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「五穀豊壌記」に続き、阪崎さんの新シリーズも月1回でスタート致します。
筆者の阪崎さんは70才になりますが、気力ますます充実。今年ラジオのパーソナリティーとしてデビューし活躍を始めております。また、美術解説者試験にも見事合格し、道立近代美術館で絵画に関しての解説の社会活動もされております。
新シリーズ「3ミリメートルの悦楽」は、読む力、理解し考える力、行動する力を読書と本を通して鍛えることを提唱するものです。言わば毎日継続するそれぞれの1ミリメートルを積み重ね“1日3ミリメートルの前進を喜ぶ”大切さを考えて頂きたいと思います。きっと明日はもっと良いことがありそう!と感じられることでしょう。
どうぞお楽しみに。

3ミリメートルの悦楽

■5.「あそびにおいでよ」  さかざき けんじろう

阪崎 健治朗1.ちょっと手にとってみて
 確かなことは忘れたが、3年程前だったと思う。ある知人から1冊の本をいただいた。 「あそびにおいでよ○茶木豊子からのメッセージ○」と書かれた200ページ足らずの本だ。表紙には、あふれんばかりの笑顔を周囲の人にふりまいている豊子さんの顔写真がデザインされていた。それは熱い光となって私の目に飛び込んで来た。お礼をいいながら財布を取り出し本の代金を支払おうとポケットに手を入れかけたが、知人は首を横に振り遮るように「いいの、いいの、その代わり読んでね」といって本代を受け取ろうとはしなかった。 
 読み始めたが少し読んでは休み、また続きを読んでは休み・・・とうとう最後まで読み終えずにいた。だがこの本が妙に気になっていたのも事実だった。知り合いの中に障害を持ちながらも目標をしっかり見据え、様々な問題や困難を克服して生きている人が何人もいるからだ。ふとそうした知り合いの何人かの姿を思い浮かべ、今も元気にがんばっているのだろうな!と考え始めた時、ごく自然に、また「この本」を手にしていたのだった。
 本の帯にはこう記されている。「茶木さんが逝ってもう2年!! 動かすことのできたのは、左手指をほんの少し。重度の障害をかかえ電動車いすに乗り、明るく活躍し、地域で生き抜いた茶木さんからのメッセージ」とある。始めの数ページに、豊子さんがボランティアに支えられながら、楽しく、時には辛く悲しく、そしてまた事実苦しかったであろう日々の中を懸命に生きている強い息遣いが伝わってくる写真が載っていた。 
 今度は神経を研ぎ澄まし、からだ全体で読み終えた。

2.障害者だってニンゲンだ、恋もする
 出だしがチョット面白い。「読んでくれる皆さんへ」というタイトルの冒頭はこんな文章から始まっている。「1986年は私にとって、記念すべき年だ。私が死ぬほど憧れた『一人暮らし』を始めた年だからだ」。もうちょっと読み進もう。「あれから十年たつ。一人暮らしは私に、自由と、そしてたくさんのすてきな友達をプレゼントしてくれた。障害者だってニンゲンだ。一人で考え事をしたい時だってある。こっそり泣きたいときもある。好きな人と、交わした言葉を思い返して、にやにやしたい。夜遅くまでテレビを見ていたい。お酒だって飲みたい。幾人かが一つ部屋で暮らさなければならない施設には、健常者が当たり前に持っている自由がなかった。便利で、安全かもしれないけど、ただそれだけだった」と。
 普段の生活の中でわれわれにとって「自由」という言葉は、まるで空気のような存在である。特別に意識して深呼吸し、その存在を改めて感じるようなことがないのと同じで。
豊子さんは「障害者だってニンゲンだ」と言うのだ。叫びに似た心の内は、もしかすると、ぼくたちの無神経さを痛烈に指摘しているのかもしれない。長い間公私にわたり障害を持った方々との交わりをしてきたにもかかわらず、自由という言葉の重みを豊子さんたちが受け止めているほど深くはなかったと改めて思う。年譜に障害者に対する国や地方自治体の取り組みや関連の法律と内容、それに関係したイベントも掲載されているが、どうも日本は世界から見ると一歩ずつ遅れ、時代からずれているように思えてならないのだ。同時に、残念ながら障害者のことや高齢者の暮らしが、未だに私たちの日常の中にしっかりとは存在していないことに気づく。
 豊子さんは恋をした。13歳の初恋だ。遠足で円山動物園に行ったとき、先生におんぶされながら動物を見てまわる。そのとき『好きだ』という気持ちを書いて先生に渡したら、先生の返事は「字がわからなくて、なんて書いてあるのか読めません」と答えた。無理もない。口に鉛筆をくわえて書いたのだから。
 でも正直で一人の人間として当たり前のように扱ってくれた先生をますます好きになっていく豊子さん。そのことが後の彼女の人生観や人間を見る目を作り上げるきっかけでもあったと回顧している。この思いは豊子さんだけのものではない。誰でも人を好きになったり、恋心を抱く異性がいても何も不思議なことではない。当たり前のことだ。その当たり前のことを一生懸命考え、心の葛藤に打ち勝ち、勇気を振り絞って行動に表す。私たちとどこが違うと言うのだ。彼女らの心の内面を理解出来ていないことに、ぼくは「はっ」とさせられた。

