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「五穀豊壌記」に続き、阪崎さんの新シリーズも月1回でスタート致します。
筆者の阪崎さんは70才になりますが、気力ますます充実。今年ラジオのパーソナリティーとしてデビューし活躍を始めております。また、美術解説者試験にも見事合格し、道立近代美術館で絵画に関しての解説の社会活動もされております。
新シリーズ「3ミリメートルの悦楽」は、読む力、理解し考える力、行動する力を読書と本を通して鍛えることを提唱するものです。言わば毎日継続するそれぞれの1ミリメートルを積み重ね“1日3ミリメートルの前進を喜ぶ”大切さを考えて頂きたいと思います。きっと明日はもっと良いことがありそう!と感じられることでしょう。
どうぞお楽しみに。

3ミリメートルの悦楽

■3.「死にとうない」 仙がい和尚伝  さかざき けんじろう

阪崎 健治朗第1章 「わしは死にとうないのう」

 やがて臨終が近づいたと感じた枕頭のものが、目を閉じ、横になっている仙がい和尚に顔をくっつけんばかりに身を乗り出して最後の言葉を聞こうと懸命に耳に手を当てていた。
 「お言葉を!」。
 天保8年(1837年)、今臨終の床にある僧侶は、隠居した前住職の住む虚白院という寺でもなく粗末な一軒の農家のような家の一室で静かにそのときを待っているかのようだった。生死の境をさまよう高僧は死を前にして、夢うつつの中で空をつかむような表情を見せた。隣室には多くの檀家はもとより信奉していた周囲の人や、僧に愛された村の人たちが、まもなくその悲しみと出会う場面に別れを惜しむべく集まって手を合わせていた。中には、和尚の人柄をしのんで、むしろにぎやかに送ろうという村の人々の思いも込めて入りきれない人、人、人だった。この僧侶こそ、仙がい和尚その人である。

 88歳、まさに大往生を前にして、仙がいの内に去来するものはなんであったろうか。四国の猿より醜いと「四国猿」と揶揄され、親から捨てられ、蔑まされた悔しかった若きとき、目をかけてもらった指導高僧の呼びかけにも反骨し、断ち切れない煩悩と闘いながら、さすらいの修行を続け、生きていることの意味さえ見つけられぬまま己の命を谷底になげうって助け出されたことなどなど、心を横切っていくのであった。そして今や異界への道を歩みつつ、悟りを開き、やっと仏の世界にたどり着こうとしている。自らの時が閉じるのを待ちつつ、次々とよみがえってくるのであった。
 目から一筋の涙が流れた。思し召しによってもう一度生きよと聞き、再び仏に身を託し、九死の中でよくここまで生きてきた。その涙の表情はうすら笑いのようにも、また最後の痙攣のようにも見えた。
 いま満たされた生涯を閉じようとして目も見えず、耳も聞こえない静寂の中にさまよう和尚の空を這う言葉といえども、その瞬間の言葉を一言一句漏らさず聴こうとする弟子坊は「師よ、お言葉を!」とせっついた。
ゆっくりと仙がい和尚は口を開き、「死にとうない」と漏らした。
「な、何とおおせられました!」
 弟子坊は愕然としている。大禅師の最期にあるまじき未練執着の妄言、と感じ、師のために思う狼狽も見える。微笑は続いている。その眼裏に、美しい雲の輝きがゆっくり遠ざかっていく。
「ほんまに、死にとうないのう」仙がいは眠るように首を折った。
作家の堀 和久はこの書の最後にそう書いて終えた。

第2章 仙がい義梵という和尚
 
1 生活苦から修行僧への道
 舞台は備前の国博多。今の九州にあり、黒田家52万石の城下町である。
そこにある聖福寺(しょうふくじ)は広大な境内に塔頭が14院もあり、威容を誇っていた寺だが、そこに前住職の隠居所ともなる建物、虚白院があった。その隠居所が仙がい和尚の終の棲家となる。

