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・=ぶつかった方が、いいよ。=「五刻豊穣記」さかざき君のコラム
・=ぶつかった方が、いいよ。=「五匹の猿を退治しろ!」うずまさ君のコラム


“強くなくては生きていけない、優しくなくては生きている資格はない”
どこかで目にし、耳にしたちょっと有名なセリフです。
心のビタミン・コラムは、中学生、高校生、大学生の諸君には、これからのキミの生きていく未来を考えるきっかけに。
すでに社会に出て活躍されている方、あるいは多少失意の中にある方には、もう一度、自分を考えてみる端緒に。
そして、長い間会社や社会につくされ、おおいなる安息の日々を過ごされている方には、来し方に思いを馳せ、より良き明日の活力にして頂ければと念じて、連載いたします。隔月で交互にお楽しみいただけます。

五匹の猿を退治しろ!

■第2講 「言わ猿」は一生の不覚 うずまさ やすのり

太秦 康紀( 電車を降りた所で、私は意を決し彼女の肩を軽くたたいて声をかけた。しかし振り向いた彼女の顔を見ると私はすっかり上がってしまい、次の声が出なくなってしまった。
 彼女はすごく不安そうな顔をした。私はやっとの思いでおよそ次のようなことを言った。
「突然声をかけて失礼ですが、一度お茶を飲んでいただけませんか」
 平凡で気のきかない台詞だったが、彼女はニッコリ笑ってくれた。ほっとした私は慌てて名刺を差し出した。
「明日まで考えさせて」という彼女の返事を聞いて、私は踊るような足取りで家に帰った。そしてその日の日記にこう書いた。「遂に突破口を開いた。万歳!」 )


 僕はいわゆる「良い家のボンボン」として育った。坊ちゃん育ちにありがちなことだが、家の中ではヤンチャ坊主、外へ出るとまるで意気地なしというわけで、典型的な内弁慶の子供だった。学校へ行くようになってもからきし意気地なし、緊張して教科書の朗読さへろくに出来ない有様だった。先生の言うことはよく聞くお利口さんではあったが、体も小さくて、それ相応に精神的にも幼かった。どちらかというと覇気に乏しく、頑張り屋にはほど遠い性格だった。まあ、特に目立つこともなく、問題も起こさず、勉強は出来もせず、出来なくもない、つまりごく平凡な少年であった。僕が小学校から中学校にかけての時代は、世の中が激しく移り変わった時代である。小学校に入った年が太平洋戦争の始まった年。それまでの小学校は国民学校と改称され、僕らは小国民と呼ばれるようになった。いわゆる戦時体制へと進んで行ったのだ。やがて戦争は日本の敗色が濃厚になり、北海道が空襲を受ける前に敗戦という形で戦争は終わった。僕が小学校5年の時だった。米軍が進駐してきて、日本はその占領下に置かれた。食べるものも、着るものもろくにない、哀れな時代だった。「ギブミーチョコレート」と米軍キャンプへお菓子をもらいに行って、相手にされず追い払われた。

 小学校6年の時、教育制度が変り新制中学が出来ることになった。入学試験があるのかないのかハラハラしたが、結局無試験で中学に入学出来た。高校に進学する年から、公立高校は男女共学になった。高校入試は何とか合格したが、後から調べてもらったら成績はビリの方に近かった。綱渡りながら何となくうまく行くので、世の中「何とかなるものだ」と甘く見ていたら、遂に罰が当たって大学受験に失敗してしまった。親父はその大学の教授だったので、生涯最大の親不孝をやらかしたわけだ。それでも発奮するでなし、浪人生活の前半をパチンコ三昧で過ごし、後半に至って「これでは二浪になる」と急に慌てだして、やっとの思いで二浪を免れた。文系を選んだのは、数学がまるで苦手だったからである。

 当時大学では2年間を教養学部で過ごし、3年目から専門の学部を選択する仕組みになっていた。僕は2年間の教養時代を喫茶店通いで過ごし、どの学部に行きたいという積極的な意思もなかったが、就職のことを考えて漠然と経済学部を選ぶつもりだった。ところが教養時代、どういうものか経済関係の成績が悪く、法学関係ばかり良い点を取れるので、「それじゃあ法学部にしよう」と方向転換してしまった。自分の進路についてもこんな調子で、自主性のないことおびただしかった。最近の若者たちが、自分のやりたいこと、つきたい仕事などをはっきり口にするのを見聞きすると、偉いもんだと感心してしまう。

