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蔵重俊男さんのビタミン・エッセイ新シリーズが始まりました。当web読者の皆さんはご存知かと思いますが、蔵重さんは駒大苫小牧高校野球部と香田誉士史監督の10年を丹念に綴った著書「深紅の旗は我にあり」の筆者です。人と人の出会いをとても大切にされる蔵重さんは、「出会い」こそ、生きていくことの中心軸として欠かすことの出来ない「人生」だと考えています。ご自身の出会いの在りようとそこから紡ぎだされる深い思いをテーマに不定期ですがシリーズでお贈りいたします。どうぞお楽しみに。

出会いの中で

■5.「 母として子として 」その2 くらしげ としお

蔵重 俊男

父の仕事が自転車店からバイクやオート三輪車を扱う時代になっていくと、母もお化粧どころではなくなった。朝から晩までツナギ服を着て真っ黒になって仕事を手伝っていた。

三輪車のボディと荷台を切り離し、荷台を立てかけては、ハンマーでコンコンと叩いて錆を落としていくのである。それが終わると、真っ黒なタール状の塗料を刷毛でまんべんなく塗りつけていく。この作業は簡単そうに見えたが、私がやってみると均等に塗ることが出来ず、とても大変な仕事であることが良く分かった。

学芸会がある時の母は、決まってもんぺ姿に真っ白な割烹着を着て学校に顔を出しては、そそくさと帰って行く。舞台の上から見るその時の母の姿を目で追いかけるのだが、つい先ほどまで居た母は、いつしか消え去っているのだった。でも、運動会になると事は違っていた。各自治会対抗や親子対抗のリレー等があって、それこそ家族総出の機会が待っていた。

少し、家族の紹介をしておきましょうか。我が家は、両親を筆頭に皆、運動能力が高く、運動会の中で自治会対抗などのリレーの時は、家族総出で乗り込んでいた。スタートが私で、次は三女の姉、長男、母、父とつなぐリレーは、拍手喝采を浴びていた。

その中でも、三女は小学校から中学校まで、男女を合わせてリレーやマラソンは、いつも一番で、学校から表彰状や鉛筆、ノートを山ほど貰う韋駄天娘だった。走り始めると何処か別の世界から来たような少女は、とても格好良く風を切って走り、勢いのついた機関車のようにも思えた。それ程、姉が逞しく見えたものだった。当時、もしも良い指導者に巡り合っていたなら、オリンピックに出場した依田郁子の様なスプリンターになっていたかもしれない、と後年も長く語られた程であった。

長女も、母と同じく走る事にかけては図抜けていたが、負けると悔しいといってはいつも走ることを躊躇していた。母の走りは誰からか指導された訳ではないが、三女の走る姿によく似ていた。母方の叔父である菅原治一は戦前、戦後、北海道では短距離の選手として活躍し、百メートルで十一.三秒、二百メートルでは二十三.八秒とノンスパイクの時代に多くの大会記録を持っていた人だった。長男もハイジャンプでは、暫らく青年部の大会や、道内の大会に選抜され、あちこちと遠征に行っていた。私にとっては自慢の両親、そして兄姉たちであった。

次女は小さい頃から相撲が大好きで、若乃花、千代の山、栃錦の時代を満喫し、特に初代若乃花の大ファンであった。中学生になっても、男性と相撲をとっても負けない強い女性であったが、長女が「恥ずかしいから相撲とるの止めなさい」といつも文句をいっていたが止めなかった位、大の相撲好きであった。それは今でも変わっていない。次男はいつも冷静沈着で、物事には動じず、落ち着いて行動していた。中学まで野球選手で右投げ左打は、自然にそうしたらしいが、今のように強制的に左打ちにしたものではなく、打ちやすいからそうしたらしい。そして「汚い仕事が嫌だ」といって当時、苫小牧に出来たばかりの高等理容学校に一期生として入学した。

私の家族はそれぞれ行動範囲が広く、誰が何処に行っているのか、把握できていないのがいつもの母であった。父の仕事を手伝いながら、食事の用意をしたり、洗濯など大変だったのだろう。兄姉達は食事の手伝いや数十メートル離れた所にある地下水を汲みに行っては天秤棒で担ぎ、家の水桶に「ザザーッ」と満杯になるまで入れるのが日課であった。近くには小川が流れ、近所のお母さん達はこぞって洗濯をする姿を見て、いつも大変だなぁと思っていた。寒空の中、固形石鹸で何度も、大きな洗濯板でゴシゴシと繰り返し洗濯する風景は、小学生頃まで続いていたと記憶している。アカギレした母の手で真っ黒になったツナギ服の洗濯は、口では言い表せられない大変な日々であったように思う。私も担ぎ棒で何度か水汲みに挑戦してみたが、途中で肩や、背中が痛くなり、おまけに水をすっかりこぼしてしまう破目にもなり、兄には拳骨をくわされ結構叱られた。それだけ町の人達にとっては貴重な水源であったのだ。しまいには「お前には任せられない」といって、担ぎ棒を取り上げられる始末だった。

