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「五穀豊壌記」に続き、阪崎さんの新シリーズも月1回でスタート致します。
筆者の阪崎さんは70才になりますが、気力ますます充実。今年ラジオのパーソナリティーとしてデビューし活躍を始めております。また、美術解説者試験にも見事合格し、道立近代美術館で絵画に関しての解説の社会活動もされております。
新シリーズ「3ミリメートルの悦楽」は、読む力、理解し考える力、行動する力を読書と本を通して鍛えることを提唱するものです。言わば毎日継続するそれぞれの1ミリメートルを積み重ね“1日3ミリメートルの前進を喜ぶ”大切さを考えて頂きたいと思います。きっと明日はもっと良いことがありそう!と感じられることでしょう。
どうぞお楽しみに。

3ミリメートルの悦楽

■8.「忍耐、連帯、そして絆」
藤原ていとその家族の絆・・3回シリーズその1 さかざき けんじろう

阪崎 健治朗

1 戦争が生む非人道の中の良心

戦争というのは、人間の「こころ」と言うものを抜き取ってしまうものかもしれない。そんな過酷で想像を超えた非人道的行為が、敵味方関係なく行われているニュースを、日々知らされるたびに心悼む思いがする。

人は生死を分ける瀬戸際に立ったとき、いったいどのような行動に出るのだろうか。生きるためには、他人のことにかまったりする余裕もなく、まず自分が生き延びたいと考えるのは、至極当たり前のことかもしれない。一方で、わずかな食べ物を自分の口にいれず子どもに与えたり、半分に分かち合ったりする。困窮を極めるほどに貧しくとも、そこに麗しい深い人間愛や強い絆が生まれてくることもまた真実である。

心を鬼にして子どもを路傍に捨てて自分が生き延びる。戦下ではで容赦なく敵に銃を向けられることさえあるにちがいない。環境が悪化し、もう生きる望みを絶たれ、死という恐怖さえ超越してしまう劣悪悲惨な中で、それでもどうにかして「生きたい」という希望を捨てない時に、奇跡としか考えられないようなこともまた生まれる。

戦争は軍人だけではなく、むしろ名もなき人々に大きな犠牲を強いることを忘れてはならない。自国の女性や老人や子どもに平気で銃を撃つ狂気の軍人や、時によっては少年が銃を持って敵を打ち抜いて「やった!」と喜ぶような異常社会にあって、それでも良心を失わず、かすかな正義を信じて人間らしく生き抜く人もしばしばいる。 それにしても受けた傷跡はあまりにも大きい。幾年たっても心に残り、その恐怖や狂乱は時には精神的な障害につながることさえある。

特に8月を思い起こす日本にとっては、特別の月でもあるが、今曲がりなりにも「平和」という言葉を使うことが許されるとしたら、日本は他国に比べ平和を享受できている国だといえよう。

今、私は一冊の本を読み終えた。「藤原てい」という作家が書いた「絆」という本である。

藤原てい、といっても聞き覚えや見覚えのある方は存外と少ないかもしれない。しかし、作家の新田次郎の妻であり、また「国家の品格」を書いた藤原正彦の母であると紹介すれば、大概の人はわかってもらえるであろう。

藤原ていは夫の新田次郎より先にベストセラーを書き、大きな反響を呼んだ。ていは戦後満州・北朝鮮から引き上げてきた。1945年やむなく夫を現地に残したまま3人の子どもを抱えて奇跡的に帰国して信州の家で癒しているときに、子どもたちへの「遺言」のつもりで書いた生と死の戦いの中から命からがら帰国するまでの実話を書いた本が「流れる星は生きている」である。緊張と怒りと息詰る思いで読み進むうちに、戦争こそ、人間を人間でなくしてしまうか、より人間を高めて深い絆を作ることが出来るか、に分かれることを改めて思う内容であった。

