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「五穀豊壌記」に続き、阪崎さんの新シリーズも月1回でスタート致します。
筆者の阪崎さんは70才になりますが、気力ますます充実。今年ラジオのパーソナリティーとしてデビューし活躍を始めております。また、美術解説者試験にも見事合格し、道立近代美術館で絵画に関しての解説の社会活動もされております。
新シリーズ「3ミリメートルの悦楽」は、読む力、理解し考える力、行動する力を読書と本を通して鍛えることを提唱するものです。言わば毎日継続するそれぞれの1ミリメートルを積み重ね“1日3ミリメートルの前進を喜ぶ”大切さを考えて頂きたいと思います。きっと明日はもっと良いことがありそう!と感じられることでしょう。
どうぞお楽しみに。

3ミリメートルの悦楽

■8.「忍耐、連帯、そして絆」
藤原ていとその家族の絆・・3回シリーズ最終回 さかざき けんじろう

阪崎 健治朗

7 ついに帰国と遺書

1945年狂気の戦争は終わった。夫は1年間シベリアに抑留されていた。ていと子どもたちは、夫より一足早く命からがら日本にたどり着き、自宅に落ち着いた。しかし、あまりにも激動の生活を過ごしたためか、帰国しても正常な感覚は戻らず、時々奇怪な行動をとるようになっていた。

わざわざ雨の中で食事をとったり、家族が家の中で食事をしている姿を見ながら、庭の土の上で食事を取るような奇っ怪な行動をとるようになった。弱っていた身体は一気に結核を誘発した。

そんなある日、夫が帰ってくるという知らせを受け、駅まで迎えに行った。しかしその頃はもう一人では歩けず、車椅子の生活をしていた。ていは確かに駅頭で夫が元気に帰ってきた姿を見た。

「おい、今、帰ってきたよ」と勇んで妻に声を掛けたが、何も答えない無反応な妻の変化に夫は戸惑うばかりであった。再会の感動など味わうことすらなく、言葉をかける気力も失せ、ただ、生きていてよかったという感慨だけが寂しく胸いっぱいに広がっていった。夫が帰国してもあの時の目を覆うばかりの惨状は毎日のようにていの夢に出てきた。時には、無事帰国した夫なのに、息絶えた夫の両足を肩に担いでどこ行く当てもなく引きずっている恐ろしい光景の夢まで見るようになった。心身の疲労は極に達していた。生きることだけを考えてやっと帰国出来たのに、今は死と生との狭間で葛藤に悩む日々が続くのだった。ていは遺書を書く決心をした。

苦しかった生活、恐らく今こうして生きているのは、祖父の慈愛、謙遜な母、そして厳しいがその不屈を無言で教えてくれた父の厳格さが艱難を乗り越えてきたとの思い、そして外地での人間の醜さや争い、戦争への怒り、それらが流れるように筆が勝手に動いていったのだろう。それは長い遺書だったに違いない。ちょうどその時、見舞いに来た気象庁長官の目に留まり、「これは『塔』に見せよう、世に問う必要がある」との話を聞く。『塔』とは、ある出版社で出している文芸雑誌のことだが、心の赴くままに書いた体験談の生々しさを世に訴えることが必要だとくどかれ、とうとう応諾した。書き綴っているうちに本にして出版する話になった。それ以後、多くの人に読まれるようになり、毎日読者から山のような投書が届いた。その中に「南原 繁」という署名入りの封書が入っていた。「これは東京大学の総長なんだよ」と長官が教えてくれた。

ていは、出版に当たり、タイトルを「流れる星は生きている」にした。北朝鮮の兵隊がよく歌い、教えてくれた歌の一節から取ったものだ。遺書が処女作となった。夫の不機嫌は承知の上のことだった。1949年にはベストセラーになり、苦しかった家計が潤うようになった。

夫より一足早く一躍有名になった作家藤原ていは、治療代にも事欠く家計にとって干天の慈雨のようにありがたく思うのだった。世間が放っておかなかった。いろんな出版社からの執筆依頼が舞い込む。だが夫は「みんな追い返せ」と取り合わない。夫は「やせても枯れてもサムライの子孫だ」と生家を自慢しプライドが高かった。健康状態が思わしくなく外で働くことがままならない自分にとって書くということは治療代と家計への支援でもあった。

