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「五穀豊壌記」に続き、阪崎さんの新シリーズも月1回でスタート致します。
筆者の阪崎さんは70才になりますが、気力ますます充実。今年ラジオのパーソナリティーとしてデビューし活躍を始めております。また、美術解説者試験にも見事合格し、道立近代美術館で絵画に関しての解説の社会活動もされております。
新シリーズ「3ミリメートルの悦楽」は、読む力、理解し考える力、行動する力を読書と本を通して鍛えることを提唱するものです。言わば毎日継続するそれぞれの1ミリメートルを積み重ね“1日3ミリメートルの前進を喜ぶ”大切さを考えて頂きたいと思います。きっと明日はもっと良いことがありそう!と感じられることでしょう。
どうぞお楽しみに。

3ミリメートルの悦楽

■7.「限りなき母の慈しみは深く」
母が語る多喜二の追憶(後編)  さかざき けんじろう

阪崎 健治朗

[ 後編 ] 多喜二を信じ続けた母の半生
1 多喜二の恋心

母セキは、息子の多喜二が少しずつ変わっていくことになんとなく気づき始めていた。

それは成長して次第に自立して行くたくましさを認めるその一方で、どこか運命的な別れを予感させるものがあったのかも知れない。夫の末松が亡くなった大正13年、21歳になった多喜二は母セキの前に座り「母さん、おれ、入船町の山木屋っていう小料理屋さ行って来た」と話す。うわさで聞いていたいわゆる遊郭で女郎がいるとの評判の所と聞いていたので、まさか女を「買った」話ではと案じたセキは顔を曇らせたが、そうではなく、見学に行ったとの話でほっとする。この当時の女性の売り買いは日常茶飯事のように行われ、遊郭など怪しげな雰囲気のところはいろんなところに散在していた。

多喜二はそこに働いている一人の16,7歳くらいの綺麗な人の話をした。その綺麗と言う意味は「心が綺麗」だと注釈をした。小説では、タミとしているが、実名は違う。後に多喜二が生涯愛した女性であった。その女性を「こんなところにいたくないっていうんだ。それが本気なんだよ。目に涙を溜めてね、勉強できる人は幸せだって。その言い方がまた、いかにも恥ずかしそうで、内気そうで、それでいてなんともいえない優しさがあるんだ。おれ、心から母さんに合わせてやりたいと思ったよ。あんな女の人見たことない」と熱情を込めて話すのである。

タミは極貧の家庭に育った。茶碗すらない家庭だったらしい。「背に腹はかえられず」器量よしのタミは周旋屋に目を付けられ、室蘭の店に売られてしまった。セキは同郷の秋田出身のタミに何かと相談に乗り、自宅に住まわせるようにするのである。

タミの母は夫を亡くしてすぐ4人の子をいっぺんによそにやってしまい、一人で暮らす寂しさを紛らわすためでもあったのか、半年もたたないうちに再婚したものの、ひどい男と結婚したためにさらに苦労が続くのである。

「母さん、人間っていったいなんだろう?」
「母さん、人間は、物でも、動物でもないんだ。もっと尊いものなんだ。それを売っただの買っただのして、よいもんだろうか。
金の力で、いやだいやだという女を、男の思いのままにして、いいもんだろうか」ってね。

「あんね、母さん。タミちゃんは、もっと人間とは何かって言うことを、勉強しなければならん。いや、タミちゃんばかりじゃない。世の中のもの全部が、身分は人間だ、と言う誇りを持たなければならん。人間にはしていいことと悪いことがあると、みんながわかったとき、本当の意味でこの世は変わる。不幸を生き抜くとき、人間は幸せになる。不幸に押しつぶされていてはならんのだ。」

「闇があるから光があるんだ」という聖書の言葉を時々口にする多喜二に母は驚いていた。やがてタミは自分自身を開放するために、多喜二の給料や人から金を借りてでも突き進むのである。そうしてセキの一家に迎えられ少し安心はするが、多喜二と結婚するためではなかった。

