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蔵重俊男さんのビタミン・エッセイ新シリーズが始まりました。当web読者の皆さんはご存知かと思いますが、蔵重さんは駒大苫小牧高校野球部と香田誉士史監督の10年を丹念に綴った著書「深紅の旗は我にあり」の筆者です。人と人の出会いをとても大切にされる蔵重さんは、「出会い」こそ、生きていくことの中心軸として欠かすことの出来ない「人生」だと考えています。ご自身の出会いの在りようとそこから紡ぎだされる深い思いをテーマに不定期ですがシリーズでお贈りいたします。どうぞお楽しみに。

出会いの中で

■4.「 親友ヤッチ 」その2 くらしげ としお

蔵重 俊男

就職先は同じ静岡県内で富士市と藤枝市。私は大昭和製紙に、彼は日本ビニロンという会社に就職した。お互いに練習が休みの日には、どちらかの会社周辺で食事をしたり、夜の街を探索して歩いた。連休を取っては、共に好きな京都へ何度も足を運んだ。まるで恋人同士の様に異郷の地で会うことの楽しみと、その空間を満喫した。京都ではレンタカーを借りては遠出もした。その当時、私は運転免許が無かったので、ヤッチがハンドルを握り、私がナビゲーター役をやって京都市内を大いに走り回って楽しんだ。ある時、高校時代に宿泊した宿を半日かけて何とか探し出し行って見た。「よくこんな所に泊まったもんだな」とお互い顔を見合わせて笑ってしまった。当時の大部屋に通して頂き、二人して大の字になって寝転がってみた。畳の匂いや天井のくすんだ色模様など、色んな思い出が走馬灯のように二人の脳裏を駆け巡り、過ぎた時間の早さを語り合った。学生時代と違って、夕食は流石と思わせる京都料理を堪能し、酌み交わすお酒の美味さが今も蘇ってくる。当時の仲間の笑い声や先生達の見回りの話に二人のテンションは高くなるばかりだった。帰路に着く新幹線の中でも職場の話や学生時代の話に尽きることはなかった。おそらく壊れかかったテープのように、同じ所を何度も何度も再生していたのかもしれない。

その後、第一次オイルショックの時代を境に二人の運命が変わっていく。彼の会社は入社後二年程で閉鎖になり、やむなく退職して北海道に帰ることになった。彼の実家は建設業を営んでいて、父親は一見頑固そうだが、実はとても温厚な方だった。母親と初めて会った時、これは間違いなく親子だと誰が見ても分かるほど笑顔がヤッチそっくりだった。長男は北海道でも有数の企業に勤め、次男は自営業を営み、両親もヤッチのことだけが心配だといつも話していた。オイルショックで就職は厳しい時期ではあったが、ヤッチは札幌の科学計測の販売会社に勤めることになり、札幌を拠点に担当する道南を車で走り回っていた。

私のその後もまた、大きく変化していった。勤め先を含めて製紙会社は不景気のあおりを受けて縮小化を図っていった。経費のかかる運動部すべての廃部を決定し全社員から退職者も募った。お世話になった多くの人達が次々に退職して行くのが日常の姿になっていった。そうした人達を見ていると、寂しさに加え自分の将来にも不安や歯がゆさを感じ、このままこの会社に自分の身を投じる気にはならなくなった。それに好きな野球がやれる環境では無くなったのだ。

その年の十二月に退職し、翌年からは実家の手伝いをするようになった。再会したヤッチと私は、申し合わせたかのように毎週、苫小牧の姉の所で酒を酌み交わした。一升瓶を片手に三十分も話をすると瓶は空になってしまった。それから街に出て午前様まで飲み歩いていた。二人で姉の家に泊まりこみ、翌朝は何事も無かったかのように、姉が作ってくれた朝飯を平らげては昨日の話題を語り合った。

ヤッチの口癖は「オマエはピエロになれ」「オマエは野球しか知らない世間知らずだ。真面目一本ではダメだ」で、私はいつもいわれていた。最初はあまり気にしていなかったが、会う度にいわれると、酒の勢いで「オマエこそ何処まで世間を知っているんだ」などと口喧嘩をしたことも多々あった。確かに普段からヤッチはピエロになっている。人を笑わせる面白いものを持っている。しかし私には正直いってそれが無い。ヤッチは私に「何でもいいから本を読んだらいいよ」とアドバイスをしてくれた。「エロ本でも何でもいいんだよ。その中で自分が思ったことを表現すればいいことだから。相手のレベルに合わせて話題を変えればいいし、気取った話は会社の商談の時くらいで充分さ」と自分に置き換えて一人ぶつぶつ喋っていた。

いつもの決り文句かと思っていたが、まあ、お酒が入ると私の三倍位は喋り、機関銃のような時もあった。少しドモリながら喋る口調が何とも周りの笑いをいつも誘っていた。

高校の同級生が集まればいつの間にか話題の中心を独り占めして、酒の勢いが更に加速した。昭和四十八年から五十三年の数年間は、殆ど毎週土曜、日曜日に姉の所でお酒を飲んではひたすら語り合っていた。

ある夏の暑い日、札幌で一杯会を企画しヤッチのアパートに泊まることになった。確か札幌駅裏側の北七条西五丁目あたりで、築数十年は経っている薄暗いアパートだった。歩くたびにギシギシと音を立て、その度にヤッチは「この廊下は京都の二条城二の丸御殿の鶯張りの廊下だからゆっくりと歩くんだ」と笑いを誘うと、私は「いや家康の知恩院の廊下かも」と酔っ払っても京都の話になると二人はシャキッとした。だがいつも笑い声は堪えきれないほど高まり、笑いで喉をヒクヒクさせながらいつまでも夜中の長い廊下をドタドタ走り回った。

蒸し暑い真夏の札幌、特にヤッチのアパートは蒸し風呂状態。冷蔵庫には何も入っていない。するとヤッチは冷蔵庫のドアを開けるといきなり足を突っ込んでタオルケット一枚をお腹に当てて眠り込んだ。私は一晩中、何度も冷蔵庫の「ぶ〜ん」という不快な音と蒸し暑さで眠れぬ夜を過ごさねばならなかった。

朝方、共同トイレに行ったヤッチと私は冷蔵庫の話をすると「暑いときはいつも冷蔵庫を開けては足を入れて寝ると凄く寝やすいんだ」といっていた。だから冷蔵庫の中には何も入っていないことに気付いた私は「こんなことをして寝るのはオマエくらいだぞ〜!」というと「みんなやっているんじゃないの?」と切り返してきた。とにかく発想が面白く、自分が気まずくなると鼻歌でこちらの気勢をそいだり、阿波踊りのようなタコ踊りのような何とも可笑しな自己流の踊りをやっては笑いを誘いその場を切り抜ける。そんな奇想天外なこの男は、いつも多くの友人達や先輩を笑いの渦に巻き込んでいたのである。

=次回へ続く。どうぞお楽しみに!=

■筆者プロフィール
蔵重 俊男 KURASHIGE TOSHIO
住  所: 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連 絡 先: 0144-55-5069
生年月日: 昭和25年6月20日
出  身: 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)(S60年1月〜)
北海道スバル(株)中古車部部長(現在に至る)
趣  味: 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法

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