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「五穀豊壌記」に続き、阪崎さんの新シリーズも月1回でスタート致します。
筆者の阪崎さんは70才になりますが、気力ますます充実。今年ラジオのパーソナリティーとしてデビューし活躍を始めております。また、美術解説者試験にも見事合格し、道立近代美術館で絵画に関しての解説の社会活動もされております。
新シリーズ「3ミリメートルの悦楽」は、読む力、理解し考える力、行動する力を読書と本を通して鍛えることを提唱するものです。言わば毎日継続するそれぞれの1ミリメートルを積み重ね“1日3ミリメートルの前進を喜ぶ”大切さを考えて頂きたいと思います。きっと明日はもっと良いことがありそう!と感じられることでしょう。
どうぞお楽しみに。

3ミリメートルの悦楽

■8.「忍耐、連帯、そして絆」
藤原ていとその家族の絆・・3回シリーズその2 さかざき けんじろう

阪崎 健治朗

4 結婚

1939年、すでに弟たちは東京の大学へ進んでいた。父の仕送りを受けているという。日に日に老いていく母を見ていると、もう何もいえなかった。家への仕送りもほとんどしなくなった父に対して母は黙って涙を流すだけだった。おぼつかない手つきで母の農業を手伝うていではあったが、母もまた結婚を願っていた。日支事変は次第に大きくなり、若者は招集されていった。てい23歳。仲間はほとんど結婚しており、少し遅いくらいの年齢でもあった。何人目かのお見合いをしたていは、母から「今日は藤原様だからね。絶対にしゃべってはいけませんよ。黙って、うつむいて、おとなしそうな顔をしていなさい」と釘をさされて藤原様との見合いとなった。母の女学生時代の親友の息子で気象学者だという程度のことだけを聞いていた。会って見るともぎたての果物のような笑顔の素敵な優しそうな好感の持てる青年であった。

すっかり結婚をする気になっていたていに、母は何一つ嫁入りの道具を整えてやれない引け目を感じながら、自分がこつこつ働いて貯めたなけなしの300円を包んで「これでせめて訪問着の一枚ぐらいは、ねえ」と手渡してくれた。ていには身に沁みるような母への思慕がつのった。

それを持って上京し、藤原邸を訪ねた。母から預かった300円を差し出したら、「これだけではねえ」と小声で言った。ていは胸にとげが突き刺さったように思えた。工面して用意してくれた母の汗と涙の苦労の300円を置き、あふれる涙をこらえて、その場から逃げたい気持ちで戻った。

上品で美しい義母の「これだけではねえ」という言葉が頭から離れなかったものの、相手も受け入れてくれたことにより結婚の運びとなった。1939年、藤原と結婚した。姑の目と言葉は厳しかった。たまりかねた姑は「志げさんは、どんな躾をしていたのかしら」と突然母の名前を出し、本当に親友なのかと疑ったりもした。それでも救われたのは夫の優しさだけだった。

5 とうとう満州へ

結婚して3年目、戦火はいよいよ厳しくなる時代に入っていた。義父は突然夫に「お前、満州の新京観象台へ行ってくれないか、あそこはまだ高層気象学が遅れていてねえ、お前の専門の分野から、それを教えてやってくれないか」と話した。「いずれにしても、今、事変のある国だが、まもなく平和になるだろう。お前、その国の再建のために手伝ってくれないか」。

ラジオからは「日本軍は正義の味方。それに手向かうものは打ちのめしている」と声を大にして放送するが、ていは信じていなかった。それでもていにとっては、今のような行き詰る家庭から解き放たれるのなら妊娠中の身ではあっても行こうという思いが次第に膨らんでいくのだった。同時にそれはきわめて危険の多い冒険とはとてもいえない火中に飛び込みに行くようなものだった。

長男の正広が誕生した。戦勝のニュースは入ってくるが、同時に白木に入った遺骨が毎日のように駅に送られてきた。そしてとうとう1941年12月8日「今朝未明、わが軍はハワイ沖において、アメリカの軍艦数隻を撃沈せり」勇ましい声がラジオから流れる。太平洋戦争は勃発した。

そんな中「高層気象課長として、満州へ出張せよ」との命令を受けた。このころはていにとって待ちに待っていたときと場所であり、すでに3歳になっていた長男と、1943年に生まれた次男の正彦を連れて、その年満州の観象台に転勤すべく中国の新京(今の長春)に向けて出発した。

6 苦難の生活が始まる

二人の子を抱え、やってきた新京は日本が支配権を持つ満州の都であった。周囲の人はにこやかに「コンニチハ」と声を掛けてくれる。日本語の流行歌が流れ、日の丸の旗も見える。広漠とした土地では食べるものは何でも出来ると希望を先に描いていたていだった。しかし想像とは全くかけ離れた険しい生活が待っていた。

