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「五匹の猿を退治しろ!」から始まった好評のうずまさ君(太秦康紀)シリーズも早、5年。いよいよシリーズ5に突入です!これまで筆者の温かくも鋭い観察眼から紡ぎだされる言葉の海には、深遠な意味と大切な人生の存在が描かれてきました。自分以外の人やモノ、事柄を語ることで自己の一部を垣間見せてくれました。今シリーズでは、更にこれまで以上に自己と歩んでこられた人生の時間・ご自身のヒューマニティーを語ってくれそうな気がいたします。「厳しく、鋭く、暖かい目」うずまさ・ワールドにはあなたのこれからに必要な知恵と勇気があふれているはずです。新シリーズが、高校生、大学生、そして社会人のみなさんにとって少しでも人生の栄養になっていただければと願っております。隔月掲載の6回シリーズ『何故かボクはいつも時代の変わり目に立っていた』。どうぞご期待ください。

何故かボクはいつも時代の変わり目に立っていた

■3.経験の有効活用が人生の間口を広げる うずまさ やすのり

太秦 康紀

小学校は改正されたばかりの国民学校へ、中学はこれも出来たばかりの新制中学へ、そして高校はその年から男女共学になった新制高校へと、常に時代の端境期を歩んで来たボクだったが、大学は初めて歴史と伝統のある北大へ入学した。ただし北大で歴史と伝統のあるのは農学部を初めとする理系であり、ボクが入ったのはまだ歴史の浅い文系だったから、ここでも端境期の入学といえないこともない。その後2年間の教養時代を経て、法学部へと進むことになるのだがボク等は9期生、当時の法学部は教授陣も揃っていなくて、夏休みになると東大から有名教授が集中講義に来た。お陰でボク等は普通ならとても接することの出来ない我妻栄先生とか鈴木竹雄先生という民法や商法の権威の講義を受けることが出来たのは幸運だった。担保物件法とか手形小切手法が好きになったのはこれらの先生たちのお陰と言える。

さて、昭和29年4月、北大の文系1年4組の教室に集合した新入生たちは一癖ありげな連中ばかりだった。北大では第二外国語としてドイツ語かフランス語を選択することになっていた。ボクは何となく恰好いいフランス語を選択したのだが、大半の新入生はドイツ語を選択し、フランス語を選択したのは4クラスある中の1クラス、つまり4組の学生だけだったのだ。入学した最初の日周囲を見回すと、そこにはやたらに薄汚い学生やら私立大学と間違えたんじゃなかろうかと思うほどお洒落な学生、それにこれが本当に新入生かと思うほど親父臭い学生、そして何だか目つきのやけに鋭い学生など、種々雑多な学生が揃っていた。その中にボクのように、まだ高校生にしか見えないような幼いのも混じっていたのだ。当時は女子学生がほとんどいない時代だったが、ボク等のクラスには7,8人の女子学生が混じっており、その中には当時新聞でも話題になったボク等より一回り年上のおばちゃんまでいるのだった。

女子学生がフランス語を選ぶのは分かるとしても、男でフランス語を選ぶのは軟弱の徒かちょいと変わった奴ということになるのだろうか。確かに何となく変わった面白い連中がこのクラスには集まっていた。中には後に大学を中退して、本物のやくざになった豪の者すらいた。ボクは今もって彼が何を思って国立大学に入ってきたのかよく分からない。

フランス語を選ぶだけあって、クラスには文学かぶれの者も多く、仲間内で数人が集まり詩を書いたり、童話や文章を書いて同人雑誌のようなものをやっているものも多かった。ボクもそんな風潮に影響されて、数人の仲間とともに「ざこね」という同人誌を始めた。同人誌といっても皆が原稿用紙に思い思いの詩や小説などを書いて持ち寄り、この生原稿を綴じて回覧するというものだった。とても同人雑誌などといえるものではなかったが、とに角これがボクの文章修行の発端になったのだ。この雑誌もどきは数号で行き詰まってしまったが、これがきっかけになって、その後もボクはずっと文章の修行を続けてきた。例えば当時文章クラブだとか文芸首都という投稿誌があり、ボクは文章クラブの方を購読して詩や小説を投稿していた。入選して活字になることはなかったが、佳作などに名前が載るのを楽しみにしていたのだ。

