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蔵重俊男さんのビタミン・エッセイ新シリーズが始まりました。当web読者の皆さんはご存知かと思いますが、蔵重さんは駒大苫小牧高校野球部と香田誉士史監督の10年を丹念に綴った著書「深紅の旗は我にあり」の筆者です。人と人の出会いをとても大切にされる蔵重さんは、「出会い」こそ、生きていくことの中心軸として欠かすことの出来ない「人生」だと考えています。ご自身の出会いの在りようとそこから紡ぎだされる深い思いをテーマに不定期ですがシリーズでお贈りいたします。どうぞお楽しみに。

出会いの中で

■5.「 母として子として 」その3 くらしげ としお

蔵重 俊男

初秋の寒い朝、畑仕事前にコップ一杯の日本酒を引っ掛けて颯爽と出かけて行く母を見てビックリした。姉達に聞くと、「いつも朝起きたら一杯引っ掛けているよ」といっていた。母は、父がお酒を飲めない分、何かあるごとに父に代わってお酒の席で相手をしていたのだ。当時のディーラーの営業マンは、お昼休みに我が家に来ては、勝手につまみや、お酒を出してきては「納車祝」といって盛大に酒盛りをしていた。そんな中、父は母の差し出す手料理をニコニコしながらお客さんを交えて楽しそうに会話をしていたのである。一日に四台、五台と契約していく事もあった時代だから、母や姉の忙しい毎日が手にとって分かる。酔いつぶれた営業マンは、家の隅で寝ていく人もあれば、下取りの車に乗って会社に帰る途中にひっくり返してしまう営業マンもいて、毎日が目まぐるしく回っていた時代だったが、それでも貧乏経営は変わらなかった。借金のかわりに、食材を持ってくるお客さんの殆どが農業を営んでいる人たちだから、まだまだ物々交換の原始的な商売だったのかも知れない。そんな中でも、人とのふれ合いが、後々兄の時代に引き継がれていくのである。そうした中でも、仕入先に支払いするお金が不足していれば、お金を借りに自転車で走り回るのも母の仕事で、少しでも家計を補う為に、春から秋へと畑仕事をやっているのも母だった。

ある日のこと、母がいつもの様に畑で草刈をやっている時だった。右手に持っている鎌で自分の左足の脛を十センチほど切ってしまったのである。鉢巻代わりのタオルで止血し、家から百メートル以上もある畑から、トボトボと歩いて帰り、病院も行かずに切り口に塩を振りかけ消毒した姿を見た時、私は背筋がゾクゾクしたのを覚えている。血は流れ長靴の中まで浸み込んでいたにもかかわらず病院に行こうとしないのである。昔からこう言う事が頻繁にあり、私たちが怪我をして切り傷を負っても、水で流しては消毒代わりに塩を口に含んでかけられた。ビリビリと痛む傷口も次第に治まり、治っていくのが不思議であった。

当時は舗装が施されていない道路ばかりであったせいか、よく目にゴミが入ると、上瞼をひっくり返し舌でなぞってゴミを取ってくれた。風邪を引いて鼻水が止まらない時などは、いきなり私の鼻に母の口をあて鼻水を吸い上げてくれたり、夜中にお腹が痛くなった時などは、塩を炒っては新聞紙で包み、下っ腹に当てると、不思議と痛みが和らいだりと、クシル(釧路)の山中で生活している時からこうした事を母も両親から教わったといっていた。

病院が少ない時代、また病院があってもお金を掛けられない時代、自分たちの出来ることは、自分たちで、先人の知恵を生かしながら、こうしてやってきたのだった。その知恵は、私たちの日常生活にも生かされ伝承されていく。そうした日常、母にとっては何の変哲もない事も子ども心に、「母さんは凄い」と尊敬していた。

そんな一面を持つ母だが、私は鼻血が飛び散るくらい殴られたことがあった。小学校に上がる頃、自転車店を営んで居る時に、その事件は起こったのである。お昼休みには従業員のお兄ちゃんに自転車オートバイなるものに乗せてもらい、いつも街中を悠々と二人乗りをして走っていた。木造で出来た大橋をスリル満点で渡る醍醐味を楽しんでいた二人に試練が起こったのである。

その日もいつも通り走っていたのだが、お兄ちゃんが運転を誤り、大橋を渡り終えた瞬間、堤防からバイクと一緒に転げ落ち、私は左足の脹脛の二ヶ所を五センチほど切ってしまった。幸いにお兄ちゃんは怪我もせず、二人でバイクを押しながら帰ってきた。父と母に理由を説明し終わるか否や、母は私に向かって往復ビンタをくらわせて来た。あっけにとられていると、今度はスリッパで頭から顔面中殴られ鼻血が飛び散っていた。「私は足をケガして血を流しているのに」と思いながらも、そんなことは気にせず母は私をトコトン殴っていた。お兄ちゃんは隣で正座し、おそらく自分も殴られると思っていたらしい。しかしながら、私を殴って気が落ち着くと母は言った。「大事な子供さんを預かって働いてもらっているのに、万が一この子に何かあったら、取り返しがつかないんだ」と真顔で何度も何度もいっていた。その時、父はのっそりと私の前に聳え立ち、「悪ふざけは二度とやるな」といって仕事場にいってしまった。もう父の一言で私は震えあがり、母に殴られた事など一瞬忘れ去った。流れる鼻血と、脹脛から流れる鮮血も次第に自分の涙で流されていった様な気がした。泣きじゃくる私を母は、ヒザを突合せそっと抱きかかえ包み込んでくれた。「痛かったかい?ごめんね」といわれた瞬間、私は母をぎゅっと抱きしめ、また大泣きしてしまった。そしてようやく私のケガをした足に気がつき、いつもの様に、口に含んだ塩水を傷口に吹きかけられた。その瞬間、母に殴られた事や、脹脛を切った時以上の痛みは、ぐっと堪えるしかなかった。そして気持ちも落ち着いてきた頃、母はゆっくりと人を大切にする事の意味合いを話してくれた。「働いている人を大切にするということは、そこには家族がいるという事、ましてや道南の遠く離れた町から来た子供さんに万が一、何かあったら、お前ならどうする?」と問われた。母にいわれた事は覚えているが、自分はその時、何と返答し母に話したのか全く記憶にない。

この時の母に懇々といわれた事は、長い間、私の社会人として生きてきた大きな支えになっている。「人との出会いの中から、人を思いやる心」は、これからも大切にしていきたい。

ある日、私は母に「お前は一番末っ子だから親の愛情も一番薄いかも知れない、だからお前との時間を大切にして過ごしたい」といわれたことがあった。その時気付いたのは、兄とは十一才も離れている訳だから母の言う十一年分は私に愛情を奉げて貰ってもいいのかな?などと自分勝手に解釈したことがあった。産後の病弱であった母は、年令を重ねる程に強くなり、我が家の隆盛は母が重要な一部分を支えていると感じていたのは、私だけではなく、町内の人たちも皆そうした目で母を見ていたのだった。

=次回へつづく。どうぞお楽しみに!=

■筆者プロフィール
蔵重 俊男 KURASHIGE TOSHIO
住  所: 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連 絡 先: 0144-55-5069
生年月日: 昭和25年6月20日
出  身: 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)(S60年1月〜)
北海道スバル(株)中古車部部長(現在に至る)
趣  味: 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法

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