夫は研究のためか、食事を終えるとすぐ自室に閉じこもり、ほとんど会話もなくなっていった。

一方ていは、自然に出来た仲間と仏教哲学の勉強を始め、将来の新しい満州の中枢を担う人々と仲良く日々を過ごしていた。そこには中国人はもとよりロシア人も加わっていた。

その中の一人が、「奥さん、ね、万一この戦争に日本が負けても悲しむことはありませんよ、民族は亡びませんからね。中国をごらんなさい、五千年の興亡を繰り返してきたけれど、民族は亡びませんでしたよ」決して悪意ではないが、どこかに何かを予見しているようにも取れた。

時代は次第に悪化し、全て配給制の耐乏生活となり、官舎に住んでいた藤原家族は「日本人」「中国人」「朝鮮人」「白系ロシア人」「蒙古人」と立て札が立っているところで配給物を受け取った。それぞれに差が付いていて日本人が一番優遇されていた。そのことは決してよい感情を抱かせるものではなかった。 戦争も終焉を迎えたころ、その直前になってソ連軍が攻めてくるという情報がここにも伝わってきた。

1945年8月9日役所から非常召集がかかり、「すぐ逃げるんだ、ソ連軍が入ってくる」「すぐ逃げるんだ、逃げるんだ、ここにいたら殺される」夫の絶叫に回りは狂乱状態になり、「新京へ急ぐんだ!」との声に引きずられるように、みんなは家を出て新京までの4キロを長い行列を作って歩き始め、さながら狂気の道となった。ごった返す駅に着いたとき、夫は黙って大型の時計をはずして長男に握らせた。

5歳と2歳と生まれたばかりの子どもを抱えている母ていにとっては、仕事とはいえいのちの保障すらないこの地に残ることになったため、夫との別れは今生の別れでは、と心をかすめた。夫は、子どもを守って日本へ帰るんだ、という言葉を残してホームの彼方へと消えて行った。

満杯の無蓋貨車はゆっくり新京を離れた。冷静さを失い、恐怖と不安の渦巻くまるで地獄絵のような状態のまま奉天(今の瀋陽)を過ぎ、安東から満鮮国境線(鴨緑江)を渡ってやがて北朝鮮に入った。国境沿いの宣川で突然降ろされ、日本人の大集団は収容所へ叩き込まれた。もちろん設備や食糧の整っているところではなかった。たちまち収容された人たちは、理由もわからず、まさに大人も子どもも正常の精神状態を失い、阿鼻叫喚の中で、喧嘩や反発、仲間割れなどが起こる中、劣悪で残酷な生活が始まった。案の定、ソ連軍は銃を持って入ってきた。若い女性を連れて行き、あきらめて自らのいのちを絶つ者もいた。食料不足は栄養失調疾病者が出るのは当たり前でもはや泣く気力さえ失いかけていた。つかの間に偶然戻ってきた夫と再会するまもなく、今度は夫は無蓋貨車に乗せられて、シベリアの方に去ってしまった。

予想もしていなかった苛酷な環境の中での生活にはそれでも「生きて帰るんだ」という執念を持った人は近所に物乞いにまで出るようになった。ていもまた3人の子どもと自分が生き延びるために一軒一軒回って「何が恵んでください」と回るのだった。しかし、どんなに生きるための工夫をしても限界がある。寒さも雨も加わる中、このままでは死以外にないと意を決したていは3人の子を抱え、収容所を脱出した。百万キロの自宅まで途方もない遠い遠い道のりに気が遠くなり、とても自信があったわけでもない。イチカバチかの行動だった。『流れる星は生きている』のなかで詳しく書かれているが、人の投げ捨てていったリュックの中の食べ物を失礼し、胸までつかりながら川を渡り、背中の娘はもはや生きているのか死んでいるのかさえ確かめる余裕もない一心不乱の状態で脱出口を見つけた。ただひたすら「死なないでよ、死なないでよ」と繰り返しながら、前に向かって歩くだけだった。気がつくと目の前に北朝鮮の兵隊が、銃を向けていた。「よく、ここまで這ってきたな、生きて帰れよ、これからはなかよくしようね」と背中に背負ってくれる中を気が遠くなる中でかすかに聞いたような気がした。

=3回シリーズ・次回に続く。お楽しみに=

「絆」藤原てい1993年(2002年大活字)社会福祉法人 埼玉福祉会
「流れる星は生きている」藤原てい1946年(1987年大活字)社会福祉法人 埼玉福祉会

阪崎健治朗HP http://www16.ocn.ne.jp/~com212/

■筆者プロフィール
阪崎 健治朗 SAKAZAKI KENJIROU
生年月日: 1935年(昭和10) 12月25日
学歴: 日本大学文理学部英文科(通信)卒業
職歴: 中学校教諭を経て、神戸・北九州・富山・日本YMCA同盟北海道の各YMCA勤務。その他、大学の講師として「集団組織論」、「基礎作業学レクリエーション演習」、「国際ボランティア論」、「国際関係論・国際交流論」等を担当。
社会活歴: 人間講座主宰(ロビンソンデパート)
研修歴: 感受性訓練(JICE)、交流分析(TAT)受講。
著作: 「職業と人間形成」(共著)(日本YMCA同盟出版)
「神戸とYMCA百年」(神戸YMCA)
「ボランティア論」(青葉書店)
「国債理解 重要基礎用語300」(共著)(明治図書)

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