ここでは、「流れる星は生きている」を底流にして「絆」という作品を取り上げ、過去を風化させないためにも書こうと思った。

2 ていの少女時代

信州八ケ岳のふもとに住む両角(もろずみ)家に1918年一人の長女が誕生した。名前を「てい」といった。学校の校長である父は、他の兄弟と違って、なぜか幼い時から何かにつけて厳しい言葉や時には暴力まで振るう古風な人だった。それは躾や父の愛情から来ているものとは到底思えないような厳しさだった。「泣くんなら、縁側に出て泣け。もっと大声で泣け」と怒鳴る父に対して「父さんのバカ、死んじまえ」と食って掛かるほどの勝気な女の子であった。あるときはみんなが食卓についているのに自分だけは庭で食事を取るように命じられたりして父を好きになれなかった。

腹を立てると「お前は河原から拾ってきたんだ」と口にする父に決して屈することはなかったが、陰ではよく涙を流す少女だった。父は物静かで早く嫁にいけるような女性像を描いていたのであろう。

ありもしないことを咎められたりして、よく涙するていに、優しくいたわってくれたのは祖父であり、「お前はおじいちゃんが守ってあげるからな」と新聞紙にくるんだトウモロコシをもらい慰めてもらっていたから、おじいちゃんは大好きだった。

家の南斜面に植えつける苗を「この木は早く大きくなるからな。お前が嫁に行くころは、材木として売れるだろう。その金で桐のタンス買ってやるからな」となぐさめるのである。

母は教師になりたかったが、果たせず、農家の仕事を祖父とやり、父は学校が遠いために自宅を離れ、一人校長宅に住み、土日には帰宅するような生活をしていた。たまに見る父は常に威厳を見せつけていた。

まだ小学校4年生にもなっていない娘ていは「そんなことではお嫁になんかいけないぞ」とどなられたり、「女の子は女学校になんか行かなくてもよい」などと厳しい言葉を投げつけられるが、それぐらいで萎れるような子どもではなかった。

やがて母が卒業した女学校だからということで県立諏訪高等女学校(現、諏訪二葉高等学校)に入り、寄宿舎生活を始めたていだが、祖父や母の農作業をみていて後を継ごうと思っていただけに、この学校の寄宿舎生活には馴染めず、メソメソ泣いていると「シーッ、うらさいわねえ」と同室の生徒に言われ、とうとう耐え切れなくなってこっそり抜け出し、家に戻ってくるような弱虫なところもあった。

もう行かないとはいったものの「母さんもがまんしているもの、お前もがまんしておくれ」と説得されて、再び寄宿舎に帰っていくのであった。

蔵が四つもあるような家庭に育ったとはいえ、次々と処分して貧農に陥っていく中から工面して学校に生かせてもらっていた。まるで爪に火を点すような暮らしの中で、ひたすら猛勉強に時間を費やした。

戦争の匂いが漂うころ、社会は国家統制時代を迎え、思想的に不信をいただかれた者や反国家的な疑いを持たれた者は官憲に捕まり、時には帰ってこない者さえ出るような苦りきった社会になった。教員はもとより、同級生でさえ、学校を超えた官憲の目が光り始めていた。尊敬している先生が担任をはずされ、ていは毎日さびしい学校生活だった。

素晴らしい先生と出会って将来先生になろうとさえ思う心と、手の甲が農作業で切れてしまっている母を見ていると、母の手伝いをするべきか、ていの心は二転三転するのだった。

そんな時、ちょっぴり好きだった同級生の義高は満州に行くといって去っていった。満蒙開拓団という政策が採られ、貧農の人たちを集団で満州へ送り出す国策に加わった。みんな天皇のために命を落とすことを「正義の戦い」と信じて満州に向かった。ていは父から強い圧力によって、教員になることをあきらめ、女学校の隣にある専攻科に進んだ。しかし、体調は次第に蝕まれていき、とうとう入院する羽目になり、森の奥深いところにある病院での生活を余儀なくされた。

