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「五穀豊壌記」に続き、阪崎さんの新シリーズも月1回でスタート致します。
筆者の阪崎さんは70才になりますが、気力ますます充実。今年ラジオのパーソナリティーとしてデビューし活躍を始めております。また、美術解説者試験にも見事合格し、道立近代美術館で絵画に関しての解説の社会活動もされております。
新シリーズ「3ミリメートルの悦楽」は、読む力、理解し考える力、行動する力を読書と本を通して鍛えることを提唱するものです。言わば毎日継続するそれぞれの1ミリメートルを積み重ね“1日3ミリメートルの前進を喜ぶ”大切さを考えて頂きたいと思います。きっと明日はもっと良いことがありそう!と感じられることでしょう。
どうぞお楽しみに。

3ミリメートルの悦楽

■9.「生徒の一冊のノートに学ぶ教師の道」
生かされて生きる原点に返って(前編) さかざき けんじろう

阪崎 健治朗

1 初めての登校

朝、自宅を5時50分に出て、私鉄に乗り、20分ほどで終着駅に着く。すでに大阪駅は出勤の人たちでターミナルとプラットホームはごったがえしている。そこから地下鉄に乗り換え、5、6分乗ると、また別の私鉄への乗り換えが待っている。コンコースを走り抜けながら、発車に間に合うように人の波を掻き分けやっと電車に飛び乗る。少し落ち着けるのはこの田園地帯に向かって走る車中の40分間だ。大阪の郊外にある小さな駅、そこが目的地である。もう8時近くだった。

いまから45年前のあの日、ぼくは、こうして長距離であろうがいとわず、希望に燃えて学校に向かっていたのである。少し傾斜のあるだらだら坂をゆっくりと上りながら、10分足らずで学校についた。歩く道すがら、ぼくを追い抜いていく中学校の子供たちは、誰もぼくがその学校に赴任する教師だとは気づいていない。そのせいか、子供たちから「おはようございます」といった挨拶を受けることはなかった。しかし元気がよく健康そうな子供たちが夢中で友達と話し合いながら、笑いながら、ぼくを追い越して次々と学校の門をくぐって行った。そんな彼らに比べ、ぼくは・・と言えば、周囲を見渡す余裕などない極度の緊張の中だ。ようやく学校にたどり着いたときには、まるで長旅でも終えたようにだるい疲れを覚えるほどだった。

それは、小さなマッチ箱のような中学校。1学年1クラスしかないこじんまりした学校で、先生も小さな教員室に7〜8人、それぞれ壁に向かって座っていた。型どおり校長先生に挨拶を済ませ、全員の先生にもやさしく迎えられて、少し精神的にも落ち着いてきたとき、生徒も先生も全員少し広めの教室に集まっていった。言われるままに、教室に入る。そこで礼拝をするのであった。子供たちは大きな声で賛美歌を歌い、聖書を読み、先生方が交代で「ためになる話」を子供たちに話していた。子供たちは約150名程度、みんな静かにその時間を過ごしていた。その日の子供たちは見かけない若い先生が端に座っていたのを奇異な目で眺めながら礼拝をしていたのに違いない。そして紹介を受けた。その日から、ぼくは2年生の担任となった。

大学で英文学を学び、教員免許も持っていたが、ぼくの受け持ちは英語ではなかった。颯爽としたいつも笑顔の素敵な先生が英語を担当していて、僕の出番はなかった。で科目は今先生がいない科目があるので、それを担当してほしいといわれ、なんと「保健体育」と「書道」そして「絵画」だった。

それでもぼくは何一つ不満を感じることはなかった。それよりもクラスをどのように運営していくかで、すでに頭の中はいっぱいだった。子供たちの前でどんな挨拶をしたかは、もう記憶の中にはない。だが、こうして新任教師の初日が始まったのである。