2 多喜二東京に出る

大正の末、銀行員ではあったが、やはり勉強が必要と東京の大学を受験する。だが不合格となる。この機会に東京で本格的な小説を書きたいと考えていたこともあり、昭和2年東京支店への転勤を許可してもらう。「母さん、そのうちに必ずタミちゃんを嫁さんにもらうよ」といい残して小樽を去っていった。母セキ52歳、多喜二22歳、多喜二の死の8年前のことである。

多喜二が何を考え何を書いているのか字の読めないセキにはわからなかったが、息子のすることに間違いなどあるはずもないという信頼のもと、セキは東京に行くこともよく理解した上での見送りであった。

義兄の息子はパン屋を営みながら、ヤソ教に入信したことも影響してか、セキはときおり牧師と話をする機会も出来た。何度か会う間に、優しく平易な言葉で話す牧師に心のうちを話すようになったセキであった。いつとはなく耳にした賛美歌の詩がすっかり気に入り慣れぬ手つきで書きとめることもできるようになったのである。

一方、東京の多喜二は働きながら小説を書き続けていたが、次第に警察の尾行を受けるようになる。だが恐怖に怯えながらも思想を一層確かなものとしていった。後に共産党に入党し、ビラ作りやビラ配りをして行動も目立ち始め、そのことが更に死へと追いやることになっていくのである。

「母さん、おれはね、みんなが公平に、仲良く暮らせる世の中を夢見てはたらいているんだ。小説書いているんだ。ストライキの手伝いしてるんだ。恥ずかしいことは何一つしてないからね。結婚するまでは、タミちゃんにだって決して手ば出さんし・・・・・だから、おれのすることをしんじてくれ」
「そう言ってね、わだしが多喜二のすること信用しないで、誰のすることを信用するべ」

絶大な信頼を置く母であった。

母の勘だろうか、だんだん息子の日々が心配になっていく頃、セキは60歳にすぐ手の届く歳になっていた。

3 多喜二の死

その晩、昭和8年2月ことである。セキはおかしな夢を見た。息子が夢の中でだんだん遠くに行ってしまうのだった。ちょうどその頃だった。多喜二は東京築地の警察署で虐殺により無念の死を遂げていたのである。2月20日30歳の若さで。

隣の家の夫婦が、転げるように家さ飛びこんできた。顔色が変わっている。
「どうした!?何が起きたか」
わだしはてっきり、隣の家に空き巣でも入ったかと思った。ところが隣のご主人が、「いいかね、おばあちゃん、心をしっかり持って、聞いてくださいよ」と言った。わだしは、はっとした。
「何か、多喜二のことでも・・・・」
「そうです!小林多喜二さんは、おばあちゃん、築地の警察署で亡くなりました。これ、この夕刊見てください」
夕刊ば見せられたって、わだしはカナしか読めない。小林多喜二と言う字は読めた。あいにくとその日は、三吾は留守で、夜11時過ぎに帰ると言っていた。
「多喜二が死んだ!?」
わだしは、全身の血が足の裏から抜けていくのを感じた。
「そんなはずはない!」
わだしは思わず叫んだ。あの孝行者の多喜二が死ぬはずはないと、わだしは本気で考えた。

病院から自宅に遺体を引き取り、物言わぬ息子のむごたらしい姿を見たとき、セキはわっと涙があふれ出た。実に凄惨を極め、これが同じ人間のすることかと思わせるような激しい拷問による死を遂げた我が子の変わり果てた姿だった。

布団の上に寝かされた多喜二の遺体はひどいもんだった。
首や手首には、ロープで思いっきり縛りつけた跡がある。
ズボンを誰かが脱がせたときは、みんな一斉に悲鳴を上げて、ものもいえんかった。下腹から両膝まで、黒と赤インクでもまぜて塗ったかと思うほどの恐ろしいほどの色で、いつもの多喜二の足の二倍にも膨らんでいた。誰かが、「釘か針かを刺したな」と言っていた。
・・・・・・ああ、いやだ、いやだ、あの可哀相な姿を思い出したくもない。
思い出したからって、どうしてやりようもない。 
よくまあわだしは、気絶もしなかったもんだ。それどころかその時わだしはこういったんだと。
「ほれっ!多喜二! もう一度立って見せねか!みんなのために、もう一度立って見せねか!」ってね。