 しかしこの物語は、美濃からはじまるのである。1768年(明和5年)一人の嬰児が生まれた。一家自体が食うに困るような家庭で望むべくも無く生まれた子が親にも見捨てられ、川に投げ入れることもできず、樹の幹の下に投げ捨てられるように置き去りにされていた。生まれながらにして天涯孤独の身でもあったその幼き人物が、雲水となり、生涯の道なき道を歩み、ついに悟りを得て、仏となった人生を描いた作品である。もちろん全部を語りえないが、作家は一人の和尚を通して、多くの示唆を与えてくれたようにぼくには響いた。

 人は何のために生きているのか、またどのような生き方が大切なのか、そして高僧といえども一人の人間の内にある様々な煩悩をどう乗り超え、克服していくのか、といった誰でも一度や二度考え悩むに落ち込み、死さえも考える人生の道程をたどりながら、かたくななまでに高潔で清貧と正義と豊かな人間性を作り出していく僧侶を克明に書き記され、身の引き締まる思いで通読した。

 仙がい和尚は今の美濃市にある清泰寺から約2キロほどの山奥にある豪農の作男の三男として生まれた。しかしあまりにも貧しい生活ゆえ、親からも捨て去られた身であったが、「助くる者は助く」のとおり、清泰寺の住職空印円虚はこの不憫な小僧を見出し、万事に気がつき、将来に見込みを感じて自寺清泰寺につれてきて、義梵(ぎぼん)と名づけた。他の小僧の仲間に加えると、以前にも増して陰日向なく働き、その上、向学心に燃え、知力も増していった。
 小僧として出入りするようになった義梵は、厳しい修行に明け暮れしながら、人のいやがる作務を進んでし、夜は経典を読むことを自らに課しての生活を続けていた。

 貧しいがゆえに食べていくだけの財がなく、いっそ踏み潰されてこの世の亡き者であったほうが、と何度も反芻しつつ、そのことが起因して自らを卑屈にし、反抗心を生み、妥協を赦さず、あえて苦難の道を選び取る日々を送る。
 人は幼い時から人間としての尊厳を受けないまま、足蹴にされるような日々を送ると、そのまま心の傷として残るのは今も昔も変わらぬことでもある。
 義梵は、しばしば過去をそして今を思い、人の目に付かないところで、何度も涙するほどであった、という。容貌は決して美男とは口が裂けてもいえない、成人しても小坊主に見まがうような人物でもあった。毎日お寺に来ては暴れん坊のように振舞い、いつも誰かからいじめられてきた。「生まれそこない」とまで蔑んで見られた小僧はそれでもぐっと耐えながら他の僧についていった。寺では毎日のように僧たちは荒行に勤しんでいた。ある者は、長者のようにねり歩きながら、経を唱え、ある者は険しい岩場で黙然と座禅を組んでいる。まだ名もなき一人の若き雲水に過ぎなかった。

 しかし、空印和尚は義梵の誠実さと勤勉さから公式に坊主としての修行をすすめ、11歳で空印和尚によって得度し、剃髪をすませ、兄僧の仙圭の仙と_をもらい、以後仙がい義梵と命名されたのである。和尚の進めにより、さらに磨くには自らの寺を離れ、もう一段階上の修行を積むがよかろうと、自らの指導僧にあたる高名な月船禅僧のところにいくよう紹介状を持って寺を出て行く。1年後、身も心もぼろぼろになって転がるように今の横浜あたりの東輝庵に着く。義梵12歳のときのことである。
 しかし、月船禅僧を慕って参禅する雲水は多いのだが、高僧は誰とも合わないことで有名で、同じように義梵などには目もくれなかった。不屈の義梵は、あわせていただくまでは、と頑として動かず、せっかくの紹介状も役に立たず、会わぬ日が幾日も続いた。義梵にとってはおめおめとこのまま故郷には戻れない。いや帰りたくないのだ。あの陰惨な場面を思い起こすと。何をされようと我慢して耐え忍ぶだけであった。次第に老いゆく高僧との対話のないまま26年の歳月が流れていく。先輩僧とは違って、相変わらず勉学を摘み、法器学識は他を圧し、托鉢や作務も真心から実践し、ついに、月船禅慧から許しを得て東輝庵での僧侶の生活を始めたのである。