2 教員への道へ

ぼくは高校を5年かかって卒業した。その間の2年間は病気による休学で、学校に通える状態ではなかった。病気になる前、社会科を教える先生の一人に最も印象に残っているH先生がいた。2枚目の温厚な方で、とても紳士的。いつもパリッとした背広を着て教壇に立たれていた。生徒には人気が高く、ぼくはこの先生に学んだことで社会科が好きになり、いつの間にか先生全体に好印象を受けるようになった。さらに人間、人格への憧れのようなものが生まれてきたのだった。多感な時代のぼくの目には、一人の教師からの「自分の学ぶ姿」が、そのまま「自分が教える」という将来の理想となって見えていたのだろうか。考えてみれば、いたって単純な動機だったと言えるのかもしれない。だが本当のところ、理想とまではいかなかったようにも思う。強いて言えば“このような大人になりたい”と無意識に描いた人間像のようなものが、そのまま教師になりたいという希望と重なったように思う。そして教員になる夢は、ぼくの心の全体を占めるようになった。

しかしその願いや夢が途中でへし折られたのである。風邪をこじらせた不摂生が大病へと進み、とうとう2年間、自宅で療養する羽目になった。それ以後このH先生とは会うこともなく、闘病中にどこかに転勤されてしまった。体力や学力を取り戻すにはこの2年は大きな痛手だった。2年の空白は自分の未来を厚い扉で閉ざされたような挫折感に打ちひしがれた。「生きる希望」さえ奪い取られた思いで毎日天井を見つめる生活だった。

だが不思議なもので少しずつ回復するにつれ、諦めかけていた自分の夢の再現があるかもしれないとわずかな希望がのぞき始めた。やっと2年遅れで高校を卒業し、まず小さな短期大学で英文学を専攻した。この2年間はあっという間に過ぎていった。卒業が近づいた頃学長から「残って少し研究をしてみないか」との親切なお勧めもあったが、どこかに教師への足がかりに未練があったためか丁重にお断りをして、小さな貿易会社に入り、いわば自分で勝手に待機しているような日々を送っていた。しかしこの「教員になる」という執念のような頑固さがすっかり住みついてしまい、先の見通しのないまま、わずか3ヶ月で会社を辞めてしまった。

収入の道が途絶えたどん底の生活をわずかに支えたのは、近所の子どもに勉強を教えることしかなかった。2〜3年が過ぎていった。ところが不思議なことが起こった。まさに天からの授かりものか、たまたま購読していたキリスト教新聞の片隅に、「教員募集」という小さな広告を発見したのである。もうこれにかけるしかないと思うと、後先も考えず、とにかくすぐに行動に移した。一も二もなく押し込み強盗のように3時間かけてその学校に出かけたのである。さて、面談の校長先生だが、すでに校長先生のおつむには髪の毛が1本もなかった。しかし温厚な中にもどこか毅然とした教育者としての威厳と深い信仰心のあふれるような高潔さを感じた。優しく面談を受けたものの「あなたの学んだ科目はここではありません。ただ科目としては、・・・それでもよろしいか」と先に挙げた科目を提示してくださった。

本来なら、専攻科目が違うしお断りするべきなのだろう。だが採用していただいたら後は何とかなるといった強い必死な思いがあった。もう少しで自分の手の中に入りかけている希望をなんとしてでもガッチリ掴みたいという情念のようなものなのか、ぼくのあまり得意でない強引さ、押しの強さが、とっさに出てきた。「給料もささやかなものですよ」と言われたが、僕は提示されるすべての条件に不満もなく、何一つ注文をつけることなく、ひたすら採用を願い入れた。今にして思えば、資格も違うし、これといった取り得のないぼくを迎え入れてくださった校長先生の善意としか言いようのない採用だった。ただひとつ、あえて条件を満たしていたとすれば、すでに数年前にキリスト教の洗礼を受け一番熱心に教会に通っていた時期でもあり、ミッション系の中学校の条件に合っていると校長先生は受け止めてくださったのであろう。採用の理由など他にあるはずもない。だから今でも感謝の念が尽きない。

