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「五穀豊壌記」に続き、阪崎さんの新シリーズも月1回でスタート致します。
筆者の阪崎さんは70才になりますが、気力ますます充実。今年ラジオのパーソナリティーとしてデビューし活躍を始めております。また、美術解説者試験にも見事合格し、道立近代美術館で絵画に関しての解説の社会活動もされております。
新シリーズ「3ミリメートルの悦楽」は、読む力、理解し考える力、行動する力を読書と本を通して鍛えることを提唱するものです。言わば毎日継続するそれぞれの1ミリメートルを積み重ね“1日3ミリメートルの前進を喜ぶ”大切さを考えて頂きたいと思います。きっと明日はもっと良いことがありそう!と感じられることでしょう。
どうぞお楽しみに。

3ミリメートルの悦楽

■4.「永井 隆  長崎の原爆と闘う」  さかざき けんじろう

阪崎 健治朗 今、「永井 隆・長崎の原爆に直撃された放射線専門医師」を基に書こうとしている著者永井 隆のことについて、どれほどの人が心にとどめているだろうか。刻(とき)が60年を経ても決して私たちの脳裏から消し去ったり風化させてはならない人物である。ある意味で歴史の証人であり、世界で唯一の原子爆弾に被爆した一人としての悲痛な叫びの記録でもある。作者でもあり隆の長男でもあった誠一は、2000年5月1日、死後50年回忌を記念して出版した著書がそれである。1951年5月1日父隆はいくばくもない命を床に横たえ、当時16歳の誠一と10歳の妹茅乃に最期を看取られながら、遂に命脈を閉じた日でもあった。永井 隆博士、強度の被爆が誘引した結果の慢性骨髄性白血病であった。43歳で閉じた。
 作者の永井誠一もまた、この著を書き残すのを待つかのように2001年4月4日父隆と母緑の懐に逝き、憩いを取っていることだろう。

 1945年8月9日午前11時2分、閃光が長崎を貫いた。一発の原子爆弾は6日に被曝し阿鼻叫喚の消えぬヒロシマのわずか3日後再び同じ運命を与えたのである。人を溶かし、山を丸裸にし、建物は跡形もなく瞬時に消滅させ、昨日までの活気に満ちた町はどこへ行ったのか、だれの記憶にすら思い出せないほどの狂乱の極に陥れた。
 この「永井 隆・長崎の原爆に直撃された放射線専門医師」を書き残した長男誠一(まこと)は父が病床で被爆の後遺症で苦しみながらも後世のために多くの書物を残していく姿を見て、病気との闘いはもちろん、これほどの被害を与えた戦争に一部の利も正義も存在しないことへの怒り、そのことを足場にして平和とは何かを提起した父の執念を世に問おうしたのではなかったかと、ぼくは信じている。

 博士はいよいよその日が近づいてきたとき、自分の書斎としてきた「如己堂」から戸板製の担架に乗り、静かに長崎医大病院に運ばれていった。熱心なカトリック信者でもあった博士は、突然大きな声で、「イエズス、マリア、ヨゼフ、お祈りください」と叫び、息を引き取ったという。博士は最後までキリストの忠実なしもべとして神の意志に全てをゆだね、神の下に帰っていったのである。
 この著書は、全体の構成を8部に分けられ、第1部の「島根時代」から第8部の「灯は消えず」と年表までの父として、また医師として、そして被爆者として生涯を賭して書きつづられた事実を約500ページにも及ぶ大作にしあげた。それでもなお言い足りないことがあるに違いないと思われるが、これは単に父としての伝記ではなく、一人の人間が最後に目を閉じるまで、その一ページごとに生々しい惨状から死への旅路まで、克明に記された歴史の証人の記録であることを忘れてはならない。読む私たちは胸を熱くし、怒りに震わせ、帰らぬ命の尊さを今の世界にも分かち合うべき心深い書物である。ここでは全てを紹介することはできないので、ぜひ手にとって読んで欲しい。

 永井 隆は島根県松江の出身で父もまた医者であり、いまでいう地域医療に熱心で最後は診療中に白衣を着たまま倒れ、息絶えた医者でもあった。
 その父の後姿はいつの間にか、息子隆にも心打つものがあり、まったく縁もなかった長崎大学医学部に進む。しかし、学生時代に激しい雨中に打たれ、それが基で医術学習に困難をきたしたが、内科医としての進路を立たれた隆は小さな未整備な放射線科の勉強を重ね、そのことがかえって博士の命を縮める結果となり、すでに慢性骨髄性白血病、余命3年と宣告される。
 しかし不屈の精神は、自らの体験を診断しつつ放射線治療の有効性を開発し、次第にその立場が重要になっていく。