2 煩悩と闘う義梵
 しかし、月船禅慧の言葉は厳しいものだった。義梵は思い上がりに気がついていなかったのである。時には禅問答が自分の力や知識を完璧なものと思い込み、もう学びは終わったという思い上がりが、大きな落とし穴になることに気づいていく。
 義梵はまさに直面する。だれもが一寺の後継者にふさわしいと思ってくれていると思った自惚れが禅慧の答え『梵、われらはの、おぬしを大木とみておる。目の前の小事に動ぜず、大きく、大きく、羽ばたいて欲しい。自重しませえ』という戒めに愕然とする。
 どこかに欲を捨てきれていない自分があり、自分の今までが何であったのか、修行の意味はなになのか、行き詰ってしまった義梵は、自らの一切を捨て、再び一から出直す決心をする。そして東輝庵を離れ、一介の墓守の生活から始めるのである。煩悩と絶望の闘いを挑み、悟りを開くまで、敢然と墓地にこもってしまう。
 時には近くの農家を手伝い、百姓和尚とまで言われながら、修行を積むが解脱することができない。悶々とする中、閑居はまさに不全をなすというとおり、世の煩悩の誘惑に近づいていく義梵の姿があった。 
 義梵に掛けられた諭しは、自分の力におぼれることなく、赦されてその道をめざした人でも、一人では決して生きていくことはできない。誰かの手を借り、助けを受け、自分を引き上げてくれる庇護の力があって生をまっとうできるものだ、ということだったのだ。 同時に自分自身もその力にこたえていく自助性や自立性がなければ和尚のような生涯を送ることはできないだろう、と。
 終生の師である月船老師は、威厳を保ち、民のために祈り、多くのことを教え、仏の道を説いた偉大な僧正でもあった。それは老師の後姿から学び取るものであった。

第3章 多くの禅僧との知遇

1 栄達の僧侶に従わずわが道を選ぶ
 やっとの思いで月船老師との面会を赦されたものの、何一つ直接教わることはなかった。師の指導を受けた僧侶たちは次々と一寺を与えられて赴任していくが、そのたびに自分と一緒にと声を掛けてくれる先輩僧の誘いやも固辞し、あえて苦難の待つ道を選び取り、独り長い行脚の旅に出て行ってしまう反逆児義梵であった。羞恥と自責の思いが去来し、全ての業が煩悩を超えるものになって行かない焦りも重なり、もう後は自分の好きな生き方しか道がないと決めてかかり、厳しく長い旅に身を焦がす日々になっていく。それは想像を絶するような地獄との戦いのような日々であり、まさに地獄はあの世にあるのではなく、この世にあるのだということをしる。乞食坊主がみたこの世は生きることのどんなに大変かを身をもって見聞きするのである。それは義梵ばかりではない。
 村々に住む一市井人もまた同様に貧困と天才によって、地獄の世界に住んでいたのである。
 そんな中、美濃のふるさとの清泰寺では、後任住職問題が起き上がっていた。生ける屍のように転がり込むように戻ってきた愛弟子の義梵を何とか清泰寺の後任に推挙したいと考えていた住職空印円虚ではあったが、義梵の行状や家庭の問題など檀家たちは受け入れようとはしなかった。それと知った義梵は老師への甘えや11歳で得度した清泰寺に対する思いいれなどが、まだ自分の中にあり、無虚の心境ではないことに気づき、時は冬、しんしんと静かに白く塗りつぶしていく村の中を「和尚、何とぞ、自分のことはご放念くださいますよう・・・」と言い残し、再び行脚に出て行くのである。老師は細い体の義梵の身体を抱きしめ、「梵よ、水の流れのように生きよ。時期を待つんじゃ。わしの、たのみぞ」と無門庵に行くようにすすめる。老師の目からとめどなく涙が流れ落ちていた。