文章修行は就職後もずっと続くのだが、これは大学の論文形式の試験を始め、就職後の仕事面でも大いに役に立った。例えば銀行の本部にいた頃、文章にやたらに煩い部長がいて、部員はみな閉口していた。稟議書を回してもみな部長のところでストップしてしまい、大分経ってから赤鉛筆で滅茶苦茶に直されて戻ってくるのだった。このため仕事が停滞してみな困っていた。この厄介な部長でも、ボクの書いたものはほとんどクレームなしに通してくれた。正に芸は身を助けるを地で行った経験だった。これはもっと後のことになるが、長年の文章修行が実を結んで北海道新聞にコラムを書くようになり、更に書籍を数冊出すまでに発展していくことになる。そして70歳になってから始めた趣味の川柳でも、若い頃から続けた文章修行はずいぶん役に立っているのである。

大学の勉強は社会へ出てからは余り役に立たない場合も多い。ボクは最初経済学部へ行くつもりだったが、教養時代に法律の方に興味が移り、結局法学部へ行くことになった。そして大学で学んだ法的な考え方や法律知識が銀行へ入ってから大いに役立ち、やがて銀行における債権管理の専門家、かつ法務担当者ということになったのである。還暦後に就任した家庭裁判所の調停委員としても、法務知識は陰に陽に役立った。更にいえば家裁の調停委員の経験に基づいて本を書き、その上その後テレビコメンテーターという仕事も頼まれるようになる。

振り返ってみると、ボクは一つの経験を必ず次に役立たせるということを繰り返してきた。大学時代の勉強や趣味が、すべて後の社会生活、活動に役立っており、更にその後の経験がまたその次に生きるという連鎖を繰り返すことによってボクの人生の間口はどんどん広がって行った。ボクはかねて「人生三毛作」説を唱えているが、これは経験の連鎖と拡大なしには成しえないことだ。フラフラと遊んでばかりいて、学生時代の勉強や趣味をおろそかにしてはいけないということを、後々の体験を経て改めてボクは実感するのである。


▼ お知らせ ▼

筆者:太秦康紀さんは、平成17年11月に3冊目となる本を出版しました。新風舎文庫「さらりー漫歩」。全国の書店で発売中です。
サラリーマンの喜び悩み、そして生きてゆく知恵と勇気、行動をユーモラスに鋭く描いております。ご自身の体験が底流に流れていますので、一種のドキュメンタリー作品としての側面も持っています。
札幌紀伊国屋書店の「話題の本」「新刊本」のコーナーに置かれています。またHBCラジオや読売新聞などですでに紹介されておりますので、一度手にとってご覧下さい。

「さらりー漫歩」著者::太秦康紀さん
「さらりー漫歩」
定価700円
(新風舎文庫)

太秦康紀HP http://www.rak3.jp/home/user/monkey69/

■筆者プロフィール
太秦 康紀 UZUMASA YASUNORI
1935年02月: サッポロで生まれる。
1958年03月: 北大法学部を卒業、4月に北海道銀行へ入行。
約28年間の銀行員生活を経て、1985年11月同行退職。
1985年11月: 医薬品問屋、(株)寿原薬粧の社長に就任。
1991年04月: 同業7社の合併によって誕生した(株)バレオの副社長に就任。
1996年06月: 同社常勤監査役に就任。
1999年04月: 再度の合併で社名は(株)ほくやくとなり、引き続き監査役。
2000年06月: (株)ほくやく監査役を退任。
2000年08月: 太秦事務所を設立、所長となる(経営コンサルタントを自称)

著作: ・しなやか散歩道(1995年2月 近代文芸社)
・しなやかれすとらん(2003年4月 北海道新聞社出版局)
・北海道新聞「朝の食卓」1998〜99年執筆
・さらりー漫歩(2005年11月 新風舎文庫)
その他: 家庭裁判所家事調停委員、(株)スハラ食品監査役
(株)芭里絵監査役などを勤めた。現在はTVコメンテーター、FMパーソナリティ、講演、文筆など気ままに活動中。
血液型 AB型、星座 うお座(たまにみずがめ座)、動物占いでは落ち着きのない猿。趣味は、映画鑑賞 格闘技鑑賞 ゴルフなど

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