3.茶木豊子さんのこと
 豊子さんは1947年6月10日、北海道士別で3人目の子供として生まれた。しかし先に生まれた二人の姉は一日もたたず逝ってしまった。それだけに三女の豊子さんには健康でしっかり育てたいと思う両親の切なる祈りが加わっていたに違いない。
 彼女は「母は私を箱で育てた。大きな石を二つ、温めて布でくるむ。箱に入れ、石の間に私を寝かせる。今で言う保育器」の中で育てられていく。5ヶ月を過ぎたころに高熱が続き、母親は必死でいろんな病院に連れて行くが、病名がわからないまま時が過ぎて行った。「脳性小児マヒ」と診断を受けるまでなんと7年もの時間を費やしたのである。だがすでに手や足は硬直が進み、動かすことができなくなっていた。翌年身障者手帳第1種1級を交付される。13歳になって北海道整肢学校に入学、札幌市の琴似小学校分教室に入る。14歳で手術を受けて全身マヒになる。こうした生涯の歩みが更に険しく厳しくなっていく様が年譜に記されていく。15歳で退学し自宅療養に切り替え、自宅学習をする。その後たびたび住まいを変えたりするが、彼女の自立への思いは一層強くなる。そして1986年39歳のときに念願のアパート生活を始めるのである。
 その後の豊子さんの生き方はすさまじいほどの勢いで進んでいく。「街で生きるぞデモ行進」やアメリカにも行き、コンサートを主宰したり、写真展を開くなど、実に精力的に活動を重ねる。しかし、その身体も限界のうなり声を上げていたのだろう。1995年3月、神戸を始め阪神・淡路一帯が大地震で騒然としている中、矢尽き果て入院する。翌年の1996年5月1日、ついに走り続けた歩みを止め、異界に旅立った。49歳であった。「膝の関節が両方とも伸びたままの状態で腰の部分から屈曲し、上体と腰から下がほぼ接着した姿勢である。その状態を何とか維持していることはできるが、ほとんどの間接は固まったままで、思ったとおりの動きがわずかに可能なのは左腕と手指だけで動きもかなり制限される」と障害状況が巻末に紹介してあった。
 波乱に富んだ人生を走り抜けた豊子さんを支えた多くの関係者やボランティアの無念さや悲しさは消えることがないだろう。同時に、生き抜いた49年間に培った友情もまた永遠に生き続けるに違いない。苦難の中にあって豊子さんの周りに集まる多くのボランティアは彼女の重要な一部となっていただろうが、一方それ以上に彼女の陽気で前向きな生き方が照射され、ボランティア自身が成長してきた自分をその時間の中に発見したことであろう。