その後、数年かけて町の下水道は整備され、「ひねるとジャー」の時代がやってくる。町の水源は、高台にある小学校であった。道路の真ん中に大きな溝を掘り、あちこちの家庭では水源から引かれる水道水を長い間、待ち望んでいたのである。

母方の両親は近くに住む母の弟夫婦と一緒に生活し、晩年は廃品回収業をやって生計をたてていた。頼もしい祖父は、やはり健脚の持ち主で、毎日、町中をリヤカーの積荷の数倍もの廃品を回収して歩いていた。学校帰りに祖父に出会うと、物凄い高さに積んだリヤカーを引いている姿を見ては、「じいちゃんは凄い」と思っていた。

祖母は耳を患っているせいか、傍まで行って話さなければ会話が出来なかった。その祖母が毎日のように我が家に尋ねてくる時は、いつも着物の懐や袖に何かを隠しもってくる。それは長男が可愛くて長男の為にお菓子などを隠し持ってくるのだが、両親を含め、皆にはバレバレなのだ。「婆ちゃん着物の袖に何か入ってるよ」と姉たちがいうと「何も入ってねえ」と切り返し、胸を押えたり、袖の中に手を入れる仕草が面白くていつも声を掛けていた。祖母にしてみれば、初孫だったせいか、長男には特別な思いがあったようだ。

祖父も同じ様に、私達と長男の扱いは、全く違っていた。しかしながら、毎日のようにお風呂に入りに来ていた祖父母は、何故か私を誘っては、一緒にお風呂に入っていた。誘われるまま一緒に入り背中を流したりしていたが、祖父は大火傷をした私の右腕を庇いながら、いつも「もう少ししたら良くなるから我慢するんだ」といっては、風呂上りに万遍無く薬を塗ってくれた。祖父が入る湯船には、熱くて足を入れるのが精一杯で、十を数えるのも早口で「だるまさんがころんだ」といっては、いつも「カラスの行水」をやっていた。

元気で過ごしていた祖父が晩年、胃がんで亡くなるまで、母は札幌の病院まで何度も通い、いつも小さな「桃の缶詰」を大事に持って行った。母に何故「桃の缶詰なのか?」と尋ねた。もう食事も出来ない状態だった祖父は、「桃の缶詰の汁」が大好きで、スプーンで汁をひとくち入れてやると、気持ちよさそうに啜っていた事をよく話してくれた。祖父は桃の缶詰の「汁」が好きだったのだ。昭和三十六年三月厳寒の中、祖父が亡くなった。それからの母は、菅原家の納骨堂に行く時や法事や彼岸のとき等、何かあるごとに「桃の缶詰」をあげていた。そして母は、平成八年九月二十三日、父の死から二年後、八十一歳で父の後を追うように他界した。今は、亡き母の意をつなぎ、納骨堂へのお参りの際には私たち夫婦が同じ事をやり少しでも母の想いが伝わるようにと心を癒している。

我慢強い大正六年生まれの母の気骨さは驚くことばかりで、何処にあのような我慢強さが宿っていたのだろうか。おそらく、幼い頃から両親と共に、東北の地から北海道に渡ってからも、苦労の連続であったからか、何事も「こつくたらもん」が口癖で、「そんなもの苦労の内にならん」といっていた。

=次回へつづく。お楽しみに!=

■編集者からのお知らせ■
日頃より苫小牧駒澤大学webサイトをお楽しみ頂きまして誠にありがとうございます。
蔵重さんエッセイは平成23年1月の更新はお休みさせて頂き、2月からの更新となります。どうかご了承願います。
2011年の新しい年が読者の皆様にとって充実した良き1年間となりますよう心から願っております。

■筆者プロフィール
蔵重 俊男 KURASHIGE TOSHIO
住  所: 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連 絡 先: 0144-55-5069
生年月日: 昭和25年6月20日
出  身: 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)(S60年1月〜)
北海道スバル(株)中古車部部長(現在に至る)
趣  味: 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法

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