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蔵重俊男さんのビタミン・エッセイ新シリーズが始まりました。当web読者の皆さんはご存知かと思いますが、蔵重さんは駒大苫小牧高校野球部と香田誉士史監督の10年を丹念に綴った著書「深紅の旗は我にあり」の筆者です。人と人の出会いをとても大切にされる蔵重さんは、「出会い」こそ、生きていくことの中心軸として欠かすことの出来ない「人生」だと考えています。ご自身の出会いの在りようとそこから紡ぎだされる深い思いをテーマに不定期ですがシリーズでお贈りいたします。どうぞお楽しみに。

出会いの中で

■5.「 母として子として 」その1 くらしげ としお

蔵重 俊男

記憶の奥底に焼き付けられた母の姿。「こらぁ〜何をやっているんだぁ」と、いつも怒鳴り散らしていた。私の思い出にあるよく怒鳴る母は、しかしどんな時もどっしりとした優しさで私を包み込んでくれていた。気丈な性格で、とにかく家族を守る為にはひたすら自分を犠牲にして嵐のような慌しい毎日を過ごしていたことを良く覚えている。そんな中、子供たちへの接し方に、優しく私に接する態度と兄姉に対する厳しさを持つ二面性には「どうしてなのか?」と不思議に思ったことがよくあった。

六人兄弟の末っ子として私を産んだ時の母は、産後、腎臓の病気で高熱を発し入院した。鈍痛と微熱が続き一ヶ月ほど入院した。退院してからも暫らくは寝たきりの状態であったという。母は生まれたばかりの私と隣の精米所に居るもう一人の母さんの話をいつも優しく教えてくれた。それは私が生まれる二ヶ月程前に隣の母さんは男の子を出産し、母が入院している間、私に自分の子供と同じようにお乳を飲ませて育ててくれたらしい。二人の乳飲み子は双子の兄弟のように、大きなお乳をむさぼるように飲み分けしていた話を何度も聞いていたせいか、自分にとっては、もう一人の母親として慕うようになっていた。幼い頃は、何の違和感も無く隣の家に行ってはご飯をご馳走になるのは当たり前で、二人は小学校の頃までは朝から晩まで毎日泥んこになって遊びまわっていたものだ。しかし母親の免疫がないせいか幼い頃の私は突然、高熱を出しては病院通いをしていた。

小学校に入学して間もない頃だった。風邪の悪化からか高熱の日が続き突然吐血した。大量の鮮血はみるみるタオルに浸み込み、差し出された洗面器にボタッボタッと流れ落ちていった。その辺りまでは記憶にあるが、その後、完全に気を失った私を父は抱きかかえて近くの病院に担ぎ込みようやく止血を施してもらった。母と同じ「腎臓病」と診断された。血の気が無くなった私の傍を何時までも心配そうに見守ってくれていたのは、やはり母だった。「母さん俺、死ぬのか?」と聞くと、「こんなもんで死んだら、これから何回も死ななきゃならんよ」と笑いながら応えていた母の笑顔に不思議な安堵感を感じたものだった。

当時、田舎にも劇場があり、映画や芝居が頻繁に行われていたが、母が好きな時代劇俳優の「長谷川一夫」や「片岡千恵蔵」「市川雷蔵」そして「大川橋蔵」といった映画が来るたびに、お前は突然熱を出して、なかなか見に行けないことがあったと嘆き、枕元で苦笑しながら話していた。そうした時でも水枕を取り替えては、そっと私の傍で優しく昔話をしてくれた母だった。学校は二ヶ月ほど休まなければならなかった。思い切り遊ぶことが出来ず、大火傷も完治していないこうした時に病気になった自分への苛立ちからかいつも仲間に八つ当たりをしている私だった。元気になるまでは、女の子と「おはじき」遊びをしたりビー玉遊びや釘刺し、パッチ(メンコ)をして遊ぶことが多かったのだ。

次第に体力も付いて思いっきり遊べる環境になった。病院の先生が驚異的な回復にビックリしていたと母は楽しげに話してくれた。その源は、毎日ほうれん草など野菜中心の食事が私の体力を徐々に回復させていたのだった。同じ病気の母が作る手料理は、母が入院した時の神谷病院の院長よる食事の指導だった。

