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「五刻豊穣記」「3ミリメートルの悦楽」「恐竜の虫めがね」に続く、さかざき君の新シリーズ4が始まりました。複雑に入り組んだ現代社会の迷路の中で、ともすると迷子になってしまいそうな個人。より大きな、更にもっと大きな幸福や満足を貪欲に求める社会の風潮に、筆者は幸せの大小をもう一度考えてみるのです。今シリーズも「考える手紙」がテーマ。どうか読者の皆さんにも一緒に考えていただきたいと思います。悩みながらもしっかりと前進する高校生、大学生、社会人のみなさんにとって新シリーズが“明日の自分を考える”きっかけになればと思います。隔月掲載の6回シリーズ、どうぞお楽しみに。

蟻たちの幸福な足音

■3.アイヌ叙情詩集を残した薄命の少女       さかざき けんじろう

阪崎 健治朗

北海道に住む人々の間でさえ、この人の名前を知っている人はそう多くはないでしょう。

「知里幸恵」(ちりゆきえ)。1903年(明治36)6月8日登別で誕生、わずか20歳にも満たない19歳と3ヶ月の若いいのちを閉じました。1922年(大正11)9月19日のことでした。幸恵は東京のアイヌ研究家で言語学者の金田一京助博士から懇願され、病弱の身を知りながら博士宅に寄寓し、「アイヌ神謡集」を翻訳し続けてきました。蝕まれていく命をいとおしみながら、先生からの課題を見事に仕上げて、そのときを待つかのように、宝石のような詩集を残して永遠の旅路に向かったのです。最期を看取った金田一博士は幸恵が書き上げた詩集の出版を見ずして逝ったことへの深い悲しみにふれ、こう記しています。

「今雑司が谷の奥、一むら椎の木立の下に、大正十一年九月十九日、行年二十歳、知里幸恵之墓と刻んだ一基の墓石が立っている。幸恵さんは遂にその宿痾(しゅくあ)の為に東京の寓で亡くなられたのである。しかもその日まで手を放さなかった本書の原稿はこうして幸恵さんの絶筆となった。種族内のその人の手になるアイヌ語の唯一のこの記録はどんな意味からも、とこしえの宝石である。唯この宝石をば神様が惜しんでたった一粒しかわれわれに恵まれなかった。大正12年7月14日京助追記」と「アイヌ神謡集」末尾に残しています。

珠玉の一粒の滴のような「アイヌ神謡集」は13編からなっており、左の頁にアイヌ語をローマ字表記され、右の頁に和文訳を叙情豊かに謡われています。その最初の詩が「銀の滴降る降るまわりに」です。

梟の神の自ら歌った謡
「銀の滴降る降るまわりに」

「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに。」
という歌を私は歌いながら流に沿って下り、
人間の村の上を通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持ちになっていて、昔のお金持ちが
今の貧乏人になっている様子です。
海辺に人間の子供たちがおもちゃの小弓に
おもちゃの小矢をもってあそんで居ります。
「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに。」
という歌を歌いながら子供等の上を通りますと、(子供等は)
私の下を走りながら言うことは、
「美しい鳥! 神様の鳥!
さあ、矢を射てあの鳥
神様の鳥を射当てるものは、一ばんさきに取った者は
本当の勇者、本当の強者だぞ。」

アイヌの人々は明治維新後急激に侵入してきた和人によって半ば強制的に支配権と先住権を奪われます。それだけでなく静かで穏やかな独自の生活までもが奪われ、自分たちの言葉使用も禁じられます。日本人に同化する政策に組み込むためなのです。かつて日本が中国や朝鮮の人々に対して徹底して日本語使用を強制したように。そのころ北海道の人間の歴史を語る上でアイヌを避けては通れないと考えた金田一博士は36歳のとき、いきなり北海道にわたり、生涯アイヌの研究を決意し、知里幸恵を訪ね、アイヌの人々が営々と守ってきたアイヌの伝統文化を残したいと考え、手伝ってくれるように要請します。

幼くして才媛の幸恵は、理知的で向学心があり、いつ学習したのか完璧な日本語を習得していました。ゆえあって幸恵は実母に育てられず、姉のマツに育てられます。おばはキリスト教の伝道師として布教に当たりながら温かい思いで育てていったことが窺えます。乳母のマツは幼い幸恵のことを思い出し、才媛で、作文は一番、ほとんどの科目は甲上、甲上上、それに美文で、誤字、仮名遣いの誤りはひとつも見出されない、と最高の賛辞を送るほどでしたから、その才能を見込んだ金田一先生の慧眼は見事です。