それからというもの、ぼくは今日までずっと絵画を描いてきた。絵画は一番の趣味になった。書道は数年基礎を習ったから好きな部類のひとつだが、保健体育ときたら,教科書だけでなく、実技も伴う。鉄棒の逆上がりくらいはできても、口で体育を教えるほどの力量もあるとは思えない。焦りと非力さに神経は高ぶるばかりだった。しかも3学年とも教えるのだから。それでも救いはあった。毎日明るく元気に飛び跳ねる子どもたちと触れ合うことのできる喜びだった。授業の進め方、クラスの運営の仕方、子供と信頼関係を築くために教師はどうあればよいか。幸い学習してきた教員課程科目を復習しつつ、子ども会やボーイスカウト運動の指導者として地域でボランティア活動を続けてきた小さな経験をフルに生かしてやろうとどんどん夢が広がっていった。そのとき、はたと気づいたことがあった。どんな教師になろうとしているのか、ということだった。二つの信念をもった。

一つは戦時下で小学校低学年をすごした際、教師から平気で理不尽な扱いを受け、連帯責任も含めて何度も木刀や板の出席板で殴られた経験から、生徒に暴力を振るうことや威嚇するような言動は絶対しないこと、もう一つはこれも高校時代の経験から、職員室で大勢の先生がいる中を大声でしかられ、周囲の冷たい無言の視線を屈辱的に浴びた思いが、頭の片隅に残っていたこともあったことから、生徒を叱るときには、校庭の片隅に張られた芝生の上で向き合って話し合い、考えあいながら解決しようと、心に決めていた。

3 赤茶けた1冊のノートからみたもの

担任になってみんなの名前を覚えるのにそう時間はかからなかった。何しろ小さな学校だから、すぐ全校生徒の名前は覚えられた。3課目を担当しつつ、クラスのホームルームを運営するのが日課だった。一人一人のことがだんだんとわかってきた。友達は誰か、どんな家庭で育ってきたか、気持ちのやさしい子や腕力がある粗野の子など、手に取るように理解することができた。中に色の白いかわいい男の子がいた。時々咳をして次第に苦しそうにぜいぜいして勉強どころではなかった。幼いときからの喘息だったようだ。もう我慢ができないと思ったとき、ぼくはその子を背負って病院まで連れて行ったことがあった。ヒーヒーと苦しそうな音を発しながら、空気を吸ったり吐いたりして懸命に苦痛に耐えている息遣いが、今でも鮮明にぼくの背中に残っている。さぞ苦しかっただろうと思う。だが、ぼくには気にかけ注意をはらう以上は、どうしてやることもできなかった。それでも何とか頑張って卒業していったが、それから何年もたたないうちに、その子が亡くなったことを伝え聞いた。

また50人以上もいる子供たちのこと、いろんな個性の生徒たちがいた。みんな助け合って楽しい雰囲気のクラスだった。知的障害の子供もいた。授業時間中も静かにしっかりこちらを見て、懸命に勉強に取り組んでいる姿が印象的だった。ぼくはその子に励まされたことを今も忘れない。

この中学校は先生もみんな同じように優しく、生徒はどの先生も好きだったように感じた。こうした強い信頼関係と先生方の熱意は子供たちにとっては、実にのびのびとしたすばらしい環境だった。たった150人ほどしか入らない校舎だから人数も増やせない。質の高い受験勉強をガチガチにするといった教育よりも、キリストの精神に従い、人に優しい人間を創り、一人一人を大切にするといった精神性の高いところに目標を置いた学校であることがだんだんと分かるようになった。

