心のビタミン・コラム バックナンバーはコチラ

蔵重俊男さんのビタミン・エッセイ新シリーズが始まりました。当web読者の皆さんはご存知かと思いますが、蔵重さんは駒大苫小牧高校野球部と香田誉士史監督の10年を丹念に綴った著書「深紅の旗は我にあり」の筆者です。人と人の出会いをとても大切にされる蔵重さんは、「出会い」こそ、生きていくことの中心軸として欠かすことの出来ない「人生」だと考えています。ご自身の出会いの在りようとそこから紡ぎだされる深い思いをテーマに不定期ですがシリーズでお贈りいたします。どうぞお楽しみに。

出会いの中で

■4.「 親友ヤッチ 」その3 くらしげ としお

蔵重 俊男

出会いからたったの十数年、二十八歳の若さでこの世を去ってしまった「親友ヤッチ」。青春真っ只中を鮮やかに疾走した彼の生き様は、共に生きた私にとって今なお大きな意味を持っている。「ピエロになれ」この言葉の意味することの生き方は、まだ私の中で解決されてはいないが、彼からの言わば大切な「遺言」なのである。

あの日の早朝、五時頃から目覚め、寝つけないでいる私は、母から「仕事に行く前に久々に畑にでも行くかい?」と誘われ、鍬を持って母が作っている小さな畑に向かった。

いつもと違うこの日に、私はまだ気付いていないのだった。帰宅して朝食を終え、いつもの通り仕事に出かけた。 昼食時間は普段通りにNHKのテレビニュースに見入っていた。

最初に交通事故のニュースでグッシャリと潰れた乗用車とタンクローリー車の一部がテレビの画面に広がった。アナウンサーの「中村康博」という名前を聞いても同姓同名と思って気に止めることもなかった。だが、ヤッチが勤める社名の入った無残な車が映ると、もう体の震えが止まらなくなってしまい、食事どころではなくなった。頭の中は真っ白で思考が停止し、呼吸することさえも忘れてしまった。

何度もヤッチの実家に電話をしたが繋がらないのである。すぐさま私の姉に電話をして姉の家で待合わせをしたが、自分がどの様にして苫小牧の姉の所に行ったかも全く記憶がなかった。ヤッチの家族は早朝から室蘭の現場に行っていて私の所に連絡する余裕さえなかったのである。

事故が起きた時間は、私が目覚めた五時過ぎ頃であったことが後から知らされた。「そっかあ、あの時間は私を呼んでいたんだな」と心の中で呟いていた。前日、ヤッチは母親に夕方には実家に帰るからと晩飯を頼んでいたにも拘らず、とうとう連絡なしだった。札幌のアパートから早朝に出て室蘭の仕事先に急ぐ納品を済ませようとしていたらしい。母親との約束を守らなかったことは、それまで一度もなく、母親もいつもヤッチの帰りを待ちわび、その日も好きなカレーを作って待っていたという。まさかこんなことになるとは、と両親はため息をつきながら力なく肩を落としていた。原因はヤッチの居眠り運転で、タンクローリーに激突して即死の状態であったらしい。

夕方には遺体が搬送され、痛々しく腫れ上がった顔面を残し、包帯でぐるぐる巻きにされたヤッチと対面した。体はまだ温かく、今にも笑い出しそうな表情に何度も声をかけた「ヤッチ、聞こえるか、ヤッチ」と何度も、何度も叫びながら声のトーンが次第に高くなっていく自分を抑えることが出来なかった。声を嗄らして何度も体もゆすった。すると返事はないものの、ヤッチの細い目の目尻から大粒の涙が流れ落ちたのだった。確かに大粒の涙がスーッと頬をつたって落ちた。私は、思わず「母さんヤッチは生きているよ」と叫んでしまった。その後も、「ヤッチ、ヤッチ」と何度も呼び叫んだ。姉も一緒にその不思議さに驚き、心臓に耳を当てながら、本当に生きているのではないかと何度も心臓の鼓動が聞こえはしないかと疑った。しかし、温かだった身体が足元から次第に冷えてくるのが感じられてきて、死の現実を認めざるを得ない状況になった。

自分はどうしたら良いのか、これから先まだまだ二人で人生を語り合う時間が沢山あったはずなのに。自問自答する自分さえ受け入れることが出来ない現実は、ただ涙を流して済まされるものではない様にも感じられた。お通夜、告別式そして出棺と滞りなく終わったが、ポッカリ空いた虚ろな私の心の中で、土・日曜日の空虚な時間と空間をこれから先、一体どう過ごせばいいのか…、想像もつかないのだった。

初盆は東に昇る太陽と西に沈む太陽が一日中見渡せる所にお墓が建てられた。ご両親は、いずれ「私達もヤッチの所に行くのだから」と、陽の当る場所が一番といっていた。そんな明るい気性の母親の所に、時間があれば通い続けヤッチと私の思い出を語ると、溢れる涙を拭いながら母親もヤッチの幼い頃の思い出を語った。私以上に母親としての寂しさを語り、同時に私の気持ちも察してくれていた。土日のどちらかには毎週、お参りに通った私に、「いつも来てくれるから、寂しさも悲しさも和らいでいる」と労いの言葉をかけてくれた時、私の心は少しばかり明るく弾んだ。その後、父親も他界し、母親は市営アパートで一人暮らしをするようになり、七十五キロほどあった大きな体もいつの間にか小さく、小さく感じられるようになった。

「笑いは人の心を和ませる」そんな不思議な力があることを、ずっと私にメッセージを送り続けていた親友のヤッチ。「ピエロになれ」といわれ続けた言葉も一周忌を迎えた頃、ようやくヤッチのメッセージとして受け止められるようになった。墓前で「オマエの分まで頑張るから」と約束してから今年でヤッチの三十三回忌を迎える。三年程前にヤッチの母親も他界し、今は親子で何を語り合っているのでしょうね。仕事で苦しんでいる時や、迷っている時など、墓前の前で涙を流しては自分を戒めてきた。家族が健康で過ごしていることへの感謝など墓前に向かえば心が和み、私の家族も一緒に手を合わせてくれた。今は苫小牧在住の兄夫婦がお墓を守っている。時々、兄夫婦に会いに行くが、私の事を自分の弟のように可愛がってくれる。ヤッチが出会いを作ってくれた大切な人に感謝しながら、まだまだ頑張らねばならない。これからも二十八歳の若さで他界したヤッチの分まで人生を謳歌しなければならいないと思っている。健康であるが故に人一倍やってこられた事に感謝せずにいられない。気力も体力も更に充実させ、そして「笑い」がある人生の大切さを教えてくれた唯一の親友へ改めて心から「ありがとうな」といいたい。(完)

■筆者プロフィール
蔵重 俊男 KURASHIGE TOSHIO
住  所: 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連 絡 先: 0144-55-5069
生年月日: 昭和25年6月20日
出  身: 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)(S60年1月〜)
北海道スバル(株)中古車部部長(現在に至る)
趣  味: 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法

上へ移動↑