 平凡な学生生活を終え、将来親の面倒を見なければならないと思った僕は、地元の安全な企業ということで銀行を就職先に選んだ。それまでの人生を、いわば成り行き任せ、事なかれ主義で送ってきた僕は、就職の時もそんな具合で、「入れてくれればどこでもいいや」という感じだった。別に銀行員になりたくて銀行に入ったわけではなかった。だが、社会人になって数年経った時、さすがにこれじゃあ駄目だと思いだした。この辺で自らの意思でものごとにぶつかって行かなければ、僕の人生は一生受身に終始してしまう。生き方を変えなければと、遅まきながら強く思うようになった。その頃30才近くになっていたが、まだ独身で、お相手すらいなかった。同期入行の仲間は全員結婚していた。まずは配偶者を自分で決めることから始めようと、僕は決心した。かなり前から、通勤電車で毎日顔を合わせる好もしい女性がいた。何とかこの人と知り合いになりたい、思い切って声をかけよう、そうしなければまたもや「事なかれ」で終わってしまう。いつもそう思いながら、声をかける勇気がないままに時が過ぎて行った。僕は毎日焦っていた。そんなある日、銀行の人事異動が発令された。僕は本店から、その電車を利用しない支店に転勤になってしまったのだ。明日から新しい支店に行くという最後の日、僕は決死の覚悟で彼女に声をかけたのだった。今の若い諸君からすれば、そんなことも出来なかったのかと笑われるかもしれない。しかし今から40年以上も前のことだ。軽々に女性に声をかけられた社会ではなかった。だから僕にとって、それは大変な出来事だったのだ。

 この時も勇気を出せずに、「言わざる」を決め込んでいたら、以後僕はずっと「言わ猿」になってしまったような気がする。少なくとも、後に会社を経営し、間もなく70才になろうとしている今も、まだ何か新しいことにぶつかってみたいと思っている僕は存在しなかっただろう。

 ところで冒頭の文章だが、これはある文章コンクールに応募して、秀作賞をもらったエッセイの一節である。「駅」という課題で書いたこの作品は、通勤電車の駅での出来事を綴ったものだが、その事情は上記の通りである。付け加えれば、いろいろ紆余曲折はあったものの、この女性は3年後無事僕の妻になったのであった。


■ 仕事での大切な局面で、重要事項ほどなかなか言い出せないことがあります。特にこうした時ほど「言わ猿」退治が必要なのです。善意と正義と勇気を持って行動しましょう。著者 太秦さんのHPには、こころ暖まる公開日記などが楽しめます。
こちらからどうぞ。

太秦康紀HP http://www.rak3.jp/home/user/monkey69/


■筆者プロフィール
太秦 康紀 UZUMASA YASUNORI
1935年02月: サッポロで生まれる。
1958年03月: 北大法学部を卒業、4月に北海道銀行へ入行。
約28年間の銀行員生活を経て、1985年11月同行退職。
1985年11月: 医薬品問屋、(株)寿原薬粧の社長に就任。
1991年04月: 同業7社の合併によって誕生した(株)バレオの副社長に就任。
1996年06月: 同社常勤監査役に就任。
1999年04月: 再度の合併で社名は(株)ほくやくとなり、引き続き監査役。
2000年06月: (株)ほくやく監査役を退任。
2000年08月: 太秦事務所を設立、所長となる(経営コンサルタントを自称)

著作: ・しなやか散歩道(1995年2月 近代文芸社)
・しなやかれすとらん(2003年4月 北海道新聞社出版局)
・北海道新聞「朝の食卓」1998〜99年執筆
その他: 現在家庭裁判所家事調停委員、(株)スハラ食品監査役
(株)芭里絵監査役などを勤め、他に講演、文筆など気ままに活動中。
血液型 AB型、星座 うお座(たまにみずがめ座)、動物占いでは落ち着きのない猿。趣味は、映画鑑賞 格闘技鑑賞 ゴルフなど

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