やがて夫の意向もくみ、子どもをのびのび遊べるようにと少し日の当たる静かな家を求め吉祥寺に引っ越した。

生きているという感覚が次第に実感になるにつれ、それはまた作家として、時間との新しい戦いでもあった。出版や執筆の依頼や講演。そしていろんな役割を受けざるをえない環境に追われながら、家族の生活を守り、依頼者にも迷惑をかけないことを前提にしながらひたすら書き続けた。子どもの苛立ちが目立つようになり、ついに夫は「お前の傲慢な態度ががまんできん」と吐き捨てるように言うのであった。「ことわるという、勇気を持て」としばしば諭されていたが、聴いてくださる人や頼ってくださる人がいる限り、話をし続けることが自分の天命だと思い、身を削り東奔西走する毎日を送るようになっていった。一つの経験が輪を作り、その輪が水面に静かに広がるようにていの活躍の場が広がった。教師になる夢は絶たれたが常に子どもの教育には頭を痛めていたていは、とうとう教育委員に就任し、子供の教育に関わることになる。しかしそのことで家庭には何かこれまでとは明らかに違う空気が流れていることも感じていた。女性が社会進出することはとても重要なことだが、そのせいで大切なものを失わないようにしなければと考えるていだった。

8 夫も直木賞受賞

1951年、ちょうどそんな時、夫はいきなりテーブルの上に週刊誌をたたきつけた。それには「百万円の懸賞小説、一席、強力伝、藤原寛人」と書かれてあった。

「あ、お父さん」

「ざまあみろ」その勝ち誇ったような夫の顔。急に嬉しくなったていは涙がこぼれた。これで借金は全て払い終える、と現実が頭をよぎった。しかもこの「強力伝」が第34回直木賞の受賞作品ともなった。受賞後次第に気象庁に勤めていることが息苦しくなってきた夫は、間もなく29年勤めた気象庁を辞め、本格的な作家生活に入ることになった。1966年のことだった。それからの作家新田次郎は多くの名作を書き、話題の映画にもなったが、1980年2月心筋梗塞で武蔵野市の自宅で終焉した。

9 晩節を顧みて

ていは晩節を迎えるまでになっていた。50歳になっていた隣に住む長男が「オレ、時計を買ったよ、ロンジンをね」といってきた。「オレ、どうしてもロンジンがほしかったんだ」。

それはあの満州で暮らしていた時に父がまるで形見のように長男に渡した時計、お父さんの大切な遺品として石鹸のなかにかくしたあの時計と同じ物だった。

ていにとってロンジンは命を助けてもらった大切なものだった。長男が北朝鮮で高熱を出したとき、ジフテリアと診断されたが、治療代が払えない。思い切ってロンジンを差し出し、「これで」と医師に赦しを乞うと、「その時計を私が1000円で買いましょう。記念として大切にしまっておきましょう」と時計と引き換えに命を救ってもらった思い出の品だった。当時ジフテリアの抗生物質は1000円もしていた。長男がそのことを知っているのどうか分からなかったが、今はこの世にいない父の仏壇に、ロンジンをチョコンと供えた。

次男の正彦も結婚する時期になって相手の女性に足に出来た多くの傷跡を見せた。それは悲しく辛い満州や北朝鮮の思い出の中にあった。毎日ハダシのような状態で歩き詰めだったがために足の裏に食い込んだたくさんの石を取り除いた治療の痕だった。

67歳を迎えたある日、ていは国交のない北朝鮮に行くと言いだした。丸1年半の収容所の生活で亡くなった人も大勢いる。日本人墓地へも行き、弔ってあげたいという思いを抱いていたていの北朝鮮への一人旅である。戦後の中国と北朝鮮は大きく変わっていた。悪行の渦巻く中を親切に扱ってくれた一人一人に礼を言う思いで、道行く人を眺め、これから成長していく国を見ているのだった。そして何もかも恨むのは戦争なのだという思いが心の中で強くなった。ていは「金では買うことの出来ない、人間には尊い心があるのだ、その心だけは貧しくならないように」と言った恩師の言葉を思い出しながら、それなら、その豊かな心を、何によって求めたらいいものかと考えていた。学生時代の恩師の一人から「教育とは、人間を人間にまで育てることですよ」と言われたことを思い出した。そしてすべての職を辞した。