当時の肺浸潤は伝染するといわれ、周囲から避けるように嫌われていた。ていもまた折角復学しても机も椅子も全て焼かれていて自分の席もないような扱いを受け、寄宿舎の部屋も薄暗い物置を整理した小さな部屋に移されていた。

3 祖父の死と学費の未納で退学

ていが入院している間に大好きだった祖父がなくなっていた。農作業の明け暮れにただ黙々と働いていた祖父がかつての栄光が失せてなぜこのように貧乏になったのか、いつかそのことを聞こうと思っていたが、とうとう出来なかった。そんな悲しい知らせも聞かせてもらえず、ただ涙するていであった。

父からは「よく帰ってきたね」の一言も掛けてもらえず、それどころか、「お前の根性が悪いから叩きなおしてやる」と突然激しい言葉を浴びせられることはしばしばだった。弟たちはもう進学する年齢になっていた。

信州の風は足早にやってくる。もうすぐ卒業論文を書く段になっておもわぬことがおきた。

担任の先生から半年も授業料が滞っていることを知らされてしまう。

弟たちには大学受験をする準備に入っているのに自分だけがなぜ?と。

先生はわざわざ父に手紙まで書いて懇願してくれたが、結局『「学校は辞めなさい。お前のようなものは教師になる資格はない」「なってみなければ、わからないでしょう」「つべこべいうな」「それでも親か」父はいきなりわたしの胸を押した。「これからお前をたたきなおしてやる」の激しい言葉と一緒に。私は踏み石の上へ尻餅をついた。「だれが泣くものか、絶対に泣かないぞ」力んでみたが、なぜか涙が転がり落ちた。』父は半年も学費の納入をしていなかったのだった。とうとう専攻科を中退せざるを得なくなった。

突然ある雨の日、自宅に戻ってきた父はこれからていを飯田に連れて行くという。大変な修羅場となった中を母は死にものぐるいで娘のために頭を下げ続けたが、それでも赦されず、結局は父に連れられて行った。下に流れる天竜川を眺めていると、例えようのない悲しみが喉の奥底からぐっと込み上げてきた。

初秋の風は頬に冷たかった。

もうていは数えで22歳になっていた。このまま無為に過ごすのか、父といる時間とはいったい将来に向けてどんな意味を持つ時間なのか、理解しがたいまま時が過ぎて行く。父の魂胆は自分の世話とよい相手を見つける機会をつくろうとしていたのだった。 父宅でも父子の対立は続き、我慢できずに母の元に帰っていった。 気持ちが高ぶって久しぶりに戻ってきたていは思わぬショッキングなニュースを聞く。「義高が戦死したぞ、かわいそうになあ」と。その足で義高の家に行って確かめたら、「犬死だ」と吐き捨てるように言う親だった。

=3回シリーズ・次回に続く。お楽しみに=

「絆」藤原てい 1993年(2002年大活字)社会福祉法人 埼玉福祉会
「流れる星は生きている」藤原てい 1946年(1987年大活字)社会福祉法人 埼玉福祉会

阪崎健治朗HP http://www16.ocn.ne.jp/~com212/

■筆者プロフィール
阪崎 健治朗 SAKAZAKI KENJIROU
生年月日: 1935年(昭和10) 12月25日
学歴: 日本大学文理学部英文科(通信)卒業
職歴: 中学校教諭を経て、神戸・北九州・富山・日本YMCA同盟北海道の各YMCA勤務。その他、大学の講師として「集団組織論」、「基礎作業学レクリエーション演習」、「国際ボランティア論」、「国際関係論・国際交流論」等を担当。
社会活歴: 人間講座主宰(ロビンソンデパート)
研修歴: 感受性訓練(JICE)、交流分析(TAT)受講。
著作: 「職業と人間形成」(共著)(日本YMCA同盟出版)
「神戸とYMCA百年」(神戸YMCA)
「ボランティア論」(青葉書店)
「国債理解 重要基礎用語300」(共著)(明治図書)

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