 たどりついた無門庵には乳飲み子を抱えた親子や行く当ても無い人々が寺を占拠していた。しかし、義梵はこの無宿者たちを快く受け入れ、共に生活を始めるのである。義梵の穏やかさが少しずつ見えてくる。聞きつけた藩庁の役人たちは破戒僧がいるという評判を聞いて寺を壊しにかかる。しかし藩の役人が変わったことによって状況が一変し、熱いもてなしを受けるようになり、それらを全て無宿者に与えながら、再び義梵は一人旅に出て行く。父と仰ぐ空印円虚がせっかく与えてくれた安住の地を離れ、乞食僧になってしまった。38歳になっていた。時はもう春になり桜が満開になっていた。

2 師との別れと悟り
 時が過ぎ、ふと気がつくと、父と仰ぐ空印和尚もすでに80歳を超えていた。
 しかしよく考えてみて、「もはや、名利は不要、恥も外聞も、虚飾も、履歴を捨て、」『本来無一物、これじゃ』と再び和尚の下においていただこうと跳ぶように走り帰る義梵だった。
 だが、無念なことにその徒路和尚が天寿を全うしたことを聞く。それは2ヶ月前のことだった。和尚の夢がそうあったのか、と思い返し、生きる望みを失った義梵は自らの命を絶つ。しかし、仏の手の内にあった命はこの世に残ったのである。
 美濃の山中の谷底めがけて投身してから一月がたち、鎌倉の円覚寺に身を横たえていた。そこには栄達した兄僧がいた。喜んだ兄僧は「おぬし、やったな」と義梵が悟りを開いたことを見抜いたのである。義梵はただにこにこと微笑むだけで応答した。長い旧交を温めながら、過ぎ行くことを互いに感歎相照らした。6歳年長の法兄は誠拙周樗(しゅうちょ)。ずっと再会を願っていた兄僧であった。「このからだ、和尚にお預けいたします。」といい、その前に厳しいが慈悲の豊かな今はなき月船禅僧のいた東輝庵に立ち寄ることの許しを乞い、出立する。そこには完全に視ることを失った物先和尚が待っていてくれ、一声義梵が「和尚・・・」と声を掛けただけで、「・・・梵か」と返してきた。
 優しく声を掛ける和尚の目は緩やかに動くが、白く見えた。しかししっかり心の目で義梵を見つめ、両手で抱きしめるのであった。見えない和尚の目から涙があふれ落ちていた。「いまは心穏やかでございます」という義梵はようやく水の流れのように、その身を委ねる思いが自然にわいてくるのであった。

3 「まず人間が」と銘ずる仙がい義梵
 長い逗留の東輝庵の中で、和尚から九州の筑前聖福寺という日本で最初の禅寺院の後任にとの推挙があった。「はい、・・・・お心のままに動きまする」と応える義梵。こんな暴れ坊主のことを見えないところで兄僧たちが何かと案じ、道を作ってくれていたことに深い感謝の念を押さえることができなかった。いよいよ一寺を負かされることになる。夢のような栄達である。手続きのために京に上る。
 煌びやかな京の大本山は義梵にとって、決して好もしいものとは映らなかった。 むしろ信心を求める人々のことで頭がいっぱいであったに違いない。到着するまで旅行脚の姿のままであった。1192年(建久2年)に栄西が宋国より帰朝して建てたといわれている由緒ある寺であったが、それにしてはあまりにも大本山と違い、みすぼらしく荒廃した寺であったのに愕然とする。仙がい39歳。住職は75歳の盤谷和尚。
 共に年の開きと身分の相違を越えて深々と頭を下げ、一瞬にして相契なったのである。1787年(天明7年)初めて仙がいに聖福寺の話があってから、正式に法燈を受け継いだのは天明9年のことである。11歳の得度剃髪からちょうど40年がたっていた。5末寺、14塔頭を含む一山の僧は100人に近い。黒田藩重臣を初めとする檀家も多い。儀礼規則を最も嫌う仙がいにとって様々な手続きがうるさくてわずらわしい。そうしたことをしっていた前僧の盤谷和尚は、何一つ気を使わず、蛮勇を奮って山内粛正をと言い残して、隠居庵に移ってしまった。

