心のビタミン・コラム バックナンバーはコチラ

「五穀豊壌記」に続き、阪崎さんの新シリーズも月1回でスタート致します。
筆者の阪崎さんは70才になりますが、気力ますます充実。今年ラジオのパーソナリティーとしてデビューし活躍を始めております。また、美術解説者試験にも見事合格し、道立近代美術館で絵画に関しての解説の社会活動もされております。
新シリーズ「3ミリメートルの悦楽」は、読む力、理解し考える力、行動する力を読書と本を通して鍛えることを提唱するものです。言わば毎日継続するそれぞれの1ミリメートルを積み重ね“1日3ミリメートルの前進を喜ぶ”大切さを考えて頂きたいと思います。きっと明日はもっと良いことがありそう!と感じられることでしょう。
どうぞお楽しみに。

3ミリメートルの悦楽

■7.「限りなき母の慈しみは深く」
母が語る多喜二の追憶(前編)  さかざき けんじろう

阪崎 健治朗

序 作家三浦綾子への夫光世の一言

夫の三浦光世は1980年ごろだったろうか、ある日綾子に「多喜二の母は受洗した人だそうだね」と何気なく話した。そしてまた「多喜二の母は、息子を殺されて、正しく白黒をつけてくださる方がいるのか、いないのか、どんなに切実にそのことを思ったのではないだろうか。 その切なる思いを何とか書いてほしい」とも話した。綾子はそれから構想を練り、下調べをして完成したのが、1992年の雪深い2月のことであった。全編は、すでに88歳になる多喜二の母セキが、人を相手に自分の心の思いを秋田弁でとつとつと語って聞かせる「一人語り」の回想作品となっている。

その語り口は、淡々としているが、特に30年も前に凄惨な死を遂げた息子多喜二への母の深い愛があふれ、権力への静かな怒りが込められて描かれ、読む者の胸を打つ。三浦綾子は精一杯母の心情になりきって書き、感動のうちに終えることが出来たと「あとがき」に書いている。

作品は上・下2巻になっていて第1章から第7章まで分けて一人語りをしている。

少し長くなるので、前編と後編に分けてご紹介させていただくことをご了承いただきたい。

[ 前編 ] 貧困な中にも固い絆と愛の家庭
1 秋田の貧しい生活に耐えて

母セキはゆっくりと思い出しながら語り始めた。

四月にしては珍しい日ですね。今日は。北海道の四月ったら、もっと寒いもんですけどね。増毛の方の山も、はっきり見えて、海もきれいで、いい日だね。それはそうと、本当にありがたいもんだねえ。わだしはね、再来年は数えで九十になるんですよ。こったら年寄りが、こうしてみんなに、大事に大事にしてもらってねえ。もったいない話です。これもみんな、多喜二があったら死に方ばしたからかも知れないねえ。

そうか、この歳になるまでの思い出ば聞いてくださるか。なにせ、ずいぶんと長い間のことだから、忘れたことやら、うろ覚えのことやら、いろいろあるけど、それでいいのかね、あんたさん。

いまだに抜けない秋田弁で語る母セキは、やむなく秋田から一家上げて引っ越してきた小樽の家での幸せと不幸をない交ぜにしながらも、残り少ない余生をゆったりと受け止め語り始めた。

母セキは1873年(明治6年)秋田県の釈迦内村という小さな寒村の小作農の木村家長女として生まれ育った。夜になるとフクロウが鳴き、その声が妙にさびしく聞こえ、「人間ってあんなふうに鳥の声だの、木枯らしの音だの聞いて、淋しいっていうことを、覚えるもんなんかね。わだし、ぼろ布団の中で背中丸めて、ふくろうの声に聞き入っていたもんだ」と幼き日々のことを回想する。

このあたりの村はどこも貧しい農家ばかり、お互い助け合って生きてきたがゆえに、みんな親切だった。幼少の頃に出会った人は駐在所のお巡りさんでさえ、髭を生やして威厳はあっても、どこか優しさを持っていて、とてもそんなむごいことをする人たちの集まりの一人とは 見えなかった。

わだしは貧乏で、学校に行きたくても行かれんかった。わだしの村は、「釈迦内」なんて、ありがたいお釈迦さんの名前のついている村だどもね、右ば見ても左ば見ても、みんな似たような貧しい家ばかりだった。

学校さ行かれない子守たちは、三人五人とつれ立って、学校の窓の下さ行ってこっそりと先生のお話ば聞いたり、唱歌に耳ば傾けたりしてね。意地悪く赤ん坊が泣き出すと先生によっては、まどから手をば出して、手を大きく振って、追い立てたもんでした。まるで、野良犬ば追うみたいに。

2 母セキの結婚

明治が開かれて日本は近代化の道への第1歩を踏み始めるが、一向に変わらぬ貧乏人はそのまま貧しい家庭を引きずって生きていくしかなかった。セキの家庭もご多分に漏れず、貧しいために学校にも行けず、読み書きも出来ず、ひたすら農家の手伝いをする働き者だった。