 博士にとってもう一つの重要な人生の指針は神の御意(みこころ)に忠実に従うということだった。自宅近くにあった浦上天主堂から心和む鐘の音を聴くうちに、神をキリストへの道へといざなうのである。時間があれば教会の集会に出、祈りを捧げ、へりくだった思いをいつも失わないように努めていた。
 医師であるがゆえに被爆しても診療にあたる毎日はそれが当然の勤めとはいえ、自らの苦痛と他者の苦悩とを重ねあわせ、他者の痛みも自ら負いながら過ごしていったといえる。
 爆心地からわずか700メートルのところにある長崎医大の研究室に他の医師や研究生たちと共にいた。「そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も吹き飛ばされ、未来も壊されてしまった。見ている目の前でわが愛する学生もろとも一団の炎となった。わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわがやの焼け跡から拾わねばならなかった。台所で死んでいた。私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定より早く廃人となりはててしまった。」(永井 隆著「この子を残して」より)淡々と状況を解説する博士ではあったが、被爆後1年半献身的に治療に当たった。だが、ついに矢折れ、病院から離れ、焼けた家の後に小さな部屋をつくり、「如己堂」と称してそこに身体を横たえながらわずかに残された日々をすごしていた。己の如く人を愛するという意味で命名された闘病部屋だ。

 博士は医者であり、また多くの著作を残している。それは病床に着いたが故ではない。最初に書いたのが、「長崎の鐘」であったようだ。多趣味で、絵画や短歌・俳句などに楽しむ愉快な父であったと長男は見ていた。
 学生時代から聞きなれていた浦上カトリック教会から聞こえるアンジェラスの鐘の音も被爆にあったが、その鐘を1945年12月24日の午前に信徒が掘り起こし、それを急場しのぎで釣るして鳴らした。ミサの知らせとして原子野に響き渡った。その音は生き残った人々がさらに望みを託し神に感謝した奮起への印でもあった。そこから博士は「長崎の鐘」と命名したと長男は言う。博士が最初に書いた本である。

 いまでも多くの人に歌い継がれている「長崎の鐘」は藤山一郎が物悲しく歌い、あのときの惨事を思い起こさずにはおれない心に沁みる歌である。サトウハチロウが作詞し、古関祐而が作曲した名曲である。一番のみ紹介する。

こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る


 著者の誠一(まこと)は長崎生まれ、時事通信社に勤め海外勤務を経て父の記念館の館長をしていたが、2001年4月4日、父の下に逝った。その誠一が冷静に父を見つめ、改めて父の死後の歩みを見直し、常に戦争のない平和を希求していた思いを後世への遺産として残そうとしたことだろうが、ちょうど父隆の50年回忌を完成するのを待つかのようにして完成後まもなくこの世を去ったのである。

 60年という刻は、決して長くはない。しかし、人の思いから消え去るにも早い刻でもある。今の政治社会の現状を見ていると、もう風化の兆しさえ感じる。この60年というのは歴史とはならない。それは昨日の出来事と同じ近さなのである。おぼろげに思い出すような時間ではなく、あの日のことは事実なのだ、という意識をもつことが大事である。昔そういうことがあった、というような軽いものではない。世界で最初にこれほどの大量の被爆患者を出した国はどこにもない。わたしたちは悲しく苦しく、辛く、そしてそこから派生する様々な問題、差別や人権、保障、そのほか、被爆者本人だけの問題ではない。
 瞬時に起きた広島・長崎の大量殺戮行為は、日本だけの問題にしてはいけないのである。受けたがゆえに戦争が終結したと主張する人々が現にいる。しかし、それは正しくない。その苦しみは世界の苦しみでもある。

 今日、再び核を持った国、持とうとする国、使いたがっている国、国際社会にとって1945年8月6日と9日はどのような意味を持っているのだろうか。日本の為政者も含めてだ。この書を悲しんで読んではいけない、とぼくはおもっている。怒りと何かを創めるという思いで深く読み進んで欲しい。永井 隆博士はこのような詩を残している。

ほのお燃えつくして 満月荒涼
地殻あらわにて 太古に似たり
日は照らせ 影なす一物もなし
風は吹け 枝ならす木はあらず


とり残されし悔い心
胸を打ちつつ灰の中
悲しき君に名を呼んで
冷たき骨を拾うかな
永井 隆

永井誠一著「永井 隆・長崎の原爆に直撃された放射線専門医師」
2000年5月1日発行・発行所 サンパウロ



阪崎健治朗HP http://www16.ocn.ne.jp/~com212/


■筆者プロフィール
阪崎 健治朗 SAKAZAKI KENJIROU
生年月日: 1935年(昭和10) 12月25日
学歴: 日本大学文理学部英文科(通信)卒業
職歴: 中学校教諭を経て、神戸・北九州・富山・日本YMCA同盟北海道の各YMCA勤務。その他、大学の講師として「集団組織論」、「基礎作業学レクリエーション演習」、「国際ボランティア論」、「国際関係論・国際交流論」等を担当。
社会活歴: 人間講座主宰(ロビンソンデパート)
研修歴: 感受性訓練(JICE)、交流分析(TAT)受講。
著作: 「職業と人間形成」(共著)(日本YMCA同盟出版)
「神戸とYMCA百年」(神戸YMCA)
「ボランティア論」(青葉書店)
「国債理解 重要基礎用語300」(共著)(明治図書)

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