心のビタミン・コラム バックナンバーはコチラ

蔵重俊男さんのビタミン・エッセイ新シリーズが始まりました。当web読者の皆さんはご存知かと思いますが、蔵重さんは駒大苫小牧高校野球部と香田誉士史監督の10年を丹念に綴った著書「深紅の旗は我にあり」の筆者です。人と人の出会いをとても大切にされる蔵重さんは、「出会い」こそ、生きていくことの中心軸として欠かすことの出来ない「人生」だと考えています。ご自身の出会いの在りようとそこから紡ぎだされる深い思いをテーマに不定期ですがシリーズでお贈りいたします。どうぞお楽しみに。

出会いの中で

■5.「 母として子として 」その4 くらしげ としお

蔵重 俊男

私の高校生活スタートは、隣の母さんの知人宅でたった一人の下宿生活になった。弁当の他におにぎり二個を付けてくれるのは、練習がきついことを知っている奥さんの気遣いからだった。然しながら、練習が終わって夜の八時過ぎに帰宅する私は、食事を用意して待っていてくれる下宿先のご夫妻に申し訳ない気持ちで一杯だった。ご主人は苫小牧工業のOBで当時、白髪で五十才位だったろうか?建設会社を経営する傍ら、夕方になると練習風景をいつも見に来てくれていたが、声出しとトンボ掛けをやっている一年生の私の姿を見てはホッとして帰っていった。私の両親も一度だけ、兄嫁になる人を連れてこっそり見に来ていたが、練習の凄さにビックリしてたじろいで居たという。それ以来、両親は三年間、一度も見に来たことはなかった。伝統校の練習は、暗くなってからも更に続いていく。星空が輝く夜には、ボールに石灰を付けてのノックが恒例だった。音と勘でボールの行く先を読んでいく。「正に闇夜にカラス」といった状況だったが、自然とボールも人もクッキリと見え出してくる何とも不思議な体験をさせてもらった。当時の監督は、後に名将といわれた「金子満夫」監督で、苫小牧工業から大毎オリオンズに入団した。三年後に退団した後は、立教大学で教職を取得し虻田商業の教壇に立った。その後、母校の監督になったばかりで、六十数名いた部員は、毎日のように一人、また一人と退部し、一年も経過しない間に三十名位になってしまった。それ位、厳しい環境下での猛練習だったが、徐々にめざましい結果を残していくのである。下宿先まで歩いてたったの10分くらいの道のりも、途中で何度も腰を屈めては休みながら帰っていった。毎日の百本ノックの帰りは、膝も上がらない状態になったのは私ばかりではなかった。そうした事が下宿先の小母さんから母に伝わると、忙しい中でも母はわざわざ下宿先に出向いては、私の好きな果物を差し入れては帰っていった。

入学した年の冬季間は下宿代もかさむ事から、数ヶ月間、汽車通学に切り替えた。朝は六時過ぎのバスに乗り、汽車に乗り換えての通学も、私以上に母が早朝から大変であった。特に冬の朝は、何もかもが凍りつき、私の履いていく長靴もバリバリになっている。オーバーコートも母はストーブの回りで温めてくれている。履いていく長靴も同じ様に毎日ストーブの傍に置いて暖めてくれていた。そんなある日、私は「自分の事は自分でやるから明日からはいいよ」といってしまった。何気ない言葉のやり取りだったが、母の心情を考えずに立腹させてしまったのである。母は私ばかりで無く、従業員の靴も同じ様にせっせとストーブの回りにその日のリズムで置いていくのだが、その時は突然、母が怒り出した原因が分からなかったのである。母は自分の想いが伝わっていないと感じたのだろうか?「母さん、悪いことでもしたか?」とぽつりといわれた時、「母さんが大変だと思ってさ」という私の言葉には、全く聞く耳を持たなかった。「ああ〜なんてこった」と思いながらも、翌日からの母は、私の弁当を作っては、「おはよう」といったっきり、パンと牛乳と野菜をいつもの場所に置いた。それからずっと無言の日々が続いた。「もう謝るしかないな」と思ったが、いつも帰宅した頃には寝ているし、朝はなかなか切り出せなくて困っていた。その後、数日間、自分で長靴とコートを温めていたが、ある日また、いつもの様に、母はその日のリズムで私の長靴もコートも温めてくれていた。無言のまま、お互いに理解し合えたと自分なりに解釈していた。いつの間にか母も、「おはよう」以外の言葉を交わしてくれた。でもこのままではダメだと思い母に手紙を書いた。前日に私の長靴の中に、「母さんの気持ちも考えずに、あんなこといってゴメン。これからも宜しく」とだけ書き添えた。その日の母は元気一杯で、以前のように「練習頑張れ」と声をかけてくれた事で、私の心も、ようやく吹っ切れ、気分爽快になった。「ああ今までの数日間は一体何なのであったのだろうか」と思いつつ、母の一日のリズムを壊してしまった私はその日、大きく懺悔した。言葉で言い表せない思いも、鉛筆と紙があれば人の心は通じ合えるものだと思った。それは、今までの人生の中でも何度も遭遇し乗り越えてきた事に自負しているからだ。今も鮮明に残る多くの出来事は母の強靭な心と共に歩んできたような気がする。