中には、貧困家庭は口減らしのために、まだ年かさも行かないいたいけな少女を他家に嫁がせたり、身売りをしたりして生活を耐え忍んでいた時代でもあった。

セキが働き者であるとのうわさが広まり、縁あって小林家に嫁にきたのは、1886年(明治19年)の暮れ、わずか13歳のときであった。

その冬一番の寒い日だった。馬橇がりんりん鈴を鳴らして走り、雪が肌をさし、凍てつく寒さを耐えながら、およそ二里の道のりを寂しさをこらえて嫁いできた。

自分よりもっと貧しい幼い少女が、当たり前のように街に身売りさせられていた時代のなかで、せめてものわずかな幸せなことだった。セキのお婿さんは末松という21歳。背が高く、優しい人だった。

小林の家は先祖代々「多治右衛門」という大きな地主だったから貧乏生活は知らずに育ったが、義父母はちっともえらぶることなく、やさしくセキを迎えてくれた。それが何よりセキの心を安堵させた。小林の家は下川沿村の川口というところで秋田から青森に行く羽州街道沿いにあり、それでもわずかながらまあまあの部類の農家だった。

義父は平田(平田 篤胤ひらた あつたね・秋田藩主の四男のことと思われる)から多少学んだのだろう、その影響もあって学もあり、駅亭の仕事をしていたこともあって、少しは豊かな方であったようだ。村の人はみんな義父に会うとお辞儀をするほどだった。しかし、小林家も結局貧乏神に魅入られて没落していく。末松の兄は相場に手を出して失敗し、裁判沙汰になって、結局家も田畑も全てを手放し、すってんてんになって東京に夜逃げのように行ってしまった。豊かな家庭で育った弟である夫の末松は後始末を頼まれ、その後大変な苦労をし、疲労からか心臓を悪くし、すぐに横になることの多い生活を強いられていた。

それでもセキは22歳になって長男多喜郎を出産、27歳で長女チマ、そして30歳のときに多喜二を産む。また次女ツギも誕生、後に三男の三吾、三女幸(ゆき)を生み、合計6人の子どもに恵まれたことが何物にも替えることのできない幸せでもあった。無学なセキには、それでも夫が本を読んで聞かせたりする優しさが救いでもあった。

ちょうどそのころの北海道は鰊景気でわきたっていて、われもわれもと北海道に稼ぎに出かける者が村を出て行った。稼ぎも多い代わりに危険や差別も激しかった。

3 とうとう秋田を去って小樽へ

東京に夜逃げのように出て行ってしまった義兄の慶義が北海道の開拓農に志願して小樽の潮見台に居を構えた。小樽は相変わらず、景気で燃えていた。義兄はむしろ采配をふるい、もっぱら息子に仕事をさせ、パン作りの修行をさせてパン屋を営むようになった。これが当たりとうとう札幌にも店を出し、少しずつ生活にゆとりが出来てきた明冶37年日露戦争の始まった年に、小樽に大火があり、盛り場を嘗め尽くすように焼き尽くしてしまった。義兄の店もあっという間に焼失してしまった。あまりにも、運に見放された義兄の哀れさにセキは同情の涙を流していると、夫は優しく穏やかに励ますのだった。

ようやく再建に立ち上がった義兄の仕事も一応のめどが付いたころ、長男の多喜郎をいっそ北海道に寄こさないかと誘われる。勉強好きな長男の多喜郎だけでもと口説かれて、とうとう小樽に預けることに決心をした。親元から離れて暮らすことに後ろ髪を引かれながら、一人秋田から小樽にいく。セキは35歳になっていた。セキは心騒ぐものを感じつつ見送った。母セキの心の中には、一生貧しいが秋田の寒村で一緒に過ごしていた方が、和んだ生活だったかもしれないと、気がかりになっていた。その矢先、12歳になった多喜郎に体調の異変が起こり、急性腹膜炎により急逝した。かけつけた両親に看取られながら悲しい別離となった。わずか2年ほどの小樽での生活だった。

はあ、忘れもしない、明治40年の10月5日のことでした。人間、生きるって、大変なことだねえ。それよりももっとひどい死に方をした多喜二のことを思うと・・・・・生きるって辛いもんだねえ・・・・・。

亡き息子のそばにいようと、それから3ヶ月も経たない年の暮れ、一家を挙げて小樽に移住することを決心した。秋田を去るのは身を切られるような辛く淋しいものだった。

「蝦夷は寒いからなあ、大事にせえや。あんまり寒かったら、我慢せんで帰って来いいや」ってねえ、みんな口々に言ってくれてねえ。馬橇が見えなくなるまで、みんな小雪の中を、手を振ってくれたっけ。・・・・・あん時の馬橇の鈴が、リンリンと音を立ててね・・・・・その音の淋しかったこと、いっしょう忘れられんね。