正月になると我が家には近くの従姉妹が遊びにくる。姉達を含めて何故か母は厳しく声を荒げ料理や掃除、礼儀作法に関して煩わしそうに事細かくまくし立てていた。助言というよりも大声で叱り付けていた様に記憶している。時には、ストーブに使う鉄の棒のデレッキを持って長女を追いかけていた母だったが、次女は「何故?母に追いかけられていたのか?」と今でも長女に問いかけ、その時の事を思いだしては二人で腹を抱えて大笑いをしている。

戦争で父の居ない間、生活を守るために畑を耕し四人の兄姉は母の手で育てられた。苦しい末に母は、次女を背負い両手に長男長女を引き連れて死を覚悟したことがあったと姉が話してくれた。あれだけ気丈な母がと思ったが、家の裏にある沼地に向かったことが、何度もあったそうだ。田んぼのあぜ道を行こうと玄関を出ると、父方の祖父が偶然にも家に帰ってきて鉢合せになり、何度も慰められたといっていた。祖父はそうした場面に母を助けた不思議な存在であったのだ。

戦後になって私とすぐ上の姉が生まれたが、もし父が戦死していたら私達はこの世に居ないのだから、幸運という言い方が正しいかどうか分からないが、姉と私は、この家に生まれて良かったと後に顔を見合わせ話すことがあった。終戦後、そんな六人の子どもを持つ母は、自転車店、自動車販売修理業を営む父と共に多くの人との出会いの中で、どの様な係わりを持ちながら地域の人々と生活を営んできたのだろうか。

大正六年生まれの母からは、生まれは宮城県の仙台と聞いていたが、戸籍で調べると祖父は名取郡館越村、祖母は同じ名取郡の千貫村となっていた。母の両親は大正六年一月に入籍し三月二十四日に長女として母が誕生している。農業を営み父方の小作として田畑を切り盛りしていたらしい。しかしながら父方は、大きな借金を抱え小作人である母の両親が営んでいる田畑は没収され、両親と母は次の土地を求めて津軽海峡の荒波を船で渡り、クシル(釧路)の町に辿り着いたといっていた。

明治から栄えた町は大正の頃には一体どの様な時代背景があったのだろうか。まだまだ漁業中心のクシルの町で土地や食料を求め合っていた時代の中、祖父は農作物を作る技術があって以前から遠い蝦夷地での農業での自活を求めていたことも後に分かった。少ない手道具で、先ず山の中に自分たちの住む家を作り、自然が作り出す木の実や草花を食材として、自給自足の生活を数ヶ月以上も過ごしていたのである。勿論、母は学校も行けず教育も受けられる機会などなかった。

ある夏の日、大風と雷雨が響き渡り、家の近くに雷が落ちて祖母は耳を患い、片方は全く聞こえなくなってしまった。その後、親子三人は海岸線を辿り、農業をやれそうな土地を求めながら数百キロの道のりを数ヶ月かけて移動してやっと今の地に来たといっていた。

大正十四年には新天地で弟が生まれ、姉である母が弟の面倒を見る傍ら朝から寝るまで身の回りのことをやっていた。両親も暗くなるまで仕事をして、帰宅しても寝るだけの生活であった。そんな中、母はようやく教育を受けられる環境になっていくのだが、弟を背負っては満足には教育が受けられる筈もなかった。同様に周りの人達も弟や妹を背負って授業を受けていた時代だから致し方ない。そのせいか、私には母から勉強を教えて貰った記憶は殆ど無く、一番末っ子だからかも知れないが姉達に教えて貰っていたのが日課だった。ある日、母にそっとその事を聞くと「ひらがなしか書けない」といっていた。その寂しげな顔を見た時、母の分まで頑張らなくてはと思ったものだが、幼い頃は遊びが一番で勉強は二の次であった。
=次回へ続く。お楽しみに!=

■筆者プロフィール
蔵重 俊男 KURASHIGE TOSHIO
住  所: 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連 絡 先: 0144-55-5069
生年月日: 昭和25年6月20日
出  身: 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)(S60年1月〜)
北海道スバル(株)中古車部部長(現在に至る)
趣  味: 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法

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