こうして語る母のセキは、もうすでに30年も過ぎ去った思い出を淡々と語るほどの年になったとはいえ、90歳近くになってもあの瞬間のことは生涯忘れることなど出来なかった。

生前に多喜二はこんなことも話してくれたと、語る。

いつの夜だったか、わだしにしみじみ言ったことがあった。
「おれな、母さん、おれはいつの間にか、随分と有名は小説家になったけど、内心びくびくしてるんだ。いろいろなことがわかればなかるほど、権力って恐ろしいもんだと、背中がザワザワすることがある。これみてくれ、おれのこの小説、××がたくさんついてるだろう。これは金もち側から言わせると、書いて欲しくない言葉が並んでるからだよ。今の時代に、××の多い小説ほど、いい小説だって言う証拠なんだがねえ。こないだは、おれの小説の『蟹工船』が東京の帝劇で大評判を取った。
けどな、評判が立てば立つほど尾行が厳しくなって、もう小説書くの、どうしようかって思うことがある。
でもな母さん、世の中って言うのは、一時だって同じままでいることはないんだよ。世の中は必ず変わっていくもんだ。悪く変わるか、よく変わるかわからんけど、変わるもんだよ母さん。
そう思うとおれは、よく変わるようにと思って、体張ってでも小説書かにゃあと思うんだ。」

多喜二のやむにやまれぬ苦悩や怒りや矛盾が日増しに深くなる。とうとう27歳で銀行を辞めさせられてしまう。その途端、警察からは頻繁に容赦なく取調べを受け、逮捕され厳しく手荒なことさえ受けるようになる。案じたセキもとうとう東京に出て多喜二と一緒に暮らすようにしたのだが、それはつかの間の幸せだったかもしれなかった。昭和7年のことである。わずか1年という一瞬だった。

ああ喋った喋った。こったらに喋ったこと、後にも先にもないべな。
このあたりから後は、思いだしたくもないことばかり。
チマ、お茶でうまく淹れて、ぼた餅ば勧めてあげろ。あーあ、わだしもいつのまにか88にもなってしまった。チマ(長女)も60だもな。多喜二が死んだのは昭和8年2月20日で、わだしが61の時だった。へえー、このチマの歳と、あん時のわだしの歳と、おんなじぐらいだったかねえ。多喜二は30だった。

亡くなる前の年に息子と会った母は,痩せこけた頬ばかり見ていた。「社会の幸せば考えて生きているんだから、俺たちは明るいんだ」と低い声で話した言葉が母と交わした最後の言葉となり、二度と生きて再会することは叶わなかった。

4 深い愛で包んだ母の生涯

ついに逝った多喜二との別れは、ラジオも新聞も真実を書かず、死因は「心臓マヒ」と発表したに過ぎなかった。母は自らの命を閉じるまで、誰かに殺されたと言う思いを捨てることはなかった。新聞も信じなかった。

自分でも驚くほど、愚痴っぽくなって、繰り返し繰り返し、多喜二のことがおもわれてなあ。いつの間にやら、
「多喜二、苦しかったべなあ」
「多喜二、せめて死ぬ時だけでも、手を握っていてやりたかった。」
「多喜二、わだしはお前を生んで、悪いことしたんだべか」
とか、
「多喜二、お前、死んでどこさ行っているんだ」
とか、独りごと言っているの。

母セキは、時間がたつにつれて、激しく追い詰めるように自分を責める。それほど多喜二への愛は山より高く海より深かったのだ。その多喜二に何があったのか、字も読めないセキにとって心で感じ取った真実を未整理のまま晩年を迎える。