村の人たちに見送られながら、気落ちし病弱な夫を支え、その分までしっかり働くつもりでセキは腹を据えて義兄の小樽に向かうのであった。

4 成長していく多喜二

自分たちの小樽での生活も来ては見たものの貧しいものだった。小樽自体は毎日魚の水揚げで港は賑わってはいたが、みんながその恩典に浴したわけでもなかった。漁師の家より、工事の「タコ部屋」の方が多くあり、一攫千金を夢見てやってきた貧農の出稼ぎ者たちの多くがこの「タコ部屋」に住み、毎日雇い頭から厳しい監視と虐待を受けながら耐えて生きていた。
街には折檻や虐待による悲鳴の絶えない日はないほど喧騒で殺伐な町であった。多喜二はまだ5歳であったが、幼心に「タコ部屋」で何が起こっているかを身体で知っていく。タコとはお金を前貸しして、労働する人夫の事で、もらった金で酒びたりになり、まるで海のタコのように自分で自分の足を食べるような生活をするところからそう呼ばれていた。陰惨で人間扱いを受けず、耐えるか逃げるかしか生きる道を持たない閉ざされた社会で、昔は町の人の味方と思っていた警察の人たちが味方ではないことがわかるにつれ、セキ夫婦や多喜二の心にある怒りや矛盾が次第に肌を刺すようになる。

そんな中でもセキたちの子どもたちは、順調に成長した。いろんな出来事をわれ先に父や母に話し、とりわけお母さんに聞いてもらうことが何よりも歓びでもあった。字の読めないセキは子どもからいろんな童話や本を読んで聞かせてもらっていた。分家してもらって小さなパン屋を開き、細々とした生活をして忍んでいた。中にはパンや餅を盗む者もいたが、セキは「盗んだんじゃないべ。なんぼか腹空かしてたんだべ」と子どもたちに諭し、子どもたちも「そうだなあ、そうかもしれんな」と素直に反省するように育っていた。中でも一番のふざけん坊の多喜二は、学校で「自分の夢」という母思いの綴り方を書いた。

うちの母さんの手は、いつもひびがきれて、痛そうです。着物も年中、おんなじ着物を着ています。水産学校の校長先生の奥さんは、茶色の着物だの、あずき色の着物だの、取りかえて着ていますそして町さいく時、時々人力車に乗って行きます。ぼくは、ぼくの母さんにも、よい着物を着せて、小樽の町中、人力車に乗せてやりたいです。これがぼくの夢です。

多喜二はやがて親戚の世話になりながら、1924年(大正13年)小樽高商を卒業して北海道拓殖銀行の小樽支店に勤務するようになると、その初月給で弟の三吾のためにヴァイオリンを買ってやるほどの優しい人物だった。夫の末松もその優しさに肩を震わせて泣いていたという。

あん時のうれしかったこと。
(生きていてよかった)
わだしは、しみじみ思った。わだしらは貧乏かも知れん。亭主の体が弱いかも知れん。人から見れば、何の値もない一家かも知れん。しかし人間生きていれば、こんな嬉しい目にも遇える。そんな喜びはその後にも何度もあった。むろん、それを打ち破るあの多喜二の辛い目にも遇ったども・・・・・。とにかく、毎日あかるく楽しく暮らした家だった。

多喜二はどの兄弟にも荒々しい言葉を使ったこともなく、何でも静かに言って聞かせ、どんなに騒いでいても嫌な顔一つせず、働いて帰った後でも黙々と机に向かって何かを書いている青年であった。しかし、母セキには辛い別れが訪れてくる。折角多喜二が就職した喜びもつかの間、夫の末松は60歳で病のために亡くなった。ようやく少しは生活も楽になると思っていた矢先のことだった。セキももう52の年を数えるようになっていた。

多喜二は勤めながら、相変わらず小説を書いていた。書き飽きると画用紙に絵を描いていた。

「なあ母さん、花でも海でも、空でもな、この世のものは、みんな生きたがっている。その生きたがっているものを殺すことは、一番悪いことだ。虫でもトンボでも、犬でも人でもみんな生きたがっている。絵を書いていると、それがよくわかる。人間の手では、なかなか命のあるもんは、描けんのねえ」

多喜二の性格を髣髴とさせる部分である。つかの間でもセキはわずかな幸せを求め、必ず何かの手によって幸せをもたらしてくれると信じて社会に背を向けることなく、多くの人の助けに感謝しながら、老いの年に向かっていくのである。

そうした中、次第に成長する多喜二にも心から愛する人ができるようになっていくのである。
=以下、次回の後編につづく・・・お楽しみに!=

阪崎健治朗HP http://www16.ocn.ne.jp/~com212/

■筆者プロフィール
阪崎 健治朗 SAKAZAKI KENJIROU
生年月日: 1935年(昭和10) 12月25日
学歴: 日本大学文理学部英文科(通信)卒業
職歴: 中学校教諭を経て、神戸・北九州・富山・日本YMCA同盟北海道の各YMCA勤務。その他、大学の講師として「集団組織論」、「基礎作業学レクリエーション演習」、「国際ボランティア論」、「国際関係論・国際交流論」等を担当。
社会活歴: 人間講座主宰(ロビンソンデパート)
研修歴: 感受性訓練(JICE)、交流分析(TAT)受講。
著作: 「職業と人間形成」(共著)(日本YMCA同盟出版)
「神戸とYMCA百年」(神戸YMCA)
「ボランティア論」(青葉書店)
「国債理解 重要基礎用語300」(共著)(明治図書)

上へ移動↑