 いまでいうやる気の無さと怠惰な僧たち、荒れ果てた寺院を目の当たりにして、再興するには、自らが率先垂範して作務をおこない、その間経典をあげ、托鉢も行い、まさに怒涛のような勢いで取り組んでいくしかないと決意する義梵の姿があった。かつて自らに課してきた厳しい修行の数々をこの寺でも実践し、鍛えに鍛えた。そして「去るものは追わず」と徹底して蛮勇を奮った。「まず人間、それから建物じゃ」と朝から夜まで、修行に明け暮れた。それでも寺を維持するまでにはまだまだ時間を要した。托鉢をしたり、寄進を願う業など数々の改革の手立てはむしろ威容を誇る寺を持つ地元民にとって恥さらしであり、やがて和尚の排斥運動まで広がっていった。しかしそれでも屈しなかった。それどころか独りの僧も逃げ出すものもいなかった。
 5年が経過した。次第に仙がい義梵の名は広がり、教えを乞う若僧が後を絶たぬほど集まるようになり、一言和尚の話を聞きたいという人々が増えていった。

4 生涯を黒衣で通す
 1798年(寛政10年)大本山から仙がい義梵に法階昇進の知らせが来て,黒衣から色衣を着る資格を与えるというものだった。紫衣は内定しているので京に来て受け取るように、との連絡を受けたが、仙がいはこれを拝辞した。
 聖福寺にはやがて堂々とした禅道場ができ、誰でも出入り自由にし、ここを樹下之居とした。
 その一方で一向に上洛しない仙がいに業を煮やした大本山では福岡藩庁に手を回して上洛を促したが、義梵は、そのために必要な経費の捻出はできないと丁重に断ってしまう。このことは、暗に仏法にあるまじき不正の温床ともなっており、上洛の費用、就任のための経費、そして法衣の費用など300両も必要とし、それは大本山の大きな収入源でもあったらしい。それに義憤を感じた義梵の抵抗でもあったようだが、いつの世も政治や宗教の世界に及ばず、あらゆる機関が大小の差はあれど、きな臭さは今もかわりはない。人の欲は消え去ることの無い人間の業を示しているように思える。「まず人間。」このことを肝に銘ずる義梵であった。

 すでに55歳を数えるまでになった仙がい義梵は、唯一つ心残りは後継者の問題だった。今ひとつ帯びに短し、たすきに長しといった法主ばかりで悩んでいた。
 しかしそこに信州諏訪湖畔から西下した湛元等夷という荒法師のような26歳の気鋭の僧侶が仙がいを慕って入門してきた。しかし果敢に禅問答に挑み、周囲を困らせる僧侶だった。「ほおっておきんしゃい」という義梵はほとんど相手にせず、なすがままにさせていた。湛元の寺での生活は勝手気ままなものでしたい放題のことをする気違い沙汰の振る舞いで追放という声さえあった。
 議論のための議論は禅問答ではないと義梵はあしらっていたが、その中に何かを見出そうとしていたのである。どんな法規に反していても、まるで無視する和尚の態度に湛元自身が心の焦りを見せるようになった。
 ある雪の夜、こっそり女遊びをして帰ってきた湛元が塀を越えて足を下ろそうとしたその足の裏につるりとしたものを感じ、どさりと寺のうちに落ちた。
 和尚は自らの頭に積もる雪を払いのけることなく、湛元の帰りをじっと待っていたのである。「あっ」と声を上げたときは和尚の頭の上に自分の足を載せていたのである。義梵はこのとき湛元が解脱を得たと感じたのだった。
 その後の2年間は諸寺の師をたずね、峻烈な学業を終えて聖福寺に戻ってきた。見違えるほどの威厳と説法の内容の深さと説得力を見につけ、周囲に畏敬の念さえ抱かせるまでに成長していたのである。
 仙がい義梵も62歳を迎え、藩庁へ退職願を出し、湛元等夷に法燈を譲り渡したのである。仙がい義梵在任22年、就任した湛元等夷は32歳であった。全てを終えた仙がい義梵は翌年虚白院に移った。