母の誇りは多くの兄弟姉妹や親戚の人たち、そして孫たちも誰一人多喜二を嫌った者がいなかったということであった。長女はお寺の檀家総代の嫁だったが、いつの頃からか小樽のキリスト教会に通うようになっていた。家族も折りを見ては教会に通っていたし、多喜二もまた教会にしばしば顔を出していた。

多喜二が死んだ後もセキはしばらく東京に住んでいた。東京のどこを歩いても何を観てもむなしさだけが残った。築地の前を通る時など、剣道の練習の声を聞くと、これでつつかれ叩かれ死んだんだと思うと腸が煮えくり返るような思いだった。ただ呆然と生きているような状態だったセキに長女の勧めもあり、5年後小樽に戻り長女の世話になる。

夢によく現れる多喜二、それも元気にしている多喜二の姿に慰められ、本当に半分会ったような気分になった、と述懐する。タミもまた律儀に多喜二の命日には30年間欠かさず、手を合わせに来ていた。そしてタミが結婚したのは、多喜二が死んで10年後のことであった。

5 キリスト教との出会い

いつの頃からか命日の2月20日に人が集まるようになり、これを多喜二祭というようになった。それがきっかけのようにセキは小樽の教会の近藤牧師と出会うようになった。字も読めない聖書も読めない賛美かも唄えない。そんなことを承知の上で近藤先生はゆっくりとお話しする。

「そうですねえ。字の読めない人には、キリスト教のお説教は、わかりにくいですね。でもね。お母さん、人間には心の目とか、心の耳と言うものがあってねえ。聖書を読めない人でも、聖書をすらすら読める人より、よくわかることがあるんです。
お母さんのように、人の何倍も涙を流した人には、その心の目と心の耳があるのです。私なんか、いくら聖書を読めても、説教ができるといっても、神様の姿をしっかりと見つめることが出来るかどうか、怪しいもんです。
きっと今に、お母さんに追い越されるようになるでしょう」
なんてね、先生は真面目な顔でおっしゃるの。

たわむれに母を背負い手そのあまり軽きに泣きて三歩歩まず
とか、
ふるさとの山に向かいて言うことなし。ふるさとの山はありがたきかな。なんていうの。

だから「心の貧しき者は幸なり」という言葉だって、わだしの財布の中にちゃあんと大事にしまってあるの。

セキは次第に聖書の絵画や話によって少しずつ赦しの心を養って穏やかになっていく。十字架の出来事と多喜二の痛みとは同じであると理解しつつも、「この人たちをお許しください。この人たちは何をしているのか、わからんのですから」と教えられるが、セキは「私は赦さない、神さま白黒つけてくれ」という気持ちを消すことは出来なかった。牧師はそれでも、「神さまは、正しい方だから、この世の最期の裁判のときには、白黒付けてくださる。お母さん、安心していていいんですよ」と諭される。そして秋田おばこをすらっと歌えるように讃美歌も一つ覚えてはいかがでしょう。と「山路越えて」を教わる。

やまじこえて ひとりゆけど
主の手にすがれる みはやすけし

松のあらし 谷のながれ
みつかいの歌も かくやありなん

峰の雪と こころきよく
雲なきみ空と むねは澄みぬ

檀家総代の嫁ぎ先の人たちは、異教の葬式について今はなんのためらいもなくキリスト教会の近藤牧師にお世話になろうと決心していくのである。チマの夫はこう納得した。

「お母さん、良くぞ近藤先生にお委せする気になりましたね。よっぽど安心したわけでしょう。安心して死ねるってことは、ありがち事です。お母さん、わたしとチマはお母さんの子どもです。けど信仰は一人一人別々であっていいんですよ。 その一人一人の信仰をお互いに大事にすることが大切なんですよ」

