遊ばれていたのだ。何処かに勝機は無いかと模索するも、その竹刀さばきには寸部の狂いなど無く、ヤッチの得意とする「小手」「面」とスピード感溢れる技に圧倒された。私の心の動きさえ見事なまでに読み切っていたのだった。その後も何度か挑戦する私に、野球をやるより剣道をやらないかと誘ってきた。だが私は、入学後の夏の大会から背番号を貰っていたし、野球に魅力と可能性を感じていた。将来は「甲子園」という大きな憧れと願望の方が強かったのだ。

そうして彼と私の友情は、スポーツを通して次第に強い絆で結ばれるようになっていった。ちょうど下宿屋を始めた私の姉の所は、ヤッチの家から近いせいか時々遊びに来ては皆を笑わせていた。五人が下宿する一軒家から学校までの道のりは歩いて二十分ほどだった。毎日、通学する道のりも、ヤッチが合流すると、尽きることの無い話がその空間を楽しませてくれたものだ。

時々飲食店街を通ると、決まってヤッチは腰をかがみ込んで道路の隅々を見ながら歩いている。「何をやっているんだ」と聞くと「なんか落ちていないかな〜お金とか〜」なんて宝物でも探す仕草が実に面白く可笑しかった。お昼は姉の手作り弁当だ。姉の作る弁当はすこぶる好評で食べ盛りの我々には、姉の作る弁当を食べることに関しては大満足であった。だが新一年生の野球部員は、昼休みにグランドの整備が待っているため、殆どが早飯をしてその準備をしていた。昼飯に時間をかけてはいられなかったのだ。そんな光景を見ていたヤッチは、「伝統ある野球部は大変だな」といいつつ「弁当余ったら俺が食ってやるから」と真面目な顔をしていつも同じことをいっていた。

こんなこともあった。昼休みになると先輩達が教室に現れては、挨拶が悪いとか返事の声が小さいとか、何かにつけて新入生を叱咤したのだ。また、応援団が来て校歌や応援歌の練習が1ヶ月位は続いた様な気がする。やはり伝統ある応援団は素晴らしいと思ったし、体育館で全員揃っての総仕上げはなかなか見事なものだった。まだ校歌や応援歌の練習ならまだしも、食事しているところに頭のフケを落としていくという連中の話を聞き、「それはやり過ぎだ」と思った。噂には聞いていたが一体この連中はどうなっているんだと思いながら、同郷の正義感の強い先輩に聞いてみた。先輩もそれはやり過ぎだといって、すぐさま実行した二年生のヤキ入れをやったそうだ。その後は、我クラスには現れなくなったが、他のクラスでは引き続き行われていたようだった。全く、こんなことが伝統などといわれたら恥ずかしくなってくる。クラスの皆で「俺達が二年生になっても、あんな馬鹿らしい事はやらない」と誓いあった。

下宿の五人の内、四人は皆後輩でそれぞれの科が違うことで、試験の話題には共通性が無く、試験勉強の時は、何故か無口な毎日を過ごしていたように思う。スポーツと勉強に悪戦苦闘していた三年間もあっという間に過ぎようとしていたある日、卒業間近に大雪が降った。運転免許を取ったばかりのヤッチは、父親の軽トラックを勝手に持ち出し、「お〜い、支笏湖にいくぞ〜」と誘ってきた。姉が心配そうに見守る中、颯爽と出かけていったが、途中吹き溜まりにハンドルを取られ路肩から落ちそうになり車は止まってしまった。運転免許は持っていなかったけれど、私は実家が車屋のお陰で運転は出来た。そこで私がハンドルを握り、ヤッチは前から後ろへと、力任せに押してきた。何度も何度も繰り返している内に、何とか脱出したが、今度は後ろから市営バスが雪煙りを上げてモンモンとやってきた。これに焦った二人はあわてて路肩に寄せようとして、またまた前輪を落としてしまった。その横をゆっくりと安全を確かめながら通り過ぎる市営バス。なんとバスの後部座席には、同級生が乗っていて手を振っていたのだ。「あ〜やられた」これで完全に我々の行動がバレてしまった。二人の力で軽トラックの前輪を持ち上げては少しずつズラシながら、何とか脱出した。とうとう支笏湖行きは諦めて引き帰してきた。

翌日、やっぱりクラスでは朝から二人の行動が話題になっていた。「まあ仕方ないさ」と開き直った二人は「困った人間を置き去りにする市営バスはどんなものでしょうか?」「その中に知り合いがいても助けようとしない心理は如何なもんでしょうかね?」などと笑いを誘う一言で、クラスの中は大きな笑いの渦に溶け込んでいた。あの屈辱、そして何故あの日に支笏湖に行こうとしたのか、いまだに思い出せないでいる。おそらく市営バスで通学している同級生の家に行こうとしていたに違いないのだが…。それ以外の理由が分からないのである。

わが苫工工業化学科のクラスには全道屈指のスポーツ選手が多かった。中でもスピードスケートの東出、村下の両選手は、中学時代から鈴木恵一の後継者といわれ、将来はオリンピック選手として期待される名高い二人だった。陸上部の遠藤、アイスホッケー部の植木、テニス部の鎌田、サッカー部の佐々木、バトミントン部の杉野森など全道、全国大会で大活躍していた。ヤッチも個人戦で東北・北海道大会に出場するまでの選手として大いに活躍していた。個人戦で負けた時には、あの細い目から大粒の涙を流し私の胸で泣きじゃくり、いつまでも大泣きを繰り返していた。そんなヤッチの姿は忘れられないし、私を数十秒の内に奈落の底に落としたあの瞬間を思い出すたび、勝負の世界の厳しさを痛感した。上には上があるということは、「誰しも努力を惜しまない」ことを、お互いに理解した瞬間だった。

=次回につづく…、お楽しみに。=

■筆者プロフィール
蔵重 俊男 KURASHIGE TOSHIO
住  所: 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連 絡 先: 0144-55-5069
生年月日: 昭和25年6月20日
出  身: 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)(S60年1月〜)
北海道スバル(株)中古車部部長(現在に至る)
趣  味: 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法

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