第4章  虚白院
 1837年(天保8年)病床にあった仙がい義梵は夢うつつの中で過ぎ去った出来事を走馬灯のように消えては映りしていた。ひっきりなしにやってくる老若男女を相手に話をしたり、遊んだりしながら余生を送っていた。しかし思わぬ出来事が起こった。住職の湛元等夷が舌禍事件を起こし、黒田藩流刑地・大島に流され、急遽仙がい義梵が応急処置として復帰再任したのである。88歳になった義梵にとっては耐え難い激務となった。
 もう起き上がれないほどの衰弱を見せた仙がい義梵は次第に遠のく耳に入る音、霞んでくる目。気力も体力ももう回復することは無いと思った。長い人生だった。和尚を慕う人々が病床の隣の部屋にあふれんばかりに集まり、時には嬉々とした声を上げつつ、和尚を励ましていたが、やがてほとんどみんなの声が聞こえなくなった仙がいは白衣を出させ、襖を閉じさせて白装束に着替えさせた。半身になった仙がいは今禅僧が書き残す遺偈(ゆいげ)を書こうとして筆を取った。
   来時知来処  去時知去処
   不撤手懸崖  雪深不知処
(来る時来る処を知り、去る時去る所を知る。懸崖に手を徹せず、雪深くして処を知らず)と花押を記して倒れるように床についた。
 仙がいは「みんないつものとおりじゃな・・・・」と微笑んだ。
 「死にとうないのう」との言葉を残して仏の下に逝った仙がい義梵の人生は何であったのか。人生の終焉に人は何を思うのか。もしかして悟りなどはなく、人は生きてこそ意味があり、地獄も極楽も味わい、また人と人との間に人は生きているということを学ぶのが生ではないかと思わしめる。
 同時に私たちの間で決して赦さなかった者さえ許しに加え、それが穏やかな心に広がるのかもしれない。義梵さえ、あの生誕の親の取ったことを思い返すだけで赦しがたいと思いつつ、それでも自分を生んだ親にはちがいない、と考え戒名と供養を描く。 
 雪の降る初冬の冷たさは人間の冷たさにも似てはいるが、しかし、悴(かじか)んだ手を揉みながら温めてくれる大勢の人々のぬくもりがあり、人の助けによって自分が生かされていることを自分が苦悩すればするほど知ることができる、と感じられる。人生というのは決して独りではない。一生というのは、過去の半生があってみえてくるもの。未知の人生はその半生から導き出されていくものだ、とぼくは思った。

 この作品は、私たちに人生をどう送ればよいのか、を深く教えてくれた。
 ぼくにとってこの感想文は、どうしても作家の多くの文体を選ばせてもらわなければ、読者に伝わらないとの思いで多用させていただいた。ぼくは仏教の世界は知らないが、人生の厳しさこそ信仰の厳しさとも重なるように思えたのである。
※仙がい和尚の「がい」は「涯」のさんずいを取った文字。

著作名:「死にとうない 仙がい和尚伝」 著作者:堀 和久 著作年:1990年9月30日(新人物往来社)



阪崎健治朗HP http://www16.ocn.ne.jp/~com212/


■筆者プロフィール
阪崎 健治朗 SAKAZAKI KENJIROU
生年月日: 1935年(昭和10) 12月25日
学歴: 日本大学文理学部英文科(通信)卒業
職歴: 中学校教諭を経て、神戸・北九州・富山・日本YMCA同盟北海道の各YMCA勤務。その他、大学の講師として「集団組織論」、「基礎作業学レクリエーション演習」、「国際ボランティア論」、「国際関係論・国際交流論」等を担当。
社会活歴: 人間講座主宰(ロビンソンデパート)
研修歴: 感受性訓練(JICE)、交流分析(TAT)受講。
著作: 「職業と人間形成」(共著)(日本YMCA同盟出版)
「神戸とYMCA百年」(神戸YMCA)
「ボランティア論」(青葉書店)
「国債理解 重要基礎用語300」(共著)(明治図書)

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