アイヌの人々は先住民族としての誇りとその誇りを棄てさせた和人たちへの悲しい屈辱感の中を金田一先生だけは真摯にアイヌのことを深く憂慮し、伝統文化を後世の遺産として生き続けることを熱望していただけに深い尊敬を集めていました。「アイヌ神謡集」はこうして幸恵に託されたのです。しかし、幸恵は生来心臓に不安を抱え、自らの命のそう長くないことを心に感じつつも、この大役を受けて取り掛かります。先生と幸恵の書簡の往復は頻度を増す中、思い切って先生は幸恵を家族の一員のように東京の自宅に迎え、そこで専心させます。それは幸恵の迫りくる死の年の5月のことでした。消えかかる蝋燭の灯のように最後の力を振り絞るように訳し続け、ついに手書きの作品は完成します。そして作品を見届けるようにわずか4ヶ月の寄寓の生活を終え、9月すべてとの別離となったのです。

翌年の8月には出版され墓前に捧げられました。悲しみの先生はその後もアイヌの研究を黙々と続けられ、1971年(昭和46)11月、89歳の天寿を全うされました。金田一京助の名は「知里幸恵」とともに人々の間に長く刻み残されていくでしょう。

詩集を作成するにあたって幸恵は次のような言葉を書き残しています。北海道に住み、又北海道に旅する人々に与えてくれたアイヌの人々の心の優しさや思いは小さな叙情詩集に込められています。自然は神様からの贈り物だと信じへりくだる思想、これを『コタン・カラ・カムイ』というそうですが、アイヌの人々は人間もまた自然の一部だと考えていることの意味を噛み締めておきたいものです。多くのことを書かなければ理解したことにはならないことを承知していますが、本の断片をかじっただけでこの紙上に載せる浅薄で無恥を赦していただいて、どうかご寛容の上でお読みくださればと念じています。

知里幸恵には13歳年下の弟・真志保がおり、後に北海道大学の教授としてアイヌの研究家としても著名です。僕が「アイヌ神謡集」の一部を紹介したいと思ったのは、わずか20歳にならない薄命の少女が人間の優しさを持ち合わせながら、それでもアイヌの人々が大切にしていることを万感を込めて伝えようと書き残した豊かな叙情を感じたからです。そしてまた人は生きた時間の長さもさることながら、それよりも生の時間をどう過ごしたかの方がもっと大切だということを教えられた思いを強くしたのです。

「時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出てきたら、進みゆく世と歩を並べる日も、やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮れ祈っていることで御座います。

けれど・・・・愛する私たちの先祖が起伏す日ごろ互いに意を通ずるために用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失させてしまうのでしょうか。おおそれは余りに痛ましい名残惜しいことで御座います。

アイヌに生まれアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打ち集まって私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極小さな話の一つや二つを拙い筆に書連ねました。

私たちを知ってくだされ多くの方に読んでいただくことが出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共に本当に無限の喜び、無上の幸福に存じます。大正十一年三月一日 知里 幸恵」

知里幸恵が「アイヌ神謡集」に巻頭に書き残した名文です。ここにすべてが包含されているのではないでしょうか。

参考資料 「アイヌ神謡集」 知里幸恵編訳(岩波文庫 1978年8月16日)
「銀のしずく降る降る」 藤本英夫著(新潮選書 1973年11月25日)

阪崎健治朗HP http://www16.ocn.ne.jp/~com212/

■筆者プロフィール
阪崎 健治朗 SAKAZAKI KENJIROU
生年月日: 1935年(昭和10) 12月25日
学歴: 日本大学文理学部英文科(通信)卒業
職歴: 中学校教諭を経て、神戸・北九州・富山・日本YMCA同盟北海道の各YMCA勤務。その他、大学の講師として「集団組織論」、「基礎作業学レクリエーション演習」、「国際ボランティア論」、「国際関係論・国際交流論」等を担当。
社会活歴: 人間講座主宰(ロビンソンデパート)
研修歴: 感受性訓練(JICE)、交流分析(TAT)受講。
著作: 「職業と人間形成」(共著)(日本YMCA同盟出版)
「神戸とYMCA百年」(神戸YMCA)
「ボランティア論」(青葉書店)
「国債理解 重要基礎用語300」(共著)(明治図書)

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