心のビタミン・コラム バックナンバーはコチラ

・=ぶつかった方が、いいよ。=「五刻豊穣記」さかざき君のコラム
・=ぶつかった方が、いいよ。=「五匹の猿を退治しろ!」うずまさ君のコラム


“強くなくては生きていけない、優しくなくては生きている資格はない”
どこかで目にし、耳にしたちょっと有名なセリフです。
心のビタミン・コラムは、中学生、高校生、大学生の諸君には、これからのキミの生きていく未来を考えるきっかけに。
すでに社会に出て活躍されている方、あるいは多少失意の中にある方には、もう一度、自分を考えてみる端緒に。
そして、長い間会社や社会につくされ、おおいなる安息の日々を過ごされている方には、来し方に思いを馳せ、より良き明日の活力にして頂ければと念じて、連載いたします。隔月で交互にお楽しみいただけます。

五匹の猿を退治しろ!

■第4講 動か猿では結果は出ない うずまさ やすのり

太秦 康紀(宮城県串間市の幸島で、霊長類研究所の研究者たちがニホンザルの餌付けを始めました。彼らが餌付けに成功して1年後に、1匹のメスの小猿が何を思ったのか、餌のさつま芋を川の水で洗って食べ始めました。ところがこの行動が猿たちの間に急速に広がって行ったのです。川の水が枯れたある年のことです。猿たちは川の水がないので、海水で芋を洗って食べるようになりました。塩味の芋もなかなかいけたのでしょうか。海水で芋を洗う行動もたちまち多くの猿に広がって行きました。幸島で猿の芋洗いが始まってからしばらく後、遠く離れた大分県高崎市の猿たちにも芋を洗って食べる行動が広がっていることが分かりました。この現象について、アメリカの科学者、ライフ・ワトソンは「幸島で芋を洗う猿の数が一定の臨界値(100匹)を超えると、その行動は遠く離れた場所の猿にも伝わるのではないか」と考え、これを「百匹目の猿現象」と名付けたのです)

「社長を引受けてくれませんか」
 突然そういう話が来たのは、昭和60年の秋だった。当時の僕は単なる銀行員。社長になることなど夢にも考えていなかった。事情はこうだ。その少し前、薬品問屋の社長をしていた義弟が病に倒れた。病名は脳内出血だった。緊急手術が行われ、手術は成功したが意識は戻らなかった。意識が戻る可能性は五分五分と医者から言われたが、日にちが経過しても、なかなか回復の兆しは見えなかった。そういう状況下での話であった。

 社長が病に倒れ、復帰の可能性が見えてこない中で、会社としてどう対応したらいいかということは、その会社にとって緊急の課題であっただろう。その結果、義兄の僕に白羽の矢が立ったのだ。当時僕は銀行の融資部というところで、審査担当の次長をやっていた。融資畑を中心に歩いてきた僕の経歴から、取りあえずのリリーフ投手ぐらいは勤まるのではないかと思われたのかもしれない。その上、社長不在で危機にある会社にとって、後任社長を決めることは緊急を要することだったので、受けるか否かの回答は1週間ぐらいでもらいたいという要請だった。断られたら別の手を考えなければならなかったのだ。そう言われても、これは僕にとっては以後の人生を根本的に変えかねない問題である。簡単に「はい、お受けします」というわけには行かない。そうかといって、会社の現状を聞けば簡単に「いやだ」というわけにも行かなかった。何しろ他人と違って義弟のやっている会社なのである。「受けるべきか、受けざるべきか」、僕は頭を抱えて考え込んだ。ハムレットの心境であった。だがいつまでもハムレットを決め込んでいるわけには行かなかった。ことは緊急を要したのである。

 人間は考える動物であると言われる。だが考えているだけでは何も起きない。考えるのは自由だから、何を考えてもいいのだが、一日一杯あれこれ考えていても、例え百日間考えていても、それだけでは世の中は何も変らない。どんな小さなことでも、行動して初めて結果が出るのだ。考えているだけでは、例えそれがどんなに素晴らしい内容であっても何の結果も出てこない。逆に取るに足らないようなことであっても、とにかく行動すれば何らかの結果が出るものだ。
 僕の場合も、いくら考えても良い知恵が浮かんでくるわけもなかった。それは安全な道を行くか、もしかしたら面白くてやりがいのある、だがリスキーな道を選ぶかの決断の問題だったのだ。銀行員という、今まで長い間歩いてきた、先の見通しもある程度見える手馴れた道を歩いて行くか、今まで歩いたこともない、先の見通しも全く見えない、何が潜んでいるか分からない道に踏み込むか、どっちの道を行くかそれは僕自身の問題だから、他人に相談してみても仕方のない問題だった。