ああ、近藤先生に、「多喜二は天国にいるべか」って聞いたら、
「あのね、お母さん、聖書には『この小さき者になしたるは、すなわち我になしたるなり』と言う言葉があるんですよ。チマさんからも聞いていますが、多喜二さんは随分たくさんの貧しい人に、いろいろ親切にしてあげたそうですよね。『小さき者』というのは、貧しい人ということでね。名もない貧しい人に親切にすることは、イエス様に親切にすることなんですよ。多喜二さんが天国にいないとは思えませんよ」
うれしかったなあ。多喜二に会える、多喜二に会える。 うれしかったなあ。

字の書けないセキは、多喜二への断ち切れない思いを、まるで秋田に古くから伝わる歌のように綴り、近藤先生にだけ見せたという「この詩」を三浦綾子に読んで聞かせた。

あーまたこの二月の月かきた
ほんとうにこの二月とゆ月か
いやな月ことをいパいに
なきたいどこいいてもなかれ
ないあーてもラチオて
しこすたしかる
あーなみたかてる
めけねかくもる

これな、ほんとは近藤先生にだけは見せたんだ。したらな、先生、なんも言わんで、海のほうば見ているの。五分も十分も黙ってるの。(先生、何か気にさわったべか)と思ったら、先生の口、ひくひくしてるの。そしてな、持って来たでっかい聖書ひらいて、「お母さん、ここにこう書いていますよ。『イエス涙を流し給う』ってね」先生そう言って、声は殺して泣いてくれたの。わだしは、「イエス涙を流し給う」って言葉、何べんも何べんも、あれから思ってる。イエス様はみんなのために泣いてくれる。こったらわだしのために泣いてくれる。下手なもの書いたと思ったけど、そう思ったら破るわけにもいかんの

いや、長いこと喋ったな。ほんとにありがとさんでした。
いや、ありがとさんでした。
おや、きれいな夕映えだこと。海にも夕映えの色がうつって・・・。

三浦綾子の作品「母」はここで終えている。

数えで90歳を迎えると語っていたセキは、無念な死を遂げた息子を送ってから32年後、賛美歌「山路越えて」を大勢の人に歌ってもらいながら、多喜二と共なる憩いを取れたのである。前日一人で「山路越えて」を元気に歌っていたが、急変したという。1961年5月10日新緑の季節であった。

母セキの一人語りには作家自身がセキになりきるように書き、歓びも悲しみも辛さもそして怒りも含めて社会の人々の中で平気で人間をあしざまにする非道な人々に戒めを与えているように、ぼくには思えた。そして感動のうちに終えたと作家三浦綾子は語っている。

久保田暁一氏は、あとがきで「徹底的な思想統制によって、国民を戦争へと駆り立てた権力犯罪の犠牲者だ」と指摘され、「普通生誕何年と言いたいところだが、多喜二の虐殺死を思うに付け生誕103年ではなく、没後73年という表現の方が重い」と述べている。

現代の緊迫した社会の行く末を想定するとき、73年という歳月は忘却の彼方に置いてくるほど遠い昔の話ではない。すでに私たちはその延長線上に生きているのかもしれない。(完)

三浦綾子著「母」上・下 定本 角川文庫
発行所 社会福祉法人 埼玉福祉会 2001年

阪崎健治朗HP http://www16.ocn.ne.jp/~com212/

■筆者プロフィール
阪崎 健治朗 SAKAZAKI KENJIROU
生年月日: 1935年(昭和10) 12月25日
学歴: 日本大学文理学部英文科(通信)卒業
職歴: 中学校教諭を経て、神戸・北九州・富山・日本YMCA同盟北海道の各YMCA勤務。その他、大学の講師として「集団組織論」、「基礎作業学レクリエーション演習」、「国際ボランティア論」、「国際関係論・国際交流論」等を担当。
社会活歴: 人間講座主宰(ロビンソンデパート)
研修歴: 感受性訓練(JICE)、交流分析(TAT)受講。
著作: 「職業と人間形成」(共著)(日本YMCA同盟出版)
「神戸とYMCA百年」(神戸YMCA)
「ボランティア論」(青葉書店)
「国債理解 重要基礎用語300」(共著)(明治図書)

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