手元に1冊の赤茶けた小さなノートがある。45年前のあの中学校の2年生の子が書いた雑記帳である。かれこれ20年も前だっただろうか卒業後一度再会したことがあった。そのとき「せんせ、あのときのノート今も大切に残しているんよ」と話してくれた。この原稿を書くにあたって、ふと思い出し、つい先日お願いして送ってもらったのである。そこには子供らしい字で自分の心の動きをしっかり書いてあった。読み進んでいくうちにタイムスリップして、当時の自分の未熟な教師像が浮かんできた。微かに心を痛めながら読み進んでいった。「この子」が体験した学校の中の小さな出来事、その中にさまざまな人の間で起こる葛藤や悩み、教師としてのぼくに対することなど、小さなハートを随分痛めていたことが数ページにわたって書かれていた。それは、SOSの発信だったのだ。当時、ぼくなりにまじめに解答を書いてはいたのだが、今、手にしたこの小さなノートからは「この子」の悩みを一緒に考え、苦しさを共有するような温かみのある姿が見えてこなかった。ぼくの中から、少しずつ理想の教師像が崩れていくような気がしてきた。それでも本来なら捨ててもよい何でもないこのノートを生涯の宝のようにずっと残してくれていたのは、「この子」にとってかけがえのない大切な青春でもあるのだろう。いろんな波をくぐりながら、一歩ずつ成長していく「この子」の心が小さなノートの中に感じ取れるのである。もしぼくが、ノートを通してさまざまな人間模様を知らなかったら、とてもクラスをまとめることができなかったかもしれない、と思うと一所懸命書き記してきた「この子」をはじめ多くの仲間たちが書いたノートは決して無駄な作業をさせたことではないと、今でも確信する。そう考えると、新米の教師にとってもこのノートはぼくと言う人間を育くんでくれた宝物であったのである。

新米の教師はしなければならないことが山ほどあった。分かっていてもそのとおりに進むことのできない焦りが、余計に生徒との間に距離を作ってしまう。これは教師の陥る落とし穴でもある。

ぼくがクラスで最初に手がけたことは、いかに早く子供の心をつかみ、互いに理解しあい、教師と生徒との間にしっかりしたラポールができるか、またどうすれば生徒同士の絆を作るか、その方策を編み出すことであった。ぼくは全員に「落書帳」と題するノートを持たせた。「そのときに感じたこと、気になったこと、先生に話したいこと、人には言えないことでも、何でもよいからノートに書いてごらん。そして、もしぼくに読んでもらいたいと思ったらぼくの机に黙っておいて帰りなさい。必ず返事を書いて返すから」と約束した。子供たちはその日にあったこと、感じたこと、家庭のこと、さまざまな心のうちを正直に書いて出してくれた。ぼくの机の上は、小さなノートが山と積まれた。読み切れないノートは毎日自宅に持ち帰り、夜中までかけてしっかり読んで必ず翌日には返した。たとえつたない文章であっても、頭に浮かんだ様子を懸命に書き記していく子供たちの姿を想像すると、手を抜くことなど出来なかった。短いコメントしかかけないが、そのことが生徒と先生の絆を結びあわす一助となったことは言うまでもなかった。もちろんまったく書かない生徒もいたが、それは自由だった。

クラスは、大きく変わっていった。

=2回シリーズ。次回、後編につづく=

阪崎健治朗HP http://www16.ocn.ne.jp/~com212/

■筆者プロフィール
阪崎 健治朗 SAKAZAKI KENJIROU
生年月日: 1935年(昭和10) 12月25日
学歴: 日本大学文理学部英文科(通信)卒業
職歴: 中学校教諭を経て、神戸・北九州・富山・日本YMCA同盟北海道の各YMCA勤務。その他、大学の講師として「集団組織論」、「基礎作業学レクリエーション演習」、「国際ボランティア論」、「国際関係論・国際交流論」等を担当。
社会活歴: 人間講座主宰(ロビンソンデパート)
研修歴: 感受性訓練(JICE)、交流分析(TAT)受講。
著作: 「職業と人間形成」(共著)(日本YMCA同盟出版)
「神戸とYMCA百年」(神戸YMCA)
「ボランティア論」(青葉書店)
「国債理解 重要基礎用語300」(共著)(明治図書)

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