 突然降って湧いた「社長」という仕事は、棚から落ちてきたぼた餅のように、一見美味しそうなものだった。だが本当に旨い餅なのか、美味しそうに見えても実際はあまり美味しくない、場合によっては腹を下してしまうかもしれない餅なのかは、食べて見なければ分からないことだ。いろいろ集めたぼた餅に関する情報からすれば、後者である可能性も十分にあると思われた。しかし食べなければどうなるのか。「きっと旨かったに違いない」、「食べてみればよかった」、「どうして食べなかったのだろう」、「あんな旨そうな餅には二度とめぐり合えないだろう」・・・、僕はそれからの人生で何度もそう考えて悔やむことになるのではないだろうか。一生そうやって悔やむよりは、やっぱり食べて見るべきではないか。結局僕はそう考えて、この申し出を受けることにした。そして薬品問屋の社長になったのだった。

 銀行員という堅苦しい世界を飛び出してみると、そこには予想通り変化にとんだ波乱の道が待っていた。そして僕は銀行員に向いていなかったことを、改めて悟った。知らない業界、知らない会社であれこれ苦労しつつ社長業に取り組みながらも、銀行員だったらとても出来ないいろいろな方面に、積極的に挑戦して行った。大学講師、裁判所調停委員、エッセイスト、作詞家、講演、テレビ・ラジオ出演・・・。自分で言うのもなんだが、銀行を辞めたことによって、眠っていた僕の才能は一気に開花したように思えた。
  もしもあの時、ぼた餅を食べていなかったらどうなっていただろうか。もしかすると、孫のお相手だけを楽しみにしている、ただの寂しい老人になっていたかも知れない。
「ぼた餅を食べてみてよかった」

 僕はつくづくそう思う。ぼた餅はやっぱり旨かったのであった。


■ 考えることはとても大切なことです。「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、人間は考える葦である。」フランスの物理学者パスカルがその「瞑想録(パンセ)」のなかで語った有名な言葉です。筆者の第4講には、その真理が見事に語られています。小さな一歩であっても、決断し一歩前に踏み出すこと、その未知の世界への旅立ちとともに思考、思索が存在するのです。その小さな一歩を踏み出した人の多くは、「ぼた餅を食べてみてよかった。」と思うはずです。それこそ人に与えられた長い時間の意味なのではないでしょうか。

太秦康紀HP http://www.rak3.jp/home/user/monkey69/


■筆者プロフィール
太秦 康紀 UZUMASA YASUNORI
1935年02月: サッポロで生まれる。
1958年03月: 北大法学部を卒業、4月に北海道銀行へ入行。
約28年間の銀行員生活を経て、1985年11月同行退職。
1985年11月: 医薬品問屋、(株)寿原薬粧の社長に就任。
1991年04月: 同業7社の合併によって誕生した(株)バレオの副社長に就任。
1996年06月: 同社常勤監査役に就任。
1999年04月: 再度の合併で社名は(株)ほくやくとなり、引き続き監査役。
2000年06月: (株)ほくやく監査役を退任。
2000年08月: 太秦事務所を設立、所長となる(経営コンサルタントを自称)

著作: ・しなやか散歩道(1995年2月 近代文芸社)
・しなやかれすとらん(2003年4月 北海道新聞社出版局)
・北海道新聞「朝の食卓」1998〜99年執筆
その他: 現在家庭裁判所家事調停委員、(株)スハラ食品監査役
(株)芭里絵監査役などを勤め、他に講演、文筆など気ままに活動中。
血液型 AB型、星座 うお座(たまにみずがめ座)、動物占いでは落ち着きのない猿。趣味は、映画鑑賞 格闘技鑑賞 ゴルフなど

上へ移動↑