就職して初めての給料の一部を、手紙を添えて母に送った。帰省したとき、その給料は、何故かそのままの状態で神棚に上がったままだった。母に聞くと、「もったいないから使えない」と真顔で答えた。「じゃ二人で飲みにでも行こうか?」と、母を無理やり連れ出し田舎の寿司屋に飲みにいった。コップに溢れんばかりの日本酒を一気に飲み干した母は、私にも、「一気に空けろ」といってきた。病弱だった私の幼い頃の話を酒の肴にして、話に花が咲き「まさか、こうしてお前とお酒が飲めるとは」という母の潤んだ目を見ながらのお酒は、生涯で一番美味しいお酒になった。帰り道、母の好きな「真室川音頭」を肩を組んで唄いながら、静まり返った夜道を二人はふらつきながら家路についた。「人生五十年だ、それ以上生きたら儲けものだ」。それは母が最も大切にする言葉、口癖だった。八十一才で他界するまで、人が生きていく上での大切なことを、時を刻みながら教えてくれたような気がする。東北の地から北海道に渡り、厳寒の無縁の地で得た経験は、計り知れないものがある。そうした多くの経験を、父と共に次の時代へと繋いできた数十年間、「人との出会いが人生を楽しく豊かにしてきた」と母は語っていた。そして長い間、商売をやれるということは、多くの人に感謝しなければならない。そこには、人が生きていく上で、何が一番大切な事なのか?「信用と信頼を無くしては人として生きていく資格は無いぞ」と父は事あるごとに話していた。「母として子として、自分を裸にして如何に生きるか?」なのである。(完)

2011年2月15日 脱稿

■編集者からのお知らせ■
長い間ご愛読いただきました蔵重俊男さんのシリーズは残念ながら今回で最後となりました。駒大苫小牧高校野球部と香田監督の10年間の歩みを丹念に綴った『深紅の旗は我にあり』の著者である蔵重さんのご了解を頂いて2年半の長きにわたり『深紅の旗は我にあり』を当WEBに連載させていただきました。これがきっかけとなり、人気のエッセー・コラム「読書雑感」シリーズでもその後の駒大苫小牧高校野球部激動の時代、甲子園を目指した子供たちと周囲の様々な人々の姿を伝えていただき、またビタミン・シリーズ「出会いの中で」では、そうした人のつながりの大切さを身近な肉親や香田元監督との人生の日々として書き続けていただいたものでした。これらは、一貫して苫小牧駒澤大学建学の理念「行学一如」を敷衍する作品群でもありました。ここに、蔵重俊男さんには心からの感謝お礼を申し上げるとともに、多くの読者の皆さまにも心からの感謝を申し上げます。どうかこれを機会に蔵重俊男さんの全作品を再読していただければ、と思います。読者の皆さま、本当に長い間ご愛読ありがとうございました。

■筆者プロフィール
蔵重 俊男 KURASHIGE TOSHIO
住  所: 苫小牧市新明町4丁目20番13号
連 絡 先: 0144-55-5069
生年月日: 昭和25年6月20日
出  身: 厚真町
厚真中央小学校・厚真中学校・苫小牧工業高校・昭和44年卒業
大昭和製紙(株)本社鈴川工場(S44年4月〜47年12月)
蔵重自動車(S48年1月〜59年12月)
苫小牧スバル自動車(株)(S60年1月〜)
北海道スバル(株)中古車部部長(現在に至る)
趣  味: 野球鑑賞・少年野球指導者・少林寺拳法

上へ移動↑