4.辛く、悲しいことを越えて
 豊子さんには、弟がいる。義明はこのおねえちゃんの面倒をよく見て、一緒に遊んだ。抱きかかえてはソリに乗せたりして、遊んでくれたという。その弟が小学校1年生のとき、作文で「あんな姉はいらない」と書いたことを母から聞き、そのときに味わった悲しみは、ことあるごとに蘇ってくるという。彼女が詩を書き始めていくつかの中に、自分は何のために生まれてきたのかしら、と精神の不安定さを書いている。「父母も 弟たちも きっと このまま死んでくれたほうがいいと思っている」と書置き、「このごろ こんなことばっかり考える 死ぬことばっかり」「今は 私がいないほうが 平和なのではないかしら・・」と。
 彼女の苦しみは深まることが多い。「自分が」という詩はこう書いている。
「じぶんがしあわせだったら 人の苦しみや痛みなど わからない
たいていの人は 自分に痛みや苦しみができてから わかるみたい
それが 身内でもわからないようだ ただの人なら なおさらだ
苦しみや痛みが わからなくっても 無理はない
でも身内の人が 苦しみや痛み(を持っていたら) わかってほしい
いくら自分が幸せでも わかってほしい・・・・」

 豊子さんは多くの詩を書いている。1991年8月28日に書いたカナタイプの詩の一部をご紹介しておこう。
 タイトル 「 私もあなたも 」
 (アメデモ シヨウガイシヤハ,ヤメレナイ,,) アメガ フツテモ シヨウガイシヤハ,ヤメラレナイ,,カサモ サセナイ カツパモ キレナイ ナニガ フツテモ ワタシタチハ,シヨウガイシヤ ヤメラレナイ タトエ クロイ(チルノブイリ) フッテモ タトエ タトエ バクンガ フツテモ フツテモ
ワタシタチハ, シヨウガイシヤ ヤメラレナイ ナイ ナイ デモ デモ ミナサンガ チヨツト テヲ カシテクレタラ シヨウガイシヤデモ アメノトキデモ カサモ サセル カツパモ キレル アメニ ヌレナイ ナイ ナイ
ワタシ ワタシ シヨウガイシヤダ シヨウガイシヤダツテ ショウガイシヤダツテ
ミンナト ミンナト オナジ オナジ ダゾ(オーオー,,)ショウガイシヤダツテ ミンナト オナジ ニンゲンダ ニンゲンダゾ (以下詩は続く)
 この詩の中で、何度も繰り返し、障害者とみんなとどこが違うのだ、と人間であることの大切さを強く訴えている。口に加えたバーで懸命にカナタイプを叩く豊子さんの切々とした心情が伝わってくる。ご紹介した詩はそれでもまだ半分だ。

 茶木豊子さんが逝ってから2年後、多くの豊子さんを愛した人たちの深い追悼と尽きない感謝の言葉に包まれ『あそびにおいでよ』は完成・出版された。
「たくさんのことを与えてくれてありがとう」
著書「あそびにおいでよ ○茶木豊子からのメッセージ○」
発行元 響文社 発行「遊びにおいでよ」出版委員会1998年



阪崎健治朗HP http://www16.ocn.ne.jp/~com212/


■筆者プロフィール
阪崎 健治朗 SAKAZAKI KENJIROU
生年月日: 1935年(昭和10) 12月25日
学歴: 日本大学文理学部英文科(通信)卒業
職歴: 中学校教諭を経て、神戸・北九州・富山・日本YMCA同盟北海道の各YMCA勤務。その他、大学の講師として「集団組織論」、「基礎作業学レクリエーション演習」、「国際ボランティア論」、「国際関係論・国際交流論」等を担当。
社会活歴: 人間講座主宰(ロビンソンデパート)
研修歴: 感受性訓練(JICE)、交流分析(TAT)受講。
著作: 「職業と人間形成」(共著)(日本YMCA同盟出版)
「神戸とYMCA百年」(神戸YMCA)
「ボランティア論」(青葉書店)
「国債理解 重要基礎用語300」(共著)(明治図書)

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