「オレが死んだら、文学賞を残したいなあ」と語っていた夫の思いを実現して1982年「新田次郎賞」を創設した。それから14年、17名の方々が受賞した。新田の植えた柿の木は新しい芽を出してすくすくと育っている。

人生の置き土産のような気持ちで夫の次郎が責任者として製作した富士山頂の気象レーダードームを一目見ておこうと富士登山を決行する。総勢30名のスタッフと共に、夫が7年間も勤めた山頂を目指して登ったのである。レーダードームは日本の気象をずっと見守っていた。日本の誇りであり密かなてい自身の誇りでもあった。ていは70歳を超えていた。

あの貧しさ切なさが自分を支えてくれたと考えている。「生きるんだ、生きるんだ、負けないぞ」という反骨精神と気力と愛情、家族の絆で半世紀を生きた。藤原ていは今余生を楽しんでいるのだろうか。この「絆」を読んでくださった方には、ぜひ「流れる星は生きている」の併読をお勧めしたい。夫である新田次郎が世に出る前、この本が爆発的に売れたのは、戦争の悲惨な現実と直面し体験したことを自分のことのように受け止めた多くの読者の心を揺さぶり共鳴したからであろう。夫を支え、一心不乱に懸命に生き、死に至らしめることもなく育てた子どもたちとの外地での苦しい生活の日々。それらが走馬灯のように駆けめぐる。一人の女性が幼いときに培われた反骨精神、一胆決めたことはやり通すという不屈の闘志が、波乱万丈の人生を耐え前向きに生き向く大きな力になったにちがいない。

あとがきで「あたかも命の終りが、そこまで近づいているかのように、ひたすらこの原稿を書いた。70年の人生を振り返ってみると、切なく苦しかったことのみが大きく浮かんできて、楽しい日々は少なかったように思うのはなぜだろう。『お前は川原から拾ってきた』と強情な私を父はもて余したらしい。繰り返されているうちに、いつの間にか、それを信じてしまっていた。八ヶ岳から湧き出る泉のほとりで泣いていたのなら、それも素晴らしい運命ではないかと考えた。そのために、誰にも頼らず自分の力で生きようとする強靱な意志は、人一倍強かったように思う。その姿を、強情と言い、意地張りと人は呼んだ。しかし、その意志があったからこそ、敗戦後の北朝鮮での長い放浪生活をも、生き抜いてきたのだと思う。・・・・・私の最後の作品になるかもしれないと考えながらの作業であった」味わい深い言葉である。(完)

「絆」藤原てい1993年(2002年大活字)社会福祉法人 埼玉福祉会
「流れる星は生きている」藤原てい1946年(1987年大活字)社会福祉法人 埼玉福祉会

阪崎健治朗HP http://www16.ocn.ne.jp/~com212/

■筆者プロフィール
阪崎 健治朗 SAKAZAKI KENJIROU
生年月日: 1935年(昭和10) 12月25日
学歴: 日本大学文理学部英文科(通信)卒業
職歴: 中学校教諭を経て、神戸・北九州・富山・日本YMCA同盟北海道の各YMCA勤務。その他、大学の講師として「集団組織論」、「基礎作業学レクリエーション演習」、「国際ボランティア論」、「国際関係論・国際交流論」等を担当。
社会活歴: 人間講座主宰(ロビンソンデパート)
研修歴: 感受性訓練(JICE)、交流分析(TAT)受講。
著作: 「職業と人間形成」(共著)(日本YMCA同盟出版)
「神戸とYMCA百年」(神戸YMCA)
「ボランティア論」(青葉書店)
「国債理解 重要基礎用